この小説は純粋な創作です。

実在の人物・団体に関係はありません。

 

 

 

 

すうっと体が沈む。

ぴたりと腰が決まったと見え

黒い手甲から覗く白い指がその腰にかかった。

そして止まる。

くっと朱唇が引き結ばれた。

 

 

黒装束の輪がくっと縮まる。

西原はその輪に混じって駐車場から続く彼岸に目を走らせた。

車を下りた樫山がこちらに向かってくる。

そういう事態なのだと男たちは分かったのだ。

下町の軍団も、屋敷の精鋭も、闘気に反応するよう訓練されている。

 

 少年は、

 刀を抜こうとした。

じりじりと迫る黒装束と黒スーツの輪に己もいる。

瑞月の動きを、

道の向こうを走る車の流れを、

集まる男たちの配置を冷静に追う自分を眺める自分がいることを、

呆然とただ感じている自分に西原は慄いていた。

 

 

 

妖魔をも魅了し、

樹霊の庇護を受け、

清浄な気を発していた巫が、

緑蔭濃き夏の名残りの熱気の中に、

闘気を纏って静まる。

 

 

どう保護するか。

男たちの使命はそれしかない。

だが、

ここに来てようやく男たちは認識していた。

 

ふわりと空を舞う巫は翼をもっているわけではない。

天使だからと深く考えもせず“たおやかで”“華奢な”肢体を、

無力なものとしてひたすらに守ってきたが、

この細い身体はとんでもない身体能力を有している。

 

 

ゆらりと瑞月が動いた。

だらりとさげた腕、

すんなりと伸びる肢体は艶やかに陽光を弾く。

その身から放たれていた殺気が嘘のように消え、

男たちの輪は引き込まれるように止まった。

呪縛もまた巫のもつ魅了するという能力だ。

かくも凶悪な顔を見せてなお、

瑞月は美しかった。

白い小さな顔に赤い唇が艶めかしく笑みを浮かべる。

凄艶な立ち姿がそこに現れ出た。

 

 

西原の目に、

高遠が血反吐を吐いて地面に転がる姿が浮かぶ。

次の一閃が必殺のものとなる。

引き込まれながらもそれが分かる。

分かっていながら縫い留められたように体が動かなかった。

 

 

「瑞月、

 朝だよ。」

 

とんでもなく明るい声が、

空気を震わせた。

それはまさに殺気を向けられた当人のものだった。

ぴんと張った網にぽとんと雫が落ちる。

 

研ぎ澄まされた耳は、

その緩みに浮かぶ空間を感じ取る。

寮の一室だ。

“四年間ずっと同室だったんです。

 瑞月を守るのは俺だと思っていました”

 

 

二段ベッドの下段、

小さな小さなふくらみが、

哀しく愛しくいじらしい。

そっと腰を下ろす少年は大人びた顔に、

かすかな憂愁を帯びている。

 

その声は

だが、

ひたすらに温かい。

 

「起きるんだ。

 俺がいる。

 食堂に行こう。」

 

スポーツエリートが集う食堂は、

肉食獣の唸り声と熱気に満ちていただろう。

そこが瑞月はたいそう苦手だったと

警護班チーフ西原は知っている。

調べたのだ。

瑞月も高遠も自ら語ることはなかったから。


 

どこまでも明るい声に、

柔らかな労りが広がり、

小さなふくらみをケープのように包む。

身体能力は攻撃力を意味しない。

狙いを定め、

獲物の肉に牙を食い入らせるのは、

闘う魂だ。

己を守る術を知らぬアンティークドールは、

ただ怯えて殻に籠るばかりだったという。

 

 

瑞月の唇に浮かんだ笑みが消え、

その眉が寄せられる。

高遠に向けられていた視線がくらりと外れ、

迷うように宙に浮いた。

二人だけの巣で身を寄せ合って暮らした日々が、

戦士の魂を押し包もうとしている。

 

 

「長を……お守りしなくては…………」

朱唇がつぶやく。

己の声に、

細い肢体がバネのように動いた。

はっと己を囲む黒衣の男たちへと巡らす視線に殺意が滴る。

男たちは静かに構えた。

かすり傷一つつけさせない。

その覚悟が静寂を創る。

確かめ合うまでもないのだ。

このしなやかな野生の豹の中にあえかな魂がある。

それが、

はっきりと見えていた。

 

 

「怖がらないで。

 だいじょうぶ。」

 

その声を遮るように、

瑞月のうなじを覆うまでに伸びた髪が振り乱される。

 

そうだ 怯えている。

高遠は分かっている。

西原は輪を縮めながら、

年若き恋敵の老獪さに安堵していた。

 

 

勝機は高遠にある。

そのことに心から安堵する自分を情けないと思う自分は、

探してみたがいなかった。

脇にはいつの間にか樫山がいた。

 

 

心のコントロールを失っても身体能力は変わらない。

恐怖からであれ、怒りからであれ、

その力を最大限引き出す情動があるとき、

それは危険極まりないものとなる。

樫山がいてくれる。

有り難い。

西原は誰にも傷を負わせたくなかった。

 

もし血が流れたなら、

この凶戦士が去ったとき、

瑞月の心は壊れているのではないか。

そう思うからだ。

西原は無言で備えた。

体内にエネルギーが満ちる。

高遠に瑞月の体は守れない。

それは己の役目だ。

 

 

 

「瑞月!

