この小品は純粋な創作です。

実在の人物・団体に関係はありません。

 



 

「じゃ、

 兄さん、

 決裁は午前中に済ませてね。

 さびしくても我慢だよ」

 

このっ……と振り向いたときは

パタンと閉まっていくドアしか見えなかった。

弟分だというのに

こと恋愛が絡むと拓也は忌々しいほどに先輩面だ。

 

 

壁際の棚から昨夜持ち込んだウイスキーを取り上げ

グラスを取り出す。

氷を出す気にもなれず生のまま注いだ琥珀色の液体をぐっとあおった。

 

 

端正な顔に

明度を落とした照明が影をつくる。

その陰翳に匂い立つ野生は最前まではなかったものだ。

警護班の配下も知らぬだろう。

彼らが知るそれは、

戦闘場面では精悍な闘気に満ちて静まる圧倒的な戦士の顔だ。

 

今、

狼は己の心の臓から流れ出る血の匂いに辟易している。

そして憂鬱な夜を一人勝手に過ごせることは

この狼にはせめてもの慰めだ。

 

 

 

カタン……とグラスを卓に置き、

深くため息をつく。

 

余計なお世話だ。

さびしい……そんなことを訴えた覚えはない。

ただ、

こうして残された部屋の広さが身に染みるだけだ。

 

 

 

ベッドはあり、

そこに転がり目を閉じれば

朝が来るまで時間は流れてくれる。

きちんとメイクされた皺一つないシーツに

一人横たわる。

 

 

そんな何でもないことが、

ひどく自分とは遠い行為のようで、

昨夜もそこに向かうまで時間がかかった。

 

 

鷲羽海斗は、

橘瑞月と出会ってから、

そんな日をもたずに過ごしてきていた。

 

 

そばにいる。

それを確認できないとスイッチの落ちた自動人形のように、

呼吸をすることさえ忘れてしまいそうな少年を

一人にはできない、

しない、

そう思い詰めていた昔がひどく懐かしく思えた。

 

 

その頃も飲んだ。

日毎につのる慕情を押し隠すことが耐えがたい夜、

訳知り顔についてくる黒猫と差し向いで飲んだ。

 

 

 

どう過ごしているのか。

それを思うと、

己の知らぬ高遠豪との四年間がまざまざと浮かんでくる。

泣きぬれて眠る十四歳の頃の瑞月の頬は、

今よりも少し幼く、

その頬の涙を拭う高遠の指は優しい。

 

 

唇に蘇るのは

西原に口づけたときの感覚だ。

それを受けた西原の感覚がそこから流れ込む。

柔らかかっただろう。

そう思うとカッと燃え上がるものがある。

 

 

 

鷲羽海斗は

もう一度グラスを満たし

それを干した。

 

 

ベッドに目を向けることはせず、

居間となっている部屋のデスクに載ったパソコンに目をやった。

それを取り上げ

ベランダに出ると

狼は徐に作業にかかった。

 

 

決裁は午前中にすると決まったものではない。

今でいいのだ。

既に半分を空にしたウイスキーに頼るのは

限界があった。

 

 

 

カタカタと鳴るキーボード。

その音に虫たちの声が重なる。

コテージとコテージの間隔は十二分にとられている。

他の客の眠りを妨げるでもないだろう。

 

 

 

ふっと

何かが揺れた。

鷲羽海斗はキーボードを叩くスピードを変えぬまま

神経を研ぎ澄ます。

 

鷲羽の老人は本館、

客人も同様。

そして警護班の夫人は本館に敷いていた。

 

 

何が動いたのか。

 

 

五感に伝わってくるその波動は

自然のそれではない。

誰かがいた。

 

 

いや何かか?

 

 

その息遣いが聞き取れぬ。

そこが不思議でもあり

もどかしかった。

 

闇に潜む襲撃者のそれは、

未熟なチンピラであれば押し殺した動悸まで感じられるし、

手練れであれば深く落ち着いたものがある。

どちらにしても鷲羽海斗は聞き取れる。

 

 

 

エンターまで滑らかに指を走らせ、

作業を止めた。

何気なく立ち上がり、

背後の扉を閉める。

 

 

すっと風が頬をなぶり、

それは肩に触れた。

その手を掴む……はずが海斗の指に触れるものはなかった。

ベランダの手すりから白い影がふわりと飛ぶ。

 

 

はっと伸ばした指のはるか先に

しなやかに身をくねらせて

白い肢体が下り立った。

 

 

薄布がその肢体をなめらかに流れる。

月光ばかりが明るい庭に

乞うてやまぬ少年がその脚を月影に濡らし

草を踏む。

 

 

 ねえ

 つかまえられる?

 

いたずらな声が

ふふっと耳の中で鈴を振るように聞こえた。

狼は柔らかく足下の床を蹴る。

 

 

見誤ることはない。

幻であるとしても瑞月は瑞月だった。

 

ふわりと

その前に下り立つ。

 

 来たのか?

 

 うん

 

抱き寄せる……はずが

その幻はふっと指先をかすめて流れる。

 

 

 海斗も

 つかまえられない?

 

うきうきとした声が

甘く耳空をふるわせる。

 

 

裸身を紗に透かせてとまる少年の背に

月光が降り注ぐ。

その肌が薄桃色に上気するときが狼の脳裏を駆け巡る。

夢中で飛ぶ。

 

 

はっと身じろいだ海斗は

ベランダの椅子に座っている己に気づいた。

カーテンのゆらめきに引き込まれ、

それを引き開ければ、

しんと人気のない室内には半ば空となったウイスキーとグラスが

置かれたまま卓上に人待ち顔をしている。

 

 

深く息を吐き

ベランダに戻ると

パソコンの画面は暗い。

作業を終えたことだけは現実だったらしい。

 

 

ホテルの庭は

秋の夜の風情を演出し

虫の音も

空の月も

そらぞらしいまでに秋らしかった。

 

 

今しがたの幻に掻き立てられた恋情が

熾火のように燃える。

それがあまりに重く、

海斗はウイスキーに手を伸ばした。

 

もう一杯くらいは構わないだろう。

やさぐれた狼は珍しくその尾を垂れていた。

 

 

そして、

狼の前肢はウイスキーにたどりつかなかった。

 

 おやすみ

 大好きだよ 海斗

 

甘い声がささやき、

狼の唇は柔らかい唇を受け止めた。

その離れていく瞬間まで狼は動かなかった。

くちづけが終わり、

主の就寝を待っていたベッドは隣室にあった。

 

 

そこは空っぽだ。

だが、

そこに眠る自分は

一人ではない。

 

 

もう一度

今度は静かな吐息をつき、

狼はそっと尾を上げる。

休まなければならなかった。

 

明日も務めはある。

王は寝台へと歩を進めた。

 

 

画像はお借りしました。

ありがとうございます。


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