この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。



こそり………と
滑り込む気配がした。
ごく柔らかい肉球が音を消している。
小さな潜りがぱたんと閉じた。

 お前が
 付き添いか………。
 

苦笑するのは余裕ではない。
諦念というものだ。
海斗は待った。


カチリ………………
ドアがごく細く開いて止まっている。
書見に俯く頬が微かな空気の揺らぎにひりつく。



気づかぬ態で繰るページの音が
幼い恋人の胸騒がす息遣いをすっと切り裂き、
甘い香を残して消えた。



いるのだ。
いる。
わかっていながら
そちらを向きたくない。

ふうわりと漂う香は
湯上がりの瑞月に
咲が纏わせたものだろう。

 バニラか………。
 
準備万端整えて差し出される瑞月を
自分は抱けばいい。
苦味を感じた。




膝が
いきなり沈んだ気がした。
ひらりと飛び乗った黒がぐーーーんと伸びをしている。


ぺろり
顎を嘗められた。
トパーズに耀う眸に見据えられる。


「何だ」
たじろいだ色は出さない。
何事につけ
表情を変えないことは
この男の習性だ。
それが強さでもあり、
弱さでもある。


艶のある黒いこれ見よがしにドアを向き、
ぺたりと尻が膝に落とされた。
ゆらんと目の前を尾が左右に揺れる。



 にゃああああああああああん………っ。

犬か!?
舌打ちしたくなるほどに
わざとらしい遠吠えだった。



「黒ちゃんたら  ………。」

ぱたんとドアが閉じられる。
パタパタと小さな足音が続いた。



「海斗が気づいてくれるの
 待ってたんだよ。」

黒猫に向かって言っているとも、
己に聞かせているとも
とれた。


手を後ろに組んだ華奢な肢体が、
くいっと傾いている。
小首傾げの拡大バージョンだ。
海斗はもう顔を向けていた。



「風呂は済んだのか。」

「うん。」

「いい匂いだ。」


微笑む。
心は平らかだ。
瑞月は愛くるしい。
ぴょんとまっすぐに戻した肩先に
ふんわりと乾かされた髪が揺れる。


このまま伸ばしたら
市松人形だな。
ふと
そんな思いが掠めた。


膝が
また沈み、
ぽかっと空いた。


トン
と床に下りた黒が
するりと脚の間を抜けて消えた。



海斗は瑞月と向き合って残され、
その膝は空いていた。
立ち上がろうとしたときは瑞月の手が肩にあり、
はっと止まったときは首に巻き付いていた。



膝に収まった瑞月は
くるんと丸くなる。
黒よりも猫らしい小さな生き物の息遣いが
着崩してわずかにはだけた胸板を擽った。


「どうした?」

心臓の拍動はゆっくりだ。
海斗の指が髪をすく。
バニラが薫る。


「あのね、
 海斗………どうしてぼくを………見ないの?

仔猫の声は元気に始まり、
尻すぼまりに消えた。




指が止まった。
一つ
どくんと胸が打った。



耳を聾するように響く狼の咆哮が、
己の内部を暴れまわる。
びくん!
瑞月が’震えた。

鼓動は抑えられても
その牙は
ありありと感じられただろう。




「………お前を
 食ってしまいそうだからだ。」

押し出した声は低かった。
膝の瑞月の顔は見えない。
海斗の胸に押し付けられた顔は上がらなかった。



そっと
髪から手を離し、
その背に回した。


「だからコントロールしている。
 それだけだ。
 ………怖いか?」


深い深い森に
狼はいた。
胸にある小さなものを
その前肢の間に守りながら、
狼は知っていた。
己を頻繁に訪れる暗い夢を。



 押さえつけ、
 牙を食い入らせ、
 その断末魔の痙攣を貪る

 その暗い夢の中で
 愛しいものは狼だけのものとなる。

 その唇を洩れる最後の息を唇に受け、
 体温を失っていく肌を指に味わい、
 もう他の男を見ることのないガラス玉の眸を見つめる。

 愛しくて愛しくて
 ………殺してしまいたい………………。
 
 