 おいで」

 

「いやっ!!」

 

ついに瑞月は応えた。

いや拒んだ。

悲鳴をあげそうになる喉を震える指が抑え、

ぐらりと姿勢が崩れた。

 

今だ!

一気に踏み込んだ西原に呼応して、

輪は一気につぼんだ。

西原の腕を天使がすり抜ける。

すり抜けて

ただ一か所、

黒衣の輪の届かぬ場に飛び込んでいく。

 

青灰色の翼が広がる。

涼し気な麻の袖が漆黒の小鳥を迎えて閉じた。

長身の長髪、

整った優しげな顔立ちが困惑しているのが見える。

 

 

西原たち、黒衣の男らは、

井村を取り囲んで、

所在ない立場に佇立した。

「長……長…………」

啜り泣きに混じって洩れ聞こえる囁きはひどく幼い。

 

けっこうな体をした男だ。

鷲羽海斗と比べて遜色はない。

大型バイクを駆って鷲羽の猛者たちを引きずり回しただけのことはある。

そして西原は苦々しく眺める。

井村にあった戸惑いは労りへと移行し、

愛しくてたまらぬと言いたげに表情は和らいでいた。

 

 

「瑞月くん、

 だいじょうぶ?」

 

ようやく井村は声を発した。

“長じゃないよ”でも“どうしたの?”でもなく

瑞月の心を問うことばは

その人柄からだろう。

 

 

それが最後の引き金となった。

保護を求める小鳥は、

すがるべき大樹を間違えたことに気づいた。

 

 

ぴくんと細い肩が揺れ、

瑞月が井村を振り仰いだ。

端正ではあるがそこに野生はない。

柔らかく微笑む男は鷲羽海斗の顔をしていなかった。

眦が裂けんばかりに見開かれた眸が揺れる。

まずい!

西原が思った瞬間に、

驚愕の表情のまま瑞月は井村から引き剥がされた。

 

 

 

「ほら

 目が覚めた」

高遠が瑞月の肩を抱いて

その小さな顔を覗き込んでいた。

 

「…………たけちゃん?」

瑞月の顔は、

きょとんとした仔猫を思わせるものになっている。

捕り物帖は終わった。

戻った天使はあどけない。

 

西原の脇で、

樫山がほうっと息をつく。

一山越えた。

巫を守る男たちにはそれで十分だということだろう。

 

 

「瑞月くん?」

井村がおずおずといった感じに

声を発した。

大型犬といってよい体躯を小さくして様子を窺う。

 

だが、

仔猫に戻った瑞月は、

まだ頭がはっきりしないようで、

ぼんやりと高遠を見上げるばかりだ。

 

 

「井村さん、

 どうも お会いするたびに

 ご迷惑をおかけしてしまう。

 申し訳ない」

樫山がさりげなく割って入った。

笑いを含んだ落ち着き払った声は流石は

年の功だろう。

恋する男の拘りもない。

 

 

そして、

西原の耳に注ぎ込まれた言葉を樫山は知らない。

井村祐輔の連れが、

“あなたが長ですの?”と問うた。

そして唇が動いたのだ。

キヲツケテと。

 

「いや

 とんでもないです

 まるで歌舞伎の七変化を見るようでした。

 不思議な子ですね。

 定めを負った子だと刀自が言ってたことが、

 よく分かりました」

 

まだ安心はできぬと、

輪を固めていた祭装束とスーツの男たちが、

さらに固まった。

 

 

 

「どうしたの?

 ぼく、

 また籠っちゃった?」

 

いきなり目の前に高遠が現れた、

といった認識なのだろう。

小首を傾げる仕草が愛らしい。

不安と甘えがないまぜとなった揺らぎが

瑞月を幼くする。

 

 

「そうだね。

 おかえり瑞月」

 

高遠はすかさず微笑む。

そうして瑞月は

ようやく周りを見回す。

 

 

あれ?

また小首が傾いだ。

 

「カメラのお兄さん?」

 

「そうだよ。

 また会えたね」

 

井村の声が弾み、

いきなり人垣が割れ、

目をぱっちりと見開いた老婦人が現れた。

 

「あら、

 もう大丈夫なのですか?

 救急箱を取ってきましたのよ。」

 

そして渋い声が続く。

 

「いらんと言っただろう。

 だいたいお前は思い込みが強すぎんだよ。」

 

消えていた祭の主がようやく現れた。

頭をかきながら政五郎が顔を覗かせる。

 

 

西原は目まぐるしく考えをまとめようと頑張った。

何が起きたのか。

この二人は何なのか。

そして高遠豪だ。

瑞月を抱いて政五郎と老婦人を見つめる高遠に、

笑みはなかった。

 

画像はお借りしました。

ありがとうございます。

 




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