この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




見下ろす鬼面を背に
恰幅のよい体を乗り出すようにして
主はセツの報告を聞いた。


「鷲羽の長は
 巫が定めるのだそうだよ。」


くっくっと
主は嬉しそうに笑った。
手を振り
後ろの掛軸を示す。

天女が白ウサギを抱いて
薄の野に立っている。
見事な満月であった。


「無理強いすると
 印は消えるのかな。
 さて
 どうなさるか。」

喉を鳴らさんばかりに
主は楽しげだ。

「喰らうか 
 ということなら
 なさるかもしれません。」

セツは答えた。
焔は暗かった。
躊躇いなどというものは
堰を切った衝動をより制御し難いものとするためにあるようなものだ。


「なさる………かな。
 で?
 あの子はどうなる?」

主が
すっと目を’細める。


「怯えるでしょう。
 あの子は男を知りません。
 あの方も暗いものは
 見せておられない。

 分からないでしょう。
 なぜ自分が喰われるのか。〟

ふふん
主は笑う。

「わたしが欲しいのは
 鷲羽の長ではないからなぁ。
 印など要らぬ要らぬ。」


「消えるとは限りますまい。
 むしろ
 刻み付けられるかもしれません。
 あの方だけを求めるように。

 それこそ
 身に付けた印そのもの。
 長の地位は磐石ではありませんか?」


主はぐっと詰まり、
手にした扇子でパタパタと膝を叩く。
この男は本当に可愛らしい。


「お客様を欲しがるのは
 宿の本分に外れましょう。
 お客様の望まれるもてなしを考えるのが道。
 いつもそう仰有っておられるではありませんか。」


主はちらとセツを見やり、
畳んだ紙を畳に滑らせて差し出した。

「何でございますか?」

「あの子の母、
 鷲羽の老人の名代の連絡先だ。
 お前と話したいそうだ。」



一刻をおき、
セツは竹林の径を歩んでいた。
従える男衆は影と同じだ。
自分には膳を片付ける暇はない。

青苔に埋もれる踏石が
今確かに歩む己の足先からすら音を吸い込んでいく。


どのような無体をしても
この林は呑み込む。
贄の悲鳴を吸ってなお竹は清々しい。


この竹になってしまうかもしれない。
無垢なままに慈しまれてきた少年を
セツは思う。


〝では
 よしなに〟

最後に言い置かれた言葉が重い。
名代は鷲羽財団を守ってきた女傑だという。
その声が
ただ一度震えた。

その震えがセツの身を引き締める。
ここを求めてきた鬼に応える。
それは
この静寂で購えるものではない。

何を差し出せば
この鬼は救われるのか。
その枷を外すことが救うことになるのか。

ただ
それが終わったと見届けるのは
セツの務めとなった。
勤めであり、
務めだ。


カラリ
庵の入り口の引き戸を
開ける。
音を立てたのは
中に知らせるためだ。


「………トムさんがね………………。
 マサさん、ほんとはね………………。」

無邪気な声が聞こえる。
食事は
ただ食事だったのだろう。
お腹が満たされた子どもは明るい。


もう洋間に戻っている。
声が近い。


「失礼いたします。」
そう声をかけ、
影に頷く。
ひそとも音を立てず二つの影は廊を進み、
膳を捧げて戻ってきた。


影は消え、
セツは式台に足を乗せる。
その顔に笑みが浮かんだ。


鬼が迷う。
それを興深く思う。
その自分を取り戻すことが肝要だ。
セツは洋間の前に静かに膝をついた。



「入ります。」

そう声が響くと
引き戸がすっと開く。
海斗が膝から降りようとする瑞月を
ぐっと抱き寄せた。


「あん………。」
花嫁の白がいじらしい少年は
セツの目の前で
軽く鬼を睨み頬を染めていく。


「お似合いですこと。
 冬においでになられたときから
 そう思っておりました。」

セツの声の
真摯さに
瑞月のぱたぱたが止まった。

海斗の眸が
セツの顔に移る。
表情を変えぬ男は
冬に変わらず威を感じさせた。


「さあ
 お召し替えです。
 まずお風呂にお入りください、
 瑞月様。
 鷲羽様を驚かせてさしあげましょう。
 
 鷲羽様、
 少しお待ちください。
 きっとご満足いただけます。」


瑞月がセツに伴われて去った後、
呼び出し音が低く鳴り出した。
予測していたことだった。

その小さな機器は
襖の脇にひっそりとあった。
それは鳴り続け、
そして止まった。


しん
部屋に落ちた沈黙の向こうに
ザザッと微かな音が聴こえた。




立ち上がり、
縁先に出た。

湯音に混じり
瑞月の声が聴こえていた。




その舌足らずな甘い声は
何やら一生懸命だ。
切れ切れな言葉に
昨夜のことと察せられる。



聴き入る海斗の口許に
薄く笑みが浮かび、
消えた。

〝たけちゃんがね………。〟
弾む声に
その名だけが耳に届いた。


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。