この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




「瑞月はどうだい?」

老人がかけた言葉が
宙に浮く。



女衆も遠慮した囲炉裏の間は
ぽっかりと明るく、
広敷にも賑わいはない。

屋敷の賄いは
そっくり移転したものか。
土間に差し込む陽もいたずらな昼時である。
縁に続く柱に背を預けた少年は、
じっと動かない。


朝食の片付けも終えた頃、
血相を変えて飛び込んできた少年は、
その勢いが嘘のようにしんと静まっている。
老人もまた静かに待った。




タクシーが坂を上ってくるスピードも
運転席のシートにしがみついた少年の形相も
尋常ではなかった。


司令室から駆け付けた西原は
かろうじて間に合い、
少年を抱き止めた。
咲がすっと進み出て
〝急病人が出ましたの。
 この山道をご苦労様でした。〟
運転手を労う後ろで、
西原は呻きを噛み殺した。
手負いの獣さながら、
鷲羽警護班チーフの腕を振り払おうとする少年の腕が西原の腕にぶつかり、
さらにそれを外そうと指が食い込んだ。


タクシーが去るや
高遠豪は叫んだ。
〝瑞月はどこですっ!?〟


花の館に向かうことなく
真っ直ぐに屋敷に戻った高遠は
咲に食って掛かった。
この屋敷に暮らす誰であれ、
咲に歯向かうことはない。
それは屋敷の禁忌だ。


〝落ち着けっ
 高遠!〟

西原の制止など
意味をなさない。
豪の全身がバネとなり、
その腕から逃れようと暴れる。


〝巫は戻るっ
 お前が迎えず
 誰が迎えるっ!!〟

母屋を囲む木々までが震えた。
体の芯が揺り動かされるほどの衝撃に、
高遠を腕にいましめたまま、
西原は凍りついた。


咲が深々と頭を下げ、
踵を返して
わらわらと出てきた屋敷の面々に頷くのを
呆然と見つめる西原に、
咲の声が響いた。


〝御前が母屋をお使いになります。
 一人たりとも
 母屋に残ってはなりません。
 さあ動きなさい。〟


咲が踵を返し
西原に対した。
藍の着物が凛とした強さを放つ。

〝西原さん
 お手をお離しください。〟

気づくと
高遠は動かなくなっていた。
いやその拳は握られ、
その関節が白くなっていたが、
もう暴れてはいなかった。

掴んだその腕をすぐに離してよいか迷う内にも、
咲の言葉は続いた。



〝屋内のモニターは
 すべて切ってください。
 屋外は構いません。
 ただし、
 映像のみです。

 警護、
 よろしくお願いします。〟


そして、
くるっと背を向けた老人が
すたすたと玄関を抜けていく。



もう玄関先に他の人影はなかった。
そこに立つ咲の顔を
西原はようやくひどくじっくりと眺めていた。


微笑みはなかった。
なぜだろう………とぼんやり考える己が
不思議に思えた。
警護のチーフとして、
そこにいるという意識がないわけではない。
それでいながら、
その顔に引き込まれていた。
思い詰めたように強い眼差しだった。


高遠がふわりと離れていく。
西原は手を離していた。
自分がいつ手を離したのかもわからず、
西原は高遠を見送った。


高遠は母屋に入り、
咲はその戸を閉ざした。
すうっと沈むような藍がそこに残った。


〝補佐………。〟
気遣うような声が出た。


ふっと輪郭が明瞭になる。
咲が振り返った。
艶然と微笑む鷲羽を統べる女王は
警護班チーフに命じた。


〝さあ
 急いでください。
 ここからは御前のお時間。
 一切は内密にせねばなりません。〟



それが
もう二時間も前のことだ。
日は既に中天にある。



「ご存じでしょう?」

高遠が口を開いた。
老人が
にこにこと縁ににじり出る。


「たけちゃんが
 口をきいてくれた。
 嬉しいのう。」

日溜まりの猫よろしく
老人は機嫌よく庭木を見上げ
小さな体を揺すった。


高遠は振り返らない。
老人も高遠を見るでなく
ただ縁を共にする。


「俺は瑞月を迎えます。
 瑞月のために
 ここにいるんですから。」

「うんうん
 わかっとるよ。
 それでも嬉しい。
 たけちゃんが一緒にいてくれて
 わしは嬉しいよ。」


老人の声は温かく、
もう青年と呼んでおかしくない
引き締まった頬の少年が、
その唇を震わせた。
それはほんの一瞬だったが、
十九歳になったばかりの少年は、
確かに少年になった。


そして、
それを振り払い、
大人びた少年は静かに尋ねた。

「俺は
 どうしてここにいるんです?」

「瑞月ちゃんが戻るからじゃろ?」

老人は優しく応えた。



そこにいない少年が
鮮やかに浮かぶ。
庭木の下影を
ふわふわと漂うようにゆく瑞月は、
陽光に透けていきそうに儚げだ。


「海斗さんは
 瑞月が欲しいんです。」

「そうじゃな。」

「俺が憎いでしょうか。」

「どうかのう。
 
 たけちゃんの命を守るためなら
 自分の腕一本切り落とすことも
 厭わんくらい
 大事に思っとるからのう。」

淡々と語る高遠に
老人がうんうんと頷き、
高遠は口を閉ざした。



「命は差し出さんだろうな。
 たけちゃんもじゃろ?」

老人は考え込むように腕を組み、
高遠は庭を見つめたまま
愛しい姿をそこに追った。



瑞月の幻が
誰かを見つけたのか
パアッと顔を明るくした。
その上気した頬を
高遠は幾度見たろうか。


ゆらりと幻は消え、
初秋の庭は高く青い空の下に
梢を揺らしていた。
さわさわと風が渡っていく。


さわさわ
さわさわ
さわさわ………………。


瑞月は戻る。
俺が迎える。
ただそう思いながら
高遠はいつしか静かに待ち始めていた。

いつもただ待っていた。
高校二年生の早春から今まで
ただ自分は瑞月を待ち続けていた。
そう思いながら、
高遠は風のさやぎを聞いていた。



イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。


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