この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。



「では、
 こちらのお部屋にどうぞ。
 瑞月様、
 お腹空いておいでなのでしょう?」


連れに問いかけるなど、
この宿のすることではない。
客は常に一人であり、
連れは客の所有物にすぎない。


「はいっ」

溢れる無邪気が鬼を圧倒する。
細められる目は
待ちきれないように身を乗り出す華奢な背を無防備に見つめていた。

 囚われておいでだこと
 お手を離れていく雪うさぎを
 それでも愛しんでおいでなのだ



セツは
少年に優しく微笑みながら
床入りの翌日の泣き声を
甦らせ
その愛らしく輝く眸に重ねた。

 佐賀さん
 佐賀さん 
 どこ 佐賀さん

あの朝、
少年には
この世に〝佐賀〟しかいなかった。
佐賀が目を離せば消え入りそうなほどの儚さを
主は〝雪うさぎ〟と呼んだ。



今、
少年は、
生き生きと跳ね回る真っ白な毛並みのうさぎのようだ。


少年は
〝佐賀〟の手を離れた。
少なくも、
泣かずにいられるほどに離れた。


 
セツは
すっと襖を開けた。
和室に向き合う二つの膳には、
湯気の立つ椀に焼き物、
涼しげな小鉢、
彩り鮮やかな菜が盛り付けられた匣が
のせられていた。



「わー
 綺麗!
 ねぇ海斗
 綺麗だね」

鬼の腕をするりと抜け出して
ぴょんと座布団に座った。
そのまま驚いたようにもじもじと尻を動かす。


金蘭の座布団が
白うさぎを包むように沈み込む。


「すっごく
 ふかふかだよ。
 お客様の座布団みたい。」

「お客様ですもの。
 お気に召しましたか?」


 跳ねるのね、
 白うさぎ。

この無垢が
世の垢に汚れることなくある。
守られているのだ。


その肌の白さは変わらないのに、
こんなにも明るい白がある。
その瞳も、
その唇も、
眩しいほどに愛らしい。


え?
セツは刮目した。

白うさぎの眸が
あっとセツの背後へと動き、
潤んでいた。


頬が上気する。
触れられることを知った肌が
艶かしく匂いたつ。



セツは
ふっと風を感じた。
竹の香が微かに残った。


鬼は敷居を越えていく。
美しい。
冬の日に感じた触れがたい世界が
和室を満たした。
ゆったりと膝を崩して座る姿に
野生が薫る。


「瑞月、
 腹が空いたろう。
 済まなかった。」

もう鬼の時間は始まっている。
それを
この鬼は自分に言っているのだ。

既に調った膳がある。
あとは自由に。
それが決まりだ。


「どうぞ
 ごゆっくりお召し上がりください。
 お召し替えの準備は
 お食事の後にさせていただきます。

 お済みになられましたら
 お呼びください。」

セツは
敷居の先にそれを差し出した。
造りは印籠を象り、
その印は竹笹を用いている。
冬には無用とされたものだ。


鬼の背が僅かに強ばる。
断りたいのだ。
だが、
断るまい。

セツは待った。
この鬼はひどく狼に似ている。
人に慣れていないのだ。



この襖の先は鬼の結界。
それを侵すことは、
セツのすることではない。
だから待つ。

少年が不審に思う。
だから時間はかけられないはずだ。



「わかりました。」

そっけない答えが返った。
セツは襖を閉めた。


つい先程、
この狼は途方にくれていた。
そして、
セツの差し伸べた手を拒まなかった。

ひたひたと庵を離れながら
セツは陽炎を思っていた。
狼を瞬時包んだ焔を。


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。
ご無事でいらっしゃいますように。




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