この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





 この女か。
 瑞月が安心する。

磨き込まれた床に
しとやかに揃えられた三つ指。
鬼の栖の格式に相応しく一筋の乱れもない髪が黒々と上がり口の設えに映える。


一輪くっきりと生けられた花は
深く濃い褐色の花弁を
もっていた。


瑞月を任せる腕はなく
任せるつもりもなかった。
そっとにじり出たセツの手が脱ぎ捨てた靴を調えた。


招き入れられた間の障子は開け放されていた。

竹林を背に
くっきりと色分けされた壺庭は
一面の苔に覆われていた。
苔の中にすっくりと立つ細い幹から差し伸ばされる青紅葉が
その下にある飛び石に木洩れ日を落としている。

艶やかな緑の中に
人一人立たせて完成する絵が浮かぶ。






「映えますことでしょう。
 お客様が
 お連れ様を眺めては
 そう仰有られます。」


淡々と語るセツの言葉に
思わず赤面しそうになった。
しはしないが、
自身が揺れたのが分かる。
雪うさぎと瑞月を呼んだ仲居に緩む糸が
海斗の動きを素直にしていた。


わずかにぎこちなく動きが止まり、
それに気づかぬように
鬼はまた動き出す。
よるべなくさえある鬼の
もてあます恋情と欲情をセツは愛おしく思った。




深い庇が日差しを遮り、
縁先は穏やかな日陰となっている。

竹を編んだ長椅子は
置かれたクッションにも竹が染め抜かれていた。
そこに下ろされた雪うさぎの頬に
鬼はそっと手を触れる。


雪石膏の肌にその指の影が落ちるのさえ憚るようなその指先に、
その睫毛の落とす繊細な陰影までをそのままにと願うような深い眼差しだった。
セツは雪うさぎを壊れやすい細工物のように感じた。
それは
この鬼がそう感じているからだろう。
そうも思った。




「雪うさぎさん
 お起こしになられますか?」

お食事は
すぐに召し上がられますか?
訪ねる代わりに
セツはこう尋ねた。



眠る瑞月の
愛らしく上下する小さな胸に
薬物の落とす影はない。
だが、
眠りすぎている。
こうした訪れを経験する〝連れ〟は
初めてではない。



この少年は
自分がどこに連れてこられたのかを知るまい。
眠ってしまったから。
そうセツは読んでいた。



この鬼は、
この少年に惑うて、
その惑いをぶつけることもできず、
告げる代わりに眠らせた。



それができるのだ。
ここに来る俗な鬼たちとは違う。
薬などは使うまい。
その懊悩が違うように
力も違うのだ。

神とも見紛う端麗な姿が人を超える力を秘めていることを
主は語っていた。
同じことを
セツはその姿に感じ取る。
美しすぎるものは神を降ろしてしまうことがあるものだ。
このような揺れを見せる魂に尋常な人の生は生きられまい。



ともあれ、
このまま見つめてもいられぬ。
この鬼は迷っているのだ。



問題は食事を取らせることより、
ここにいる自分を知らせることにある。
それを促してやることが
この鬼の助けとなるように思った。


そして、
鬼は深く息を吸った。
静かに雪うさぎに体を重ねる。

息詰まるほどに美しい。
鬼の顔には慈愛だけが広がった。
その下に渦巻くものは眸に凝ってその色を深くする。

アポロンが慈しむ者を
呼び起こしていた。


睫毛が震えた。
ゆっくりと瞼が上がる。
鬼の肩越しに見える天井に、
小さな頭が傾いだ。


なんと無邪気な顔をするのだろう。
その小さな頭が考えたことはすぐわかった。


「このお部屋初めてだね。
 
 ご飯、
 おじいちゃんも一緒?
 たけちゃんももう帰ってる?」

お腹が空いたのね。
思わずセツの頬に笑みが広がった。
そして、
止まった。


鬼の背に陽炎が立った。
そう感じた。


「………海斗?」

ふっくりとした朱唇が
鬼の名を呼び、
無邪気な眸がその顔を見上げる前に
その陽炎は消えた。

ただ微笑んだなり、
鬼は言葉を返さない。



「雪うさぎさん
 私を覚えていますか?」

ぴょん!
うさぎが跳ねた。

真ん丸になった目がセツを見つめ、
華奢な体が竹の網目の上で
きちっと正座に固まる。


「あっ………覚えてます。
 あの………あの………………。」

もじもじと
また鬼を見上げようとするのを
にっこりと目で抑え、
セツは続ける。

「嬉しゅうございます。
 雪うさぎさん、
 お名前を教えてくださいますか?」

「あっ
 はい
 天宮瑞月です。」

素直な性質は
この少年の美質だ。
無垢とはこういうものかと目を見張ったことを
セツはしみじみと思い出す。


「素敵なお名前ですこと。
 瑞々しい月。
 月という名がぴったり。

 そうしてお日様に寄り添うと
 ますます綺麗におなりですよ。」

この鬼にできぬなら
自分がここうぃ切り抜けよう。
嬉しそうに頬を染める瑞月を見ながら
セツは決めた。

そして、
懊悩に揺れる鬼には可哀想だが
確かめることもあった。


「おじいさまも
 たけちゃんも
 こちらにはおいでになりません。

 寂しいですか?」

鬼が
自分を見つめる視線に
セツは知りたいことを知った。

「あの
 ごめんなさい
 お家に帰ったんだって思ってて………。」

セツに申し訳ないと思うのか
一生懸命な声が
また可愛い。

この藍らしさは
また格別なものだ。
そして、
危うさがない。

お家ができた。
そこは
おじいちゃんとたけちゃちゃんがいる場所だ。
そういうことなのだろう。



そして
この鬼は身を揉むほどの苦しみを抱えている。

セツは
にこにこと手を振って
瑞月の言い訳をさえぎった。

「瑞月様、
 ここは、
 二人だけの時間をご用意する宿なのですよ。

 お仕事も忘れ
 お家も離れて
 二人だけになっていただくのです。

 少し賑やかなことや忙しいことが続くと、
 そういう場所が必要になるものですから。

 どうでしょう?
 このところ
 何か忙しかったのではございませんか?」


「はいっ」

そうか!
というように
目が輝く。

そして、
セツは
今度は止めなかった。


満面の笑顔で
少年は鬼を見上げた。
鬼は静かに頷いてその頭を撫でる。


「素敵なお召し物でございますね。
 まるで花嫁のよう。」

少年はぱあっと頬を染める。
清楚でありながら閨の姿を浮かばせる恥じらいが、
一瞬の内にその風情を変えた。


宥めるように
鬼はその肩を抱く。
ほっとしているだろうか。

セツは明るく声を張った。

「お食事をご用意いたします。
 すぐにできますから
 お待ちくださいね。」


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。



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