この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





セツははしょった裾をからげ、
たすきをかけ、
そっと湯に手を差し入れる。
ややぬるめに調整した湯は心地よい。

カラカラと小さな音がした。
真っ白な毛並みの小動物は
人の気配に戸惑うように戸口からこちらを窺っている。


セツが振り返るや
ぴくんと小さな頭が引っ込み
磨りガラス越しに白く華奢な影が揺れる。
案内を終えた彼女が湯殿に進んで、
瑞月はしばし凍りついていたのだ。



セツは
静かに腰をかがめた。
顔を上げないまま入り口に正対する。

「巫様に申し上げます。
 ここは長があなた様のためにと
 求められた宿でございます。

 長がお待ちでございます。
 綺麗なお体に
 そしてお目を楽しませる装いに
 巫様をととのえますこと
 セツの務め
 でございます。

   お出ましください。」

おっかなびっくり
丸く見開いた目が覗いた。
うつむくセツにほっとしたのか
頭を下げるセツに申し訳ないと思ったのか
そろそろと引戸が開きを増した。
ヒタッと小さな足が石を踏む。

セツが面を上げると
小さく肩をすぼめた細い体が
身の置き所に困って立ち尽くす。


セツは微笑んだ。
少年がおずおずと微笑む。


もう戻ることもできないが、
進む踏ん切りもつかぬらしい瑞月を
セツが迎え出た。


岩盤に零れ出る湯を桶に汲む。
ふっと間を置くのは
鬼がその瞬間を楽しむからだ。
今、
その鬼は悶々と洋間で一人悩んでいるだろう。


 お楽しみになりたかったかしら………。


肩の丸みが磁器のそれを思わせる。
白磁の肌というけれど………。
セツはひそかに息を呑んだ。


陽は高い。
零れる湯はきらめき
鎖骨の窪みから薄い胸板の突起を仄かに色づかせて流れる。

その胸にある翡翠の勾玉は
深みある光沢が見事なものだ。
巫の証という翠が湯に’透けてゆらめき、
白磁の胸から腹へとそのしなやかな稜線は神の愛でるものの光をもつ。
下腹の茂みに湯が滑り込む様がぞくりとするほど艶かしい。



 もう悦びを知っている

神にも似た鬼にこの肢体を絡み付かせる少年が
聖堂の絵画でもあるかのように浮かんだ。
そして、
鬼の負う焔がその絵画を陰翳に富んだものとしていた。


〝たけちゃん〟と呼ばれる存在が
巫を微笑ませ
長を根底から突き崩そうとしている。
その焔でいったいどちらを焼き滅ぼすつもりなのか。



 神も嫉妬する………。
 さりながら
 ’愛しいものを雷で打ち砕くこともできる。
 そして、
 神は長く嘆くことのできぬものだ。


人は悔いる。
悔いると分かっていて雷を手にするとき
人は鬼に
神は鬼の苦しみを知りながら
この器を与えたのだろうか。


「きっと
 たけちゃんと仰有る方も
 おじいさまも
 今日はゆっくりされていることでしょう。

 昨夜は
 皆様でのお楽しみだったのでございましょう?」


「あっ
 そうなんです!」

やはり………。
セツは確認した。


可愛らしいとしか言いようのない小さな顔がセツを見下ろす。
背はすっくりと高くありながら
嬉しげに語りかける眸も
弾む声も
その口許も
ただ無邪気だ。
安心しきった子どもの顔が
ただ愛しい。


