この小品は純粋な創作です。

実在の人物・団体に関係はありません。

 



 

「瑞月

 おいで!」

 

井戸端から呼ぶ。

大急ぎでパンツ一丁になった瑞月が

カタカタと下駄を鳴らしてやってくる。

 

ざばっと桶の水をかけると

ぷるぷるっと空を仰いで首を振るのが

ネコ科というよりイヌ科だ。

 

飛び散る水滴がきらめく。

その水滴を避ける素振りで俺は目を逸らす。

寮生活の頃は考えたこともなかった。

瑞月の裸身を隠すことしか考えていなかったためかと苦笑を噛みしめる。

 

 

だが、

こんな空を仰いで

気持ちよさそうに水を浴びる瑞月も、

また、

あの頃は想像もつかなかった。

屋敷で真綿にくるんだろうに守られた生活でも、

これはなかった。

 

襲い掛かる男を軽やかに翻弄した昨日の姿は、

少しずつ日常を変えていくのかもしれない。

また羽化したか。

 

 

「たけちゃん

 もう一回お願ーい」

 

おねだりの声が耳を打つ。

……ちがうかもしれない。

居間に入りそうになった西原がその声で台所に引き返していくのを目の端に捉えながら、

井戸にもう一度釣瓶を落とした。

 

 

ここに引き込む水をまだ保っていること自体、

かなり珍しいことだろうに、

ちゃんと上水道の水が汲み上げられる。

政五郎の拘りなのだろう。

 

 

「目つぶって」

 

ずっしりと重い釣瓶から

手桶に水を移し

きゅっと目をつぶる瑞月の頭から

もう一杯の水をかけてやる。

 

 

冷水を待ってすくめられる肩に

水を滴らせる髪が揺れる。

その髪先に目を落としながら水をかける。

 

 

「わー

 気持ちいいーーーー」

 

空の下だからか、

瑞月は解き放たれたように明るい。

洗顔だけでも気持ちよさそうだったが、

早朝からの全力疾走と勝利がよほど楽しかったのだろう。

 

 

「はい手拭。

 今日は

 全開だな瑞月」

 

にゅっと目をつぶったまま突き出される腕は細くて、

その指先までが細くて、

しっかりと手ぬぐいを握る拳の小ささが愛しい。

 

 

その拳を見届けて高遠は自分も水を浴びる。

肩から背へと水は流れ落ち、

足下に弾ける。

……心地よかった。

西原も浴びたいところだろうが、

瑞月の前で裸体をさらす気になれないかもしれない。

 

 

沓脱石の置かれた縁先に、

並んで待っている替えの下着を眺めながら

高遠はさっさと上半身を拭い、

縁に戻った。

 

 

沓脱石に下駄を残し、

片足ずつ濡れた下着を抜き取ると、

足ふきに畳まれたタオルを踏んで縁にあがり、

下着を身に付ける。

 

もう振り向かない。

 

さっと部屋に入り、

屋台客引き部隊としての今日の衣装を身に付ける。

柔らかなボトムに七分袖のシャツ、

日曜日の通信制登校日でもなければ

ほぼ毎日ジャージ以外は着る機会もない。

あっさりしたものしかないし、

それで十分でもあった。

 

 

「たけちゃーん!」

 

呼ばれて

寝間から顔だけ覗かせると、

瑞月がきょろきょろしている。

 

 

「今日は何着ようか。

 サマーセーターにしてみる?」

 

「うん!

 まだ暑いもんね」

 

高遠は

瑞月用の服を置かせてもらった箪笥の引き出しから

咲が一回ごとにまとめた上下のセットを出す。

こういうときは咲の完璧主義は有り難い。

ただピンクってのは……。

 

 

予測不能の羽化に服装は追いつかない。

ピンクの優しい色合いに

ベージュのほっそりしたボトム。

女の子?男の子?と客たちが騒ぎそうだ。

もちろん

それでいいのだ、

今日よからぬことを思いつく客が出なければ。

 

 

「わー

 きれいな色だね」

 

とことこ入ってきた瑞月は

この組み合わせが気に入ったようだ。

さっそく手に取って被ろうとするのを止めて、

まだ水が滴る髪を用意しておいたタオルで拭いてやる。

 

 

ふーん、

とも

くーんとも聞こえる唸りは

いつもの甘え声だ。

もうその裸体にどぎまぎする時間は過ぎた。

ごしごししながら高遠は思う。

 

誘蛾灯みたいだな。

 

油断させられて

馬鹿な誘いやらからかいやらをしてしまう客は、

ひどい目に遭うことになるだろう。

 

 

「おーい

 もう準備できたぞー」

 

西原が

ようやく安全になった居間に、

朝食の膳を並べたらしい。

みそ汁の匂いが漂ってくる。

 

 

「トムさん

 汗流しちゃってください。

 瑞月は着替え中ですから」

 

「おう!」

 

井戸端から水音が響く。

被るのは諦めて

体を拭いているようだ。

 

 

「よし!

 もういいよ」

 

高遠は瑞月を解放してやり

身支度にかからせた。

ちゃんと着られたら

次は髪をとかせばいい。

 

出ていくときには

もう西原はきっちり服を着こんでいるだろう。

 

 

迎えの車が来るまでは

まだだいぶ余裕がある。

朝食はゆっくり食べさせてやれそうだ。

 

 

 

綾子は

もう

食事を終えただろうか。

ふと

そんなことが思い浮かんだ。

 

 瑞月は

 妬いていた。

 

それが嬉しくもあり、

それを嬉しく思う自分が情けなくもあり、

そして、

綾子に申し訳なくもあった。

 

屋台は最終日だ。

高遠はほうっと吐息をついた。

 

 

「たけちゃん

 どうしたの?」

 

はっと目を上げると、

真正面から瑞月が上目遣いに覗き込んでいた。

ピンクのサマーセーターの襟から

鎖骨のくぼみが覗き、

ぺたんと座り込んで両手をついた姿に、

高遠は一瞬息を呑む。

 

「たけちゃん?」

 

ひたりと小さな手が額にあたる。

熱を測ろうとしているらしい。

 

 

高遠はその手をそっと外し、

にっこりと笑う。

 

「今日は最終日だなって

 思ってただけさ。

 しっかり売り切らないとな」

 

瑞月が

ああ そうか!

というように頷いた。

 

あぶない あぶない

もう慣れたはずでも時には不意打ちにあう。

高遠はもう吐息はつかなかった。

 

 

「トムさーん

 そっち行きますよー」

 

せめて西原への不意打ちは最小限にしよう。

そう思う高遠だった。

 

 

画像はお借りしました。

ありがとうございます。


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