この小品は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




シャッ………………。

細い肢体を抱く細い腕。
静かに上向く白い顔。
その透明感溢れる像がリンクに流れる楽曲の最後の一音の余韻を纏って静まる。



シャーーーーーッ
と弧を描いて近づいた黒い練習着姿が
その肩を抱く。
黒が溶け合い一つの影となる。



近づいてくる寄り添う影を、
西原は危ういものを見る思いで
見つめていた。


高遠はとろけるほどに優しく瑞月を見下ろし、
高遠の腕にある瑞月の放心したような顔は、
哀しいまでに無防備だった。


 二つの魂が、
 寄り添っている。

これほどに近いのに、
それは二つなのだ。



「すごく綺麗だった。」

いつもの言葉が
西原の口をついて出る。
そうして、
身を屈めて腕を伸ばす。

高遠がそっと腕を離す。
高遠がすることはすべてが疑いもなく任せていればよいことなのだ。
だから、
瑞月は素直に西原の手をとる。


「じゃ、
 トムさん
 お願いします。」

「おう。
 頑張れよ。」


最後に瑞月の頭を撫で、
高遠は踵を返す。
その姿はエッジの一蹴りに
一気に遠ざかってゆく。


何もかもがいつものままだ。


「戻るよ、瑞月。」

西原は優しく瑞月を見下ろす。
自分の顔も
おそらくとろけているのだろう。
樫山が軽く眉を上げて見せるのが
目の端に見えた。


高遠が
いきなり舞い上がる。
高い………………。
リンクを渡っていくその体に一瞬目を奪われ、
ついで着氷の鋭い音に驚く。


それも
今のいつもだ。
振り切るように跳ぶ。
そして、
またスピードを上げて跳ぶ。
瑞月の練習が終わると
高遠はジャンプの練習に入る。
もうこちらを見ない。


樫山はもう消えている。
車に戻っているのだ。
西原は、
滑り終えた放心に漂う瑞月に付き添って戻る。
更衣室を使うこともなくなった。
高遠が残るからだ。


リンクサイドで靴を履き替えさせ、
西原は瑞月の肩を抱く。
曲を滑る。
そのことが瑞月を恍惚とさせる。
だから抱いている。



リンクのドアが閉まった。
着氷して伸びやかな弧を描き、
高遠は止まった。


「高遠くーーーーん」

ため息が出るほど能天気な声が、
高遠を現実に呼び戻す。

「休憩にするわよーーーーーー。」

結城は日本を離れている。
本国に戻って夏を過ごすのだ。
振付の依頼があるということだ。
結城の、
いやヨナの本来のリンクはここではない。


高遠も来ないかと誘われたが、
高遠は残った。
音羽がいる。
練習はできていた。


「結城先生に、
 今の動画も送っとくね。
 また驚かれるわ。
 毎日驚いてらっしゃる。
 今が伸び盛りなのね。
 わたしも
 毎日惚れ直してる。」


音羽は



「ありがと
 オトさん。

 自分でもそう思う。
 悪くないな、俺。」

ベンチに座り、
水分補給をしながら
高遠は笑う。


「そうね。
 シーズンまで、
 これが続くといいんだけど。」

「続きますよ。
 続けて見せます。」

音羽が考え込むように
その腕を組むのを
高遠はさらりと受け流した。

鷲羽の支援を受けるスケーターとして、
その責務を果たすことは、
本来その位置にあった瑞月が欠けた今、
高遠の務めだ。

出会ったときから、
どこか浮き世離れしていた少年は、
文字通り人の領域を離れ、
精霊とか妖精とか呼ぶべき存在に近づきつつある。



気がつくと
木々や花々、
風や水、
自然の息づかいに感応しては
ふうっと瑞月は漂いだす。


高遠は薄く唇に笑みを浮かべた。
脳裏に浮かぶ瑞月は
屋敷という繭の中で
羽化を待つ蝶のようだった。



「ボレロ、
 滑ってみない?
 高遠バージョンで振り付けてあげるから。」


あまりに軽い調子に、
高遠はわずかに眉をひそめた。
軽い失望を感じながら高遠は笑みを浮かべた。


「いやだな。
 俺の中では
 ボレロは瑞月と海斗さんの愛の物語なんです。

 毎日それを見てるんで、
 この刷り込みは抜けません。」

笑みに礼儀を守りつつも、
声には断る意志を込めた。
試合に出ないから構うまいという理屈はない。
それも礼に外れる。
音羽らしくもない言葉だと思っていた。


退学となった高遠の指導を引き受けるリンクも指導者もいなかった17歳の春、
コーチを引き受けてくれた音羽は、
恩人である。

控え目に言って
かなり個性的な人物であり、
空気を読まぬ点は時に羨ましくなるほどに我が道を行く音羽である。
だが、
人の心の根幹に関わる尊厳ともいうべきものには敬意を払う。
そこが高遠の音羽を信頼する所以でもあった。

