この小品は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





洋館の地下は、
延々と幾層にも連なる書庫と
このところお見限りの執務室とで構成されている。

書庫は、
ときに絡み合う二体の彫像が
警護の眼も
母屋に踞る気も離れた逢瀬を貪る隠れ家ともなっていたが、
執務室から遠慮のない声が響くのは久しぶりだ。


「じゃ、
 俺は戻ります。」

「慌ただしいな。
 落ちが出るぞ。」

「うーん………。」

武藤拓也は、
しまいかけたタブレットを手に、
すっと眉を寄せる。
海斗の眉が微かに上がった。


拓也は動揺で表情を変えることがない。
それは
もう
憎たらしいほどにない。



そのくせ表情は豊かだ。
くすっと引き込むように笑ったかと思うと
うーん どうかなと対手に寄り添った真剣な眼差しを見せる武藤に、
気づいたときには懐に飛び込まれた人々は、
あははっと共に笑い声をあげる彼を、
息子か孫かのように思うのだ。

プロジェクトに関わるメンバーは
鷲羽の外にぐんぐん増えていた。



そう、
基本、
武藤は明るく安心を振り撒くのだ。

ちょっとしただらしなさもご愛敬で、
仮住まいのマンションが蛸部屋と化す前に、
あらあら
だめですよと甘やかしながら
女衆が片付けてくれる。
GW以来、
彼女らはお気に入りの補佐のため、
進んで出張してくれるのだ。




整った造作は、
総帥補佐としてプロジェクトを担う今、
落ち着きをぐっと増している。
めったなことでは揺らがぬ面構えに、
無造作に着た麻のシャツも
爽やかに涼しげに映えている。


「………何だ?」

海斗の声が
不機嫌になる。


こと対人関係と恋愛事情に関しては弄られ役の長兄は、
次男のお楽しみスイッチが入るのを、
読めるようになっていた。


いかにも心配気に
武藤は頭を振ってみせる。

「不安要素は兄さんだけかな。
 合唱団に入る狼って、
 何のジョークかと思いましたよ。
 ちゃんと
 作田さんの言うこと聞くんですよ。」

「心配ない。」

海斗は簡潔に答えた。
音は取れていた。
練習の輪も離れていない。
合唱の件で心が騒ぐことはなかった。


おや?
拓也の目がきらめく。
じゃあ何だろうな
次のジャブを考えているのだ、


「玄関まで送る。」

海斗が無愛想に言って、
拓也の荷物を手に、
そそくさと先に立った。


おやおやと
拓也はその背を見つめる。
長兄は尋ねたことに嘘をつかない。
そして、
急に急ぎ出した。


「じゃあ
 瑞月なんですね。」

海斗の足が止まった。
ちょうどドアでもあった。
そのためかもしれない。
拓也に確証は与えられなかった。



「瑞月もだいじょうぶだ。
 学校は楽しいらしい。」

背を向けたままそれだけ応えると、
海斗は執務室のパネルを操作する。



 ばれたくないのか、
 言っても’仕方ないと思っているのか、
 どっちだろうな。

浮き浮き考えながら
拓也は不器用な長兄の後ろ姿を眺めた。


こうして後ろ姿を見ていても、
この男が通信高校に通う苦労人たちに混じって合唱とは、
何とも不思議な気がしてくる。


 狼は
 どこまで行っても狼なんだけどな


まるでお伽噺を見るようだ。
優しい狼が
不器用に身を縮めて
愛しい仔猫のために牙を隠して
羊たちに紛れ込むのか。
そんな感慨があった。


ぴっ
と解錠音が響き、
執務室のドアは開いた。
階段を上がれば
玄関は
もうすぐだ。



今回はここまでかな。
拓也は思う。


 まあ作田さんがいてくれる。

楽しみでもあり、
気がかりでもある長兄の見守りには、
作田博という協力な’助っ人を迎えている。
フツーの様々に一々浮いてしまう海斗が引き起こす諸々はあるだろうが、
対処はできているだろう。

とんぼ返りで向かう本州の突端の地に
頭を切り替えようとしていた。



海斗が立ち止まった。
もう拓也の位置からも、
暖炉の配された壁が見える。
そして、
西原に抱き上げられた瑞月も見えた。


眠り込んでいるのだろう。
逞しい腕に預けられた頭から
さらさらと黒髪が零れる。


 ………………何だ?

拓也は
久しぶりに目にする瑞月の姿に
息を呑んでいた。



 ………伸びたな。
 髪が長くなった。


変わったところを
数え上げようとするが、
それは髪の長さくらいしか上げられない。
だが、
変わっていた。