この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。



「お見事でしたこと。」

「目の保養でございました。」

「チーフでいらしたころはね………。」

「ほんとうに。
 まるで夢のようですわ。」

さやさやと
謹み深くも明るい声が弾んでは遠くなる。

「そうじゃろ?
 怒んなかったぞ。
 丸くなった 丸くなった。

 怒んなかったもんなあ。」

老人の声は忌々しい。
怒ってるんだ。
ろくでもないことには
すぐに乗ろうとしやがって。
そう言ってやりたいが、
瑞月がいた。

声は聞こえなかったが
洋館から母屋に戻る時間ではない。
騒がぬと決めたのだ。
海斗は心中で舌打ちするにとどめた。
………………………。


女衆が引き揚げていく声は遠くなった。
着替えるというほどの手間もかからぬ腰布一枚は、
とっくに乱れ箱の中だ。
シャツのボタンを留めながら、
海斗はほっと息をつく。


目をあげると、
グレーを基調とした落ち着いた壁紙に施された花を象った紋様が
目に入った。
この部屋に入ったのは初めてだった。


 出よう
 瑞月が待っている


乱れ箱を寝台に残し、
部屋を出ようとして
寝台の脇のデスクと椅子が目の端を流れた。


その椅子に座り、
額にかかる癖っ毛をかきあげながら、
生真面目にペンを走らせる少年が
そこに見えた気がした。


ドアを閉める手に
やや力がこもった。
ばたん
響く音に自分の心情がわかる。


瑞月の声を聞くという男。
高遠豪が少年と感じられた頃が、
ひどく遠い昔のように思えた。



もう茶番の片付けは終わり、
すっかり静かになった洋館は、
二人だけで過ごす今の顔を取り戻していた。


ただ
瑞月がいない。


「瑞月」

呼んでみた。



かさかさっと
動く気配がする。
小さなキッチンに小さな仔猫が
こっそり隠れているらしい。


くすっと思わず笑えてきた。
不思議と胸にあった影が消えていく。
仔猫は己が抱き上げ
丹精して育ててきたのだ。


毛を逆立て、
触れることを拒み、
そのくせ自分がいないと涙を零す。
そんな仔猫と出会って
ようやく一年が過ぎようとしていた。



出会いの夏、
運命の秋、
契りを交わした冬、
そして
春からのめまぐるしい変転。


今にも
己の手から離れ
儚く消えていってしまいそうだった天使は、
可愛い仔猫に戻って甘える。



〝見つかるかな〟

〝見つかるかな〟

そんな幼いドキドキが、
胸の中に愛らしい声で伝わってくるのだ。
互いの心が互いに伝わってしまう。


そんな状況も、
海斗はコントロールできるが、
瑞月はできない。


「部屋に戻ったのか。」

海斗は残念そうに呟いてみせた。
そうして、
わざとゆっくりと階段に向かう。


うふっ
仔猫が嬉しそうに笑う声を
狼はちゃんと聞いた。


来る………。
そう思ったと同時に
サラサラ
シュシュシュシュと
衣擦れが続いた。


「海斗!
 見て!」

海斗は振り向く。


驚いた演技は必要なかった。
海斗は驚いていた。


あでやかな蝶が
ホールをくるくると舞っている。



折れてしまいそうにほっそりとした胴は
ごく薄い紗にぴったりと包まれている。
華奢な腕から流れ落ちる綺羅は
くるくると回転するままにあでやかに広がる。

胸元を飾るレースは首を包む花びらへと繋がり
ひらひらと揺れている。


海斗は
言葉もなく見つめた。



瑞月は
ぴたっと止まり、
その腕を胸に交差してポーズを作ると、
うふっとまた笑う。


そうして駆けてきた。
いっぱいの笑顔だった。
天使の荘厳は今はない。
可愛くて可愛くて切なくなるほどにあどけない瑞月だった。



腕に飛び込んでくる瑞月を
衣装が破れないように
ソフトに抱き止め、

「どう?
 ぼく、どう?」

と急きこんで尋ねるのには、

「綺麗だ。
 よく似合ってる。」
答えてやり、
海斗はその母を呼んだ。


「咲さん
 見事な仕上がりです。
 ありがとうございました。

 脱がせてやってください。」


最後の試着を咲が見届けていないはずはない。
静かに咲が進み出る。
鷲羽海斗に存在を気取らせぬのは
屋敷では咲だけだった。


瑞月を咲に戻し、
階段を上りながら、
海斗は腕に飛び込んできた仔猫の重みを
そっと反芻した。


あるかなきかの儚さを。
それでいて確かな暖かさを。
そして
その無垢を。


融けて一つになることは、
既に馴染んだことだった。
こんなとき、
ふと欲しくなるものはそれとは違うものだ。

とらえきれぬもどかしさは
狼を焼く。

牙を深く食い込ませ
その涙を見たくなる。
そうして
狼は
ほうっとため息をついた。


イメージ画はwithニャンコさんに描いていただきました。
ありがとうございます。





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