まず単純な事実から。
BANANA FISH及びYASHAは、
新型コロナウイルス感染拡大のため長野との往来ができず、
母が存命中に片付けられるだけのものを片付けなくてはと姉が苦慮していた期間のどこかで、
廃棄されていました。

何を捨てたとかの記憶はないそうです。
ただ、
葬儀以後は忙しすぎて、
本を捨ててる余裕はなかったのは確かだそうで、
約束違反をしたわけではないそうです。





 ゴミに出したのではない。
 本についてはBOOK OFに持っていった。

そうですか。
自分は本をゴミ扱いはしない人間だと言いたいのかな………
なんて、ぼんやり思います。

母の死での慶弔休暇の終わりに姉が甥に言った
「金にならないぞ
 ゴミだ」というのは、
その期間に得た教訓だったのでしょう。
古すぎる本は売り物になりません。
けっこう綺麗に保っていたと思うのですが、
お金に換算するならゴミということです。

そして、
この家にある全てのものは、
姉のものです。
でも………そんなに前に捨てたなら、
まだ店主が買ったものは店主のものだったのだから、
無断で捨てるのはまずくないですか?
と思うのですが、
口にはできないし、
姉も触れません。






相続放棄は
離婚の遠因となった案件です。
二人が暮らした家をそのまま保つには
姉が一人で相続する以外にはない。
姉の理念は「家を守ること」でした。

店主の理念は、
「家はそれを守った人のもの」です。
これは元夫が相続放棄してくれるよう
姑に頼まれたときの姑の言葉で、
その通りだと思いました。
元夫が長野の土地に拘ったのは、
姉も私も嫁いで家を出ていたからと思います。
実際には、
手のかかる母に呼び出されては用を足し、
家を守ってきたのは姉でしたが、
元夫は“守られる”人ですので、
理解できなかったのでしょう。
かっこつけて相続放棄できたのは、
長野の土地があると考えていたからなのかなと離婚の折りには思いました。



今、
あの目眩しちゃいますけど、
この草取り!!


の土地はそれなりの金額で売却できたところですが、
税金その他で残るのはその半分程度になるのではとなっています。
実家の維持には足りるものではありません。
あちこち修理が入るごとに消えていきますから、
ものの数年といったところでしょう。



そう考えると、
体を壊してしまった姉のここまでの尽力に、
諸々の実家維持にかかる苦労を姉に負わせてしまったという罪悪感があります。
相続放棄とはそういうことでもあるのですから。




ただ、
それとは別に、
今深く思いますのは、
人の心はそれぞれだということです。


同じ時間を共にしても、
その時間の意味はそれぞれに違う。
それぞれの自我を形成する要素が違うのだから違わなくてはおかしいのです。
「最後はお前とこの家で暮らしたい」
そう語った姉が思い描く子供時代は、
店主が思い描くそれとは違う。



姉が、
決して除草剤を使わないのは、
矢車草が犠牲になってしまうからです。
「おばあちゃんが大事にしていたものは、
 端からなくしていった」
母が次々と庭木を始末していったことを、
姉は苦々しく思っていました。

たとえば姉が保ちたいもの、
復元したいものには、
庭木があるかもしれません。

祖母からもらったものは
それぞれにありますが、
店主の場合はテレビの洋画劇場で鑑賞した様々な物語の受け止め方でした。
姉は覚えていないというソフィアローレン主演の「二人の女」などは鮮烈でした。
 子供だから見ちゃダメ
 これはいけないもの
母には満載だったその感覚は、
お陰さまでまったく残らず、
物語を受け止めることだけに心を開き、
頭を動かしていられた気がします。


だから、
たとえばBANANA FISHは、
私の人生で大事にしたいものに属している。
姉にとっての矢車草なわけです。
共有できないところに価値がある。

姉が過ごしたい日々は、
私のそれとは違う。
実家の維持を妹のための努力と定義づけるのは、
けっこう本質的なとこで違っているな。
そんなことを感覚的にですが、
感じ取ってしまいました。



YASHAが半端に離れにありましたのも、
棚を片付けるという使命としての“片付け”敢行の中、
ささいな手順から起きた偶然の出来事なのだと理解できます。
姉にしてみれば、
これを捨てようというほどの明確な意識もない範疇にあるものです。
姉は何を捨てたかについては、
本当に覚えていません。



物に意味を与えるのは人。
そういうことだと思います。
家に意味を与えるのも人。
保ちたいものは人により違います。



小学生の頃から店主は物語に淫していました。
それは姉にはない人生です。
姉は五感が鋭い。
それを最初の就職では生かしていました。
視覚と聴覚は今もかなり敏感です。