〝たけちゃん〟という存在が
この少年を瞬時に切り替えるのだ。



「巫のお務めも大切ですが、
 瑞月様はお若いのですから
 お友だちとの時間も大切です。
 楽しまれたこと
 セツも嬉しゅうございますよ。

 冬においでくださったときから
 幸せにお過ごしになっておられますように
 と
 祈っておりました。」


もう一杯の湯をかけ流し、
そう言い終えると、
嬉しげに頬を染めた少年の手をその両手に包みおしいただき、
カランに湯桶が設置された場を抜けて湯船へと導いた。




磨き込まれた黒曜石が大理石の湯船を囲む。
その縁近く、
竹を編んだ長椅子が
人待ち顔に置かれている。

戸惑うのを座らせ、
髪から洗いましょうと横になるようにとそっと肩に手をかけると
少年は真っ赤になってセツを押し止めた。



「ぼく………あの………
 海斗が、
 あの………………。」

下肢をすぼめるようにして
困っている。


「見せてはいけない
 と
 仰有るのですね。」

セツは
腰を屈め
にっこりとその顔を見上げた。


「あの、
 あの………。
 たけちゃんと咲お母さんはいいけど………って。」

一生懸命なあまり、
羞じらいより
言い付けを守らなくちゃという必死さが先に立つ。

そして、
たけちゃんという名は、
お母さんに並んでいたことを
セツは胸にしまいこみ、
慈母の笑みで続けた。


「だいじょうぶ。
 セツに見せてはいけないなら、
 鷲羽様がこうしてお世話を任せてはくださいません。

 申しましたでしょう?
 鷲羽様に喜んでいただけるよう
 瑞月様のお支度をするのです。

 お任せくださいな。」

上気した頬が
眩しいほどに艶めいた。
胸にあてられていた細い指先が触れる肌が
吐息に震える。
そうすると
また鬼のいとしむ巫の顔が浮かぶ。



巫の装束姿の少年は
華々しい鷲羽の躍進と共に世に知られたが、
この姿は知られることなく封印されている。
だが、
長と巫の契りは
紙の上の誓約などであるはずがない。
それを主とセツは察していた。



もしそうであるなら、
長い歴史の中で鷲羽の権勢を巡って
血みどろの政争が繰り返されてきたはずだ。
長は巫がその身を託し
その愛撫を受け入れる者なのだ。


この宿で
二人が結ばれた夜に
その定めは始まっていたのかもしれない。



だが、
鬼はそれを務めとも定めとも思っていまい。
そして恋い焦がれている。
困った仕儀となったものだ。



「じゃあ
 横になりましょうね。」

余すところなく裸身はさらされた、
罪なほどに無垢の白磁は
横たわることで
生身を離れるほどに透き通る情に美しい。


それは作業をするには
少々目の毒だが、
セツは
もう手順がわかっていた。


髪を濡らし
優しく量の指で揉みほぐすと
うふーんと気持ち良さげな声がもれる。



「鷲羽様は
 ほんとうに何もかもご立派なお方ですから
 セツもうっとりしてしまいます。
 さぞお嬢様方がお騒ぎでしょう。
 罪作りな方でございますね。」

「あっ
 そうなんです!
 海斗、
 いつもぼくのこと忘れて
 女の人たちのお相手してるんです!
 お正月のときなんか
 ぼくもおじいさんもほっとかれて
 怒っちゃいました。」

「まあ
 いけませんね。
 お寂しかったでしょう。」


もう
おしゃべりに夢中になっている。
頬を膨らませた子どもを優しくあやしながら
セツは先を進めた。

今、
傍らに鬼はいないが、
少年はバランスを崩していない。
胸にある翡翠がほんのり光を増している。
それは鬼の愛の深さの証でもあろうが、
そればかりとも思えない。


「たけちゃんと仰有る方は
 男の方でございますか?」

「はいっ
 すごく大切な人です。
 友達で
 恩人で
 いつもぼくを守ってくれます。」

「まあ
 素敵な方ですこと。
 守ってくれる方なんですね。」



幼い恋人は始末に負えまい。
広がる世界にその腕は伸ばされる。
その無邪気さが罪深い。
それは珍しい話ではなく、
鷲羽海斗という鬼の悩みも
その点では古来から人の世に絶えぬものだ。


「でも
 一番守ってくださるのは
 鷲羽様でございましょう?」

セツは
そう言葉を継いで
先へ進めようとした。

「はい。
 守ってくれます。
 でもね、
 あの………。」

予想通りの答えの後、
瑞月は言い淀み、
そして、
思いきったように身を起こし
セツの耳に囁いた。


「瑞月様、
 それでは、
 ほんとうに綺麗になりましょうね。
 今はそれが大切でございます。」

瑞月は小首を傾げ、
そうして元気に返事をした。

「はい!」


一頻り
楽しかった昨夜の語りに
時をすごした。
少年は屈託なく笑い、
セツもそれを嬉しく思った。


笑って
笑って
湯に手足を伸ばした少年がすっかり寛いだところで
セツは湯浴みを切り上げた。


セツにも
少年に教えるべきことはあった。
それを囁くと
少年はびっくり眼でセツを見つめた。


「それ………怖いですか?」

「ええ
 とても。」

雪ウサギの儚さも
聖なる神の器も内包して
少年はうっとりと微笑んだ。

セツは不思議なものを見る思いで
それを見つめた。
あの冬の日に見た幻が美しさを増して甦る。


カラカラと
入り口が開く音を聞きながら
セツは瑞月を再び竹の褥に誘った。


湯を遣う音が
湯殿に響く。
鬼は待ちきれなかったのだろう。



セツは少年の下肢を開かせ、
そこを清めた。
うっとりした眸のまま
ゆらゆらと揺れる肢体が淫らでもあり清らかでもあり、
その胸にある勾玉は嘉するようにその肌に翠を落とす。

湯を遣う音は
もうしない。

陽光の中に月の精が浮かぶ。
セツは仕事を終え
鬼は褥から贄を抱き上げた。


「奥の間に
 お支度はできております。
 竹の廊下をお進みください。」


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。



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