この小品は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




もじもじとお尻が動いた。
うふーんと声が洩れる。
ごく小振りの卓に小さな木製の椅子が
緑の間には増えていた。
〝お勉強〟は一段落ついたのだろう。



書斎かと見紛う書棚とそれに釣り合うどっしりとした卓と肘掛け椅子。
卓は存在すら忘れられ、
ゆったりとした椅子は恋人たちの愛を交わす場となり、
書斎としての機能は果たされなくなっていた緑の摩は、
この夏、
本来の姿を取り戻していた。


瑞月を置いて仕事をするには
執務室は手狭だったのだ。
咲は残り、
膨大な情報の掌握と管理を鷲羽財団本社ビルに置かれた情報部を率いて、
一手にこなしている。



眠りから覚めた龍は、
天空を行く。
海斗はその頭だった。


青い宝玉の隅々までを照らし出す光を手に、
超人と囁かれる知力と身体能力をもつ男は、
この書斎にあって龍となり、
静謐なときを過ごすのだ。


うふーん
その耳に届いているだろう。
だが、
海斗は静かな佇まいを崩さない。



瑞月は
そうっと椅子から下りた。
足音を忍ばせ、
大真面目に抜き足差し足で歩く様は、
本気で海斗に気づかせないぞ
思っているらしいところが、
何とも愛らしい。


カチッ………パタン。

ドアは閉じられた。



「西原」
海斗の声は
命ずる際、
どこまでも平静だ。

「はい
 追っています。」
応える西原の声も平静だ。



〝いい子だ。
 お前を側に置きたい。
 いつもだ。〟

神器を奪還し、
この屋敷へといわば凱旋し、
海斗は、
そう言って聞かせた。



闇を恐れる気持ちはなかった。
それは
戦うことで解消できる。

勾玉に同化していく瑞月が
瑞月が感応する様々が
怖かった。



瑞月に悟らせるわけにはいかぬ恐怖が
鷲羽財団総帥を悩ませる。
その問題は、
補佐たちも警護班チーフ西原も
共有していた。


緩やかに瑞月は変容した。
日毎に透き通っていくように
風にも光にも融けてふっと閉じる
今は呼び戻せるが、
それが呼び戻せるという保証がない。



優しい時間が
同時に
次に起こる何かを孕んでいることを
海斗は思っていた。



そして、
花鳥風月に感応する瑞月が
己を選んでいるのかが
わからなくなっていた。
これは
誰とも共有できぬ不安だった。




瑞月は
とことこと地下通路に向かう。

〝一人で
 外に出たらだめだ。〟

〝ええっ
 なんでー?〟

〝何ででもだ。
 警護班チーフとして
 ここは譲らん。〟


瑞月は
融け出す自分に不安はないのか。
西原は不思議に思う。

あどけなく、
ぼくお勉強するね
励む高等学校課程の教科書が、
どこか現実離れしているように感じる。
この学びが、
瑞月にとって何の意味があるのか
本気で訝ってしまう西原だった。



統合して成長を始めた瑞月は、
巫となって年齢を超越してしまった。
それでいながら、
無邪気に浮世の様々に顔を輝かせる瑞月は、
やはり成長を続ける子どもでもある。
この日毎に妖精じみてくる少年を守ることは、
至難の技だった。

その心をも守る。
そう決めた西原には
頭の痛いことだった。
瑞月は何の違和感もなく今を過ごしている。


 ああ
 あそこに行くな


こそっと
通路から目だけ覗かせて
廊下を窺う瑞月に
西原は当たりがついた。


幾つかの定番コースがあるが、
母屋に行くとなると、
甘いものもらえないかな
民さんを探すか、
秘密の隠れ家で昼寝するか
二つに一つだ。
これはお昼寝らしい。


トトトっと足早に廊下を抜けていく。
外はダメだと言われているから
見つかってはまずいと思うのだろう。
母屋の庭の片隅を〝外〟と言うのもおかしいが、
外には違いない。


合歓の木が幾重にも枝を伸ばす木陰が
優しい日陰にも
かっこうの隠れ家にもなる。
廊下を下りた角、
中からは死角になっている場所だ。
そして、
最高に涼しい。



小さな白い足が
そっと苔の絨毯を踏む。
うふふっと笑うのは、
〝外はだめだ〟の裏をかいたぞ
の鼻高々か。

廊下の端に畳まれていたタオルケットを広げ、
コロンと丸くなった。
そこにタオルケットがあるということは、
瑞月の隠れ家は、
咲の知るところであるわけだが、
そこは気づかぬようだ。