爛れた夢。
そして、
今もその幻想は誘っている。
膝にある愛しいものに誘われている。


 
それでも、
海斗の手は瑞月の背を
優しく擦る。

この馴染んだ苦悩は、
高遠を思うとき狂おしい。
狂おしさは日毎に増していた。

暗い幻夢とふと踏み込むことが
今や日常となっていた。
己の牙が血を滴らせているのを
海斗は感じていた。



こそっと
瑞月が身を捩る。
おずおずと小さな頭が上がってきた。


「怒ってない?」
上目遣いだ。
愛らしさに胸がちりちりと焼ける。
怒っている。
だが、

「お前にか?」

それは瑞月にではない。
海斗は優しく見下ろした。



その表情に
波立つ焔はない。
端正にして野生の薫る鷲羽財団総帥の焔は
眸の奥の奥に沈んでいる。


「俺は俺に怒ってるんだ。」

「食べちゃいたいから?」

白い仔猫が
黒い狼を見上げて目を輝かせる。



「怒ってないのっ?」
そして、
声が弾む。




フンフンと嗅ぎ回る小さな鼻先を感じて
海斗はハッとした。
瑞月!
思ったときには
小さな顔がうっとりとシャツに鼻を突っ込んでいた。


「ほんとだ。
 海斗の匂い、
 とっても濃いよ。

 お母さんがね、
 今日の海斗は狼だからって言ってた。
 ぼく………、
 大好きだ。」



仔猫が口を開き、
闇から引き擦り出された狼は
白い仔猫と顔を突き合わせて
書斎の椅子に座っていた。



クンクン クンクン………。
瑞月がうっとしと目を閉じる。
己の匂いであやされる仔猫のバニラの香が
海斗の鼻孔を擽った。


「ぼくね、
 狼さんに食べられたいな。

 さっきね
 海斗を見ながらね
 ああ 今 海斗をね
 あのね………感じたいって………思ってた。


狼は
様相を変えた幻夢に襲われ
その眉をひそめた。
突き上げる熱に昂るものが仔猫を怯えさせてしまう。



ニャア………。


脚に体を擦り付けるようにして、
黒が前に戻る。


「あのね、
 ぼくがドキドキしてたらね、
 咲お母さんがね、
 この匂いにしましょうねって言ったの。

 きっと
 ぼくを見てくれるって。」

黒が足下から
まともに見上げてくる。


女とは恐ろしいものだな。
ふと脳裏に甦るオフィーリアの姿が
微かな痛みを伴いながら
さらさらと消えていく。


鷲羽総本山、
この屋敷においては、
化け猫も人間も女は恐ろしい。


「遠慮してくれ」

見届け役といった風情で、
海斗にはりつく仔猫に目を細める黒に
海斗は精一杯の威厳を込めて
言い渡した。


黒が
ふん!
後ろ足を上げて耳の後ろをかいてみせる。


幻夢にも種類は様々だ。
今のそれは
もう海斗をとらえて
その身を内部から焼き尽くす焔と変じていた。


余裕がない。


「食べてやる。
 いい子だ。」

その耳に囁くと
キャッと恥ずかしそうに顔を覆う仔猫の媚態に、
海斗は覚悟を決めた。


瑞月を抱いて
椅子から立ち上がる。


黒が
ふーーんと
それを見上げる。

「ついてくるなよ。」

低く言い捨てて
狼は
精一杯の自制心で
ゆっくりと ゆっくりと
歩みを進めた。


ばたん
ドアは開き、
そして閉じた。


次のドアが開き、
また閉じる。


閉じたドアの小さな潜りは動かなかった。
狼は仔猫を裸に剥いて
牙と爪を総動員して食べ尽くした。


甘い悲鳴と啜り泣き。
狼の肌は野生の猛々しさに匂い、
仔猫は陶然として酔う。

 ぼくね 食べられちゃいたいよ



巫の光の宮は
現れなかった。

雨に濡れ震えていた仔猫と
守るべきものを喪った狼は、
約束通りにその夜を過ごした。

死は甘く
打ち寄せる波のごとく
繰り返し 繰り返し 仔猫を訪れる。




仔猫の眸が焦点を失い、
しがみついていたたくましい肩から
ずるっと落ちた細い腕が
寝台の上でひくひくと指先を震わせ、
甘やかな死を迎えた仔猫が
一茎の花のごとく寝台に横たわる頃、
夏の短夜は
早くも黎明に白んでいた。


狼は身を起こし、
その花を見つめた。
仔猫の内奥に身を埋めたまま
その唇に耳を寄せる。


「………海斗
 大好き………………食べて………食べて………食べて………」


繋いだまま
そっとその身を抱き、
狼は注ぎ込む。

白い花弁が
与えられた水に応える震えを
その腕に抱き取り
狼はその花を見つめる。


眠りに落ちた花は
あどけない仔猫に戻る。

海斗………
海斗………海斗………………海斗      


仔猫の呼び声を聴きながら
狼は目を閉じた。
安らかな眠りが訪れる。


暗い夢は
また訪れる。
構わない。
今は幸せだった。


狼は幸せだと思った。


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。



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