だからなのか、
それやりすぎですからっと家族も同僚も思うところの持ち出し上等の四季折々の施設の飾り付けは、
ほんと小学校時代から変わらぬ美意識への拘り満載です。

☆毎度こんなイメージです


押し付けられるとか、
いつまで手をつけないんだろうとか、
愚痴は年を追うごとに増えますが手を抜けないのは、
仕事への矜持もあることでしょうが、
姉自身の捨てられぬ子供時代からの拘りがあるからなのでしょう。



店主が姉に比して語りが得意なのは、
物語に浸る習慣あってのことなのかもしれません。
人に語るのも、
人の語りを聴くのも、
舞台を観るのも大好きです。


そもそも無断で廃棄されていたということに、
割りきれぬ思いもあるものの、
“家を守る”ために苦労を重ねる姉に申し訳ない気持ちも、
やはりあるのです。
このところ、
ずっと「お金は生活の維持に使うのがいい」ばかり繰り返しています。
    実家は売っていいし、
    売るべきだ。
その都度、
仏壇をどうするつもりだ、
隣家との境目があって難しいんだ、
売るなんてできないと姉は気色ばみます。

店主が
分け前をよこせとは
死んでも言わないことを、
姉はよく知っています。
そして、
姉も独り占めするために相続放棄させたとなることは決してしないでしょう。
だから姉としては、
姉妹で実家の維持に取り組んでいるつもりです。


実家の維持を思えば、
お金などより遥かに苦労が多い。
それは事実です。
が、
シクラメンを買いに来たとき、
税金対策のあれこれを相談されたり、
義兄の車欲しいよーを愚痴られたりしましたが、
そこは私には答えられないと申しました。
すると、
ああどうせ私一人で考えればいいんでしょ、
と返されました。


いや
その使い道について、
こちらが物を言うことは、
やっぱり金が惜しいんだろうと義兄や世間に思われかねないんだよ、
がこちらの言い分です。
ひたすら繰り返した
「とにかくこれからの生活考えて決めてよ」
で、
そこを理解してもらえたらと思います。
実家を売って、
自分の生活を守ってほしいです。
その前に自分が大切に思うものを持ち出す時間的余裕はほしいですけどね。



BANANA FISHの顛末は、
漠然としていた郷愁に浮かぶ子供時代の姿を、
少しだけ具体的に気づかせてくれました。
 たかが漫画じゃん。
 ま、そうなんですけどね。
 たかが矢車草じゃん。
 ……怖くて言えない。



違っていて、
それでいて重なる懐かしい時代が、
主のいない家にふわふわと浮かんでいます。


そして、
最後に思います。
姉は“守る人”
私は“守られる人”
その立場が違いますと、
決断を下す立場の姉には本当に苦労が多い。
「走れメロス」の王様を思い出してしまいました。
眉間に深いしわを刻んだ王ディオニスは、
ちょっと今の姉に似ています。




店主、
挫折前のメロスにつきましては、
ほんと友達にはなれない男だよ
と思っておりまして、
共感は王に感じます。


「お前には
 わしの孤独がわからぬ」
 ほんと そうだ
 あんた無知による傲慢で頭おかしい

メロスよりはわかりますが、
姉の孤独は私には想像するしかできません。


でも、
店主にも守りたい子供時代はあります。
本棚にごっそり空いた隙間を見て、
「いやがらせか!?」と言われましたが、
自分の大切なものは自分で守らなければ残りません。
それもまた学びです。


今いじいじと悩んでいますのは、
1989年読売新聞社主催の上村松園・松篁。敦之展の図録を持ち帰りたいと申し出るかどうかです。
これは二人で暮らしている時代のものですから、
姉のお財布で購入したものと思います。




持ち帰りたいと言い出せるかなんて考えること自体、
末っ子の甘えなんですが、
BANANA FISHの件で、
うまくすれば貰えちゃうかも、
なんてこすっからいことも考えたりしています。
この図録も店主にはゴミではありません。
姉にとってどうかはわからない。
欲しいなと思います。


書き終えたら、
何か、
昇華しちゃったみたいです。
ごめんなさいBANANA FISH
大好きだという気持ちは
書き出す前も今も変わらないから、
もう別の本のこと考えてる私を許して。


明日はお座布団を干す以外にできることはありません。
フリータイムが多い予定です。
出掛けられないかな。
自分が大事に思う場所に。
そんなことを考えています。

自由にできる時間は自由にしよう。
たぶん その方が健康的
これもまた学びでした。