残念だった。



音羽は頷く代わりに
高遠を見つめ返した。

「ボレロはボレロよ。
 燃え上がる愛の物語は、
 誰のものでもないわ。」


高遠の顔から上っ面の笑みは消えた。
代わりに微かな不快を示して、
いかにも生真面目な顔が張り付いた。


「俺にとっては違うな。
    さあ
    曲かけにしましょう。」

声に力がこもる。 
話は終わったと立ち上がる高遠の脇に
トンと音羽が座った。



「話はまだ終わってないわ。」

声を荒げるでなく、
淡々と音羽は告げた。
礼儀は鎧にもなるが、
枷にもなる。


高遠は座った。
音羽が微笑んだ。


「高遠くん、
 あなた、
 最高の男よ。
 そしてね、
 震えちゃうほど危ない匂いがするの。

 その猛々しさ、
 いつまで隠しておける?」

音羽の声が変わった。
本音で話せ。
高遠は座ったまま静かに応じた。



「危ないのは
    海斗さんに任せてます。
    俺は安全第一でいないと、
    それこそ危なっかしくて二人を外に出せない。

    お分かりでしょう?」


静かな言葉にも、
小揺るぎもしない姿勢にも、
その安全を保ってきた高遠がいた。

はっと高遠が身を引こうとし、
止まった。
女の細い手が高遠の膝に乗っていた。
   
 
「その演技、
 大したPCSだけど、
 私には通じない。
 
 トゲだらけのあなたから見てる。
 あなたの剥き出しの炎を見てる。
    さっさと保護者の仮面を取りなさい。

    あなたは確かにガーディアンよ。
 でもね、
 どっかの先生みたいなガーディアンじゃない。
 瑞月ちゃんを傷つけるものを叩き切って紅蓮の炎を駆け抜ける。
 あなたは戦士よ。」


高遠は
口をつぐんだ。
その顔は何の表情も浮かべない。

膝に乗った手をそのままに、
高遠は先を促すように
音羽を見返した。


「瑞月ちゃんが滑るボレロには
 海斗さんが見える。
 巫は長と溶け合って一つになるんだから
 それは当然よ。

 何より二人は愛し合っている。」

高遠が
音羽の手を握った。
そのまま持ち上げ引き寄せる。


反射的にもう片方の手をついて
音羽は危うく上体を支えた。
高遠の顔が近々と寄せられる。



「わかりきったことを。
 オトさん、
 他人の傷口をつついて楽しむのは
 悪い趣味だ。

 それは他所でやってくれ。
 今日のメニューは決まってる。
 仕事をしよう
 お互いに。

 始めないなら俺は戻る。
 俺はあなたのファンタジーのネタじゃない。」


無表情のまま、
その眸だけが暗く焔を宿していた。
音羽は己が召喚した獣王の降臨に唇を震わせた。


そして、
ぐっとその顔ににじり寄り、
眼鏡の縁が高遠の鼻先すれすれで止まった。
マグマさながら泡立つ怒りが
音羽の目から放射する。

ぐわっと
その口が開いた。


「文句言ってるんじゃないわよっ。
 へたくそな演技だからへたくそって
 言ったげたんでしょ?

 私はね、
 紛い物なんかいらないのよ。
 あなたは巫を愛する男なんでしょ?
 守るのが俺の愛だって誓ったんでしょ?
 だったら愛してみせなさいよっ、
 他の男を愛してる巫をっ、
 堂々とっ。

 あんたのボレロを滑ってみせたら
 認めたげるわっ。
 あの子が誰のものでも
 あんたが
 あの子を守れる男だってねっ。

 そんなお面かぶってっ
 見ないふりしてっ
 どの口が愛してるとか言ってんのっ?
 
 逃げてんじゃないよっ!」
 


嘘をつき逃げる男を捕らえた鬼女は、
真っ向から
男の不実を詰った。

高遠が小揺るぎもせず
音羽を見返す。
その眸がふっと焔を消した。
代わりに肩からオーラが立ち上る。


高遠は立ち上がった。
スケート靴はそのままだ。
リンクに入り、
真っ直ぐ中央へと一蹴りで進む。


「さあ
 始めようか。」

高遠は言い放ち、
音羽を待った。



結城は約一ヶ月の出稽古を終えて戻った。
その怒号はリンクの天井を揺るがし、
一刻ほどもしてボレロが流れ、
リンクは静まった。


最初の大会は10月だった。
提出された高遠豪選手のプログラムはボレロ。
そのシーズンの終わりを
高遠豪はジュニアとして世界のトップに立ち、
そして引退した。
四月、
高遠は大学生となった。


画像はお借りしました。
あいがとうございます。




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