瑞月は小さく欠伸をして
涼しい風が通る極上の隠れ家で
丸くなった。


「母屋の庭です。
 眠りました。」

「わかった。」

海斗は
画面を切り替える。

苔の緑が柔らかな褥となっていた。
白く敷かれた褥に瑞月はいた。
確認して閉じた。


目に飛び込んでくる甘い無防備な姿は
西原の前の画面にも映っている。
共有する気になれなかった。





 おかあさん
 おかあさん

差し出す手は
愛らしいもみじのようだ。
ぼく 小さくなってる
サロペット姿の幼児になった自分が
たどたどしく母を見上げるのを
瑞月はうとうとと辿る。


 あのね
 海斗がね
 ぼくを見ないの

母の微笑みは変わらない。
なんと答えてくれたか
眠る瑞月にはよくわからない。


 ううん
 愛してくれてるよ

自信ありげに
小さな自分が胸を張る。
そうだよ。
愛してるもの。
ぼくもアイシテル………アイシテル………。


何だか
小さな自分も遠くぼやけていく。


さやさやと風が渡っていく。
いや風が頬に当たっている。
前を滑る背が頼もしく
安心して氷を蹴る。


あれ 練習してたんだっけ
そう思ったとたん
その背が見えなくなった。


 たけちゃん
 ………………どこ?

きっといる。
いつも たけちゃんはいるもの。
瑞月は思う。


 たけちゃん
 たけちゃん

だから呼んだ。
安心して呼んだ’。
さやさやと心地よい風が頬を撫でる。

もうリンクも遠い。
たけちゃんは いるよ
その感覚だけがふんわりと瑞月を包んでいた。




高遠の手が止まる。
その顔に浮かぶ逡巡の色を
綾子はまじまじと見つめた。


〝高遠さん
 私、
 あなたを知りたいのです。

 あなたのそばに置いていただけませんか?〟

聞きようによっては
とんでもないことを言うのは、
綾子の常だった。

〝いいですよ。
 引き受けていただいて
 本当に助かりました。

 えっと一日でいいですか?〟


文字通りに受けとればいい。
高遠は
それを春に学んでいた。


咲に話を通すと、
あとは咲が話を進めた。

綾子は午後にやってきた。
海斗や瑞月との再会は、
目当てではないらしい。


〝どうぞ〟
そう微笑んで
座布団を進めたきり、
高遠は開いていた問題集に向かった。


静かな時間が過ぎた。
二時間も経ったかというところの
僅かな変化がこれだった。


来た!
胸が締め付けられると同時に、
ハッとしていた。



〝その人が見えると感じるのは
 ほんの一瞬のことです。

 あなたが高遠さんを見る間に
 その一瞬が来るかはわかりません。〟

咲の言葉が甦る。
高遠が揺れている。
その一瞬がリアルに迫ってきた。


その生々しさに、
ハッと気づいた。
その一瞬とは、
覗き見の許されぬものなのではないか。


 自分は何の関わりもないのだ。
 これは覗き見だ。

続いて降ってきた理解は重かった。
〝覗き見〟と言葉に結晶すれば、
これを覗き見と思いもしなかった己を抱えて
こうしている今がいたたまれない。


綾子は
こうした時の切り替えが速い。
きっと姿勢をただした。


ところが、
「あの………」
綾子が背筋を伸ばしたと同時に、
高遠が立ち上がった。


「出ますよ。」

さらりと掛けられた声は、
綾子の力みに
肩透かしを食らわせた。

えっ
正座のまま見上げる間に、
もう襖は開けられ、
高遠は歩き出している。


「あのっ
 私はご遠慮しますっ」

申し訳なさと詫びを込めた精一杯の声に
驚いたように
高遠が振り返った。


「来てください。
 ちょうどよかった。

 合唱に参加していただくなら、
 知っておいてもらうと、
 有り難いです。」


キョトンとする綾子に
高遠はだめ押しに笑いかけた。
思い切り屈託のない笑顔だった。




〝高遠です。
 綾子様も一緒です。〟

〝わかった。〟

平静過ぎるのではないか。
そう思いながら、
西原は報告を終えた。


総帥が部屋を出る。
その顔もまた平静だった。


「交替だ。
 チーフ、
 あなたもですよ。」

いつの間にか
樫山が後ろに立っていた。




廊下をすたすたと進み、
踏み石に置かれた履き物を突っ掛け、
高遠は庭に下りる。

それを
追って
あたふたと綾子も
慣れぬ履き物に足を入れた。


あれ
と思う間に、
高遠の姿がない。


あわてて
すぐ側の角を回り、
綾子は立ち止まる。



高遠が身を屈め
瑞月を抱き起こしていた。

また倒れたかとどきっとしたが、
見れば敷物がある。
外で昼寝していたのかと驚くが、
高遠の委細構わぬ様子があった。


綾子は見つめた。
ただ見つめることにした。
知っておいてほしいと言われたものを
きちんと見なければならぬ。



高遠の胸で
ふわりと煙るようにまぶたが上がり
長い睫毛が震える。
焦点の合わぬ視線は綾子を素通りして
己を抱く高遠を見上げて止まった。


「たけちゃんだ………。」

朱唇から零れる声に
綾子は
また
いてもいいのだろうかと
たじろいだ。



剥き出しの信頼は
直視を憚る色を添える。


細い腕が
高遠の首に巻き付くのを見た。

「たけちゃんは
 いつも
 いてくれるよね。」

夢見るように甘い声を聞いた。



そして、
またその目は閉じられた。
すやすやと眠り出す瑞月を抱いて、
高遠が立ち上がる。


何でもないように
自分に笑いかけると、
高遠は眼差しで庭をぐるっと示してみせた。


「一人で
 外に出さないようにしてます。
 風や木や光や影、
 瑞月は反応するんです。

 巫になった。
 ほんとうに巫になったというこよかもしれません。

 綾子さんにアルトをお願いしたのは、
 歌う皆に反応して
 舞い始めてしまうからです。

 先生が指揮にというのは、
 瑞月に型をくれたんだと思っています。
 振付があれば
 そこに心を集中できますから。

 クラスの皆は感じてくれています。
 瑞月は皆にとって大切な天使ですから、
 こんなところも天使だものねって。

 綾子さんに頼めてホッとしています。
 よろしくお願いします。」

綾子は
言葉もなく
高遠とその腕に抱き上げられた瑞月を
見つめた。


反応してしまうという瑞月については
すんなりと落ちた。
春に出会った瑞月も十分に綺麗だったが、
高遠の腕の中の瑞月は、
また違っていた。


 反応する………。

反応。
瑞月は反応する。
先程の瑞月の姿がぐるぐると頭を巡って
言葉にならなかった。



「どうして、
 お前がここに?」

低い声がした。
自分が尋ねたのかと思った。
綾子は振り向いた。


鷲羽海斗が
縁の端に佇立していた。


「呼ばれました。
 心細くなったのでしょう。」

「世話をかけた。」

「お渡しできますか?」

高遠の問いは
どういう意味なのだろう。
抱いたまま静かに海斗を見返す姿は
値踏みするように動かない。


海斗がひざをついた。
差し伸べる腕を見て高遠が動く。


「たけちゃん………。」
そっと海斗の腕に下ろされて、
瑞月が
ふっと離れていく高遠の腕を追って
いやいやをした。



「瑞月」

海斗が瑞月をぐっと抱き寄せ
その名を呼んだ。


瑞月のまぶたが震える。
口角が上がる。
ふわりと開かれた眸が濡れたように輝く。
その笑みは綾子を揺らし
体の芯に熱を感じさせた。
綾子の知らぬ世界が広がった。



綾子は
その場にいてよいかを
もう悩まなかった。


あの春の日、
皆が何を見たのかと
聞きたがった。

皆が見たと思ったものを
綾子は見ていた。
そして、
それは美しかった。

 狼がその前肢に
 白く儚いものを押さえつけ
 じっと見つめている。

 その獲物のしなやかな首筋は
 自らその牙を乞うように
 差し出されていた、


鷲羽海斗は、
その逞しい胸も
その端正な顔も
憧れた王の姿そのままに美しかった。
だが、
「瑞月」と呼ぶ海斗にあったのは、
ゾクリと背筋を凍らせる凄みだった。


 
その猛々しさが
抱き上げた瞬間に
瞬時にして慈愛の顔に変わるのを
幻像のように感じた。


その慈愛の奥に残る狼の残像が
抱き上げた腕に
踵を返した背に
仄暗く熾火のように張り付いていた。


「綾子さん
 ここまででいいですか?」

高遠の声に背を打たれ、
綾子は向き直った。
高遠が
真っ直ぐに自分を見つめていた。


深々と礼をし、
綾子は顔を上げた。


「ありがとうございました。
 分を弁えぬ我が儘な願いを受けていただき、
 感謝申し上げます。

 瑞月さんのこと、
 確かに承りました。

 高遠様、
 合唱、
 頑張らせていただきます。」


そして、
必ず、
またここに来よう。
綾子はそう決めた。



「三枝の家は
 鷲羽を表から支えると
 昔から決まっているのだ。

 だからな、
 綾子、
 お前が嫁に入るのが一番いい。」


支えるのだ。
それは決まっている。
そう心から思えた。

嫁という道はない。
支えるという道はある。
高遠の信頼に応え、
その道を探ることが
綾子には大切に思えた。


鷲羽海斗、
高遠豪、
鷲羽の男たちと月の巫。
その繋がりはひどく危ういものだ。
危うくて美しい。

 勾玉は二人を結ぶものの
 はずなのに………。

三人がそこにある。
そのアンバランスが綾子を惹き付ける。
勾玉を持たぬ狼、
高遠豪は何者なのだろう。

潔く、
見事な狼は、
己にそれを見せてくれた。
それが嬉しい綾子だった。



「三枝様
 お迎えの車が来ています。

 どうぞ。」

西原が
現れ、
頭を下げた。
三枝綾子の学びの一日は終わった。




「高遠!」

自室に戻り、
また問題集に向かっていた高遠は、
無遠慮に襖を開ける西原に
苦笑する。

「トムさん
 声くらいかけてくださいよ。」

「かけたさ。」

憤然として西原は応じる。
機嫌が悪い。

「襖を開ける前にです。
 俺が泣いてたらどうするつもりだったんですか。」

高遠が
すっと声を落とした。
顔はうつむいている。


西原はずいっと踏み込み、
高遠の胸ぐらを掴んだ。

「………………お前、
    瑞月の心が読めるのか、
    総帥みたいに。」

「さあ………。
   海斗さんとは違うと思います。
  呼ぶ声が聞こえる。
   それだけです。」

西原は
口をぱくつかせ、
それから胸ぐらを掴んだ手を離し、
どかっと座り込んだ。

「トムさんが
     それを聞くってことは、
     モニターは切ってますよね。」

高遠が
くすくす笑う。


「不安になると
 瑞月は俺を呼ぶんです。
    それは昔からです。
    この力、
    もっと前に欲しかった。
    
    願いが叶ったのかもしれません。」

もう笑いは消えていた。
淡々とした声音から
高遠が繰り返し考え尽くしたことが察せられた。

何度も思ったのだろう。
もしあの時
声が聞こえていたらと。



「5月からか。」

西原は唸る。

「ええ。」

返事は簡潔だ。



蝉時雨が降り頻る
どちらも口を開かぬ部屋に、
その代わりと蝉たちのコーラスが響く。


「よしっ!」

いきなり
西原が膝を叩いた。


「高遠!
 瑞月が助けを呼んだら
 すぐ教えてくれ。
 
 警護もすぐ動く!」

声のいい男だが、
また随分と威勢がよかった。


「トムさん
 声が大きいです。」

高遠が笑う。
自然に笑えてしまう感じだ。
西原の顔がみるみる明るむ。


「それとな
 高遠
 ………俺はお前が好きだからな。」

西原は
顔を引き締めて言い添えた。


「トムさん
 俺もトムさんが好きです。

 誰か話したかったんですよ。
 綾子さん、
 いいタイミングでした。」

それは
きっと本音だろう。
さばさばと高遠は
また笑う。

「あのお嬢さん、
 分かってるのかな。
 ちょっとズレてるぞ。」

西原が首を傾げる。
高遠がニヤリと返す。

「ズレてますが、
 大事なとこはわかる。

 だからアルト頼んだんです。
 咲さんのお気に入りですよ。
 最高の保証だと思いませんか?」

二人は
あっはっは
今度こそ曇りない笑いに崩れ込んだ。

咲の名前はこの鷲羽においては
万能の保証書だ。

状況に変わりはないが、
愛しいものは
今日も無事に笑っていてくれた。
その笑顔だけは
思う二人だった。




画像はお借りしました。
ありがとうございます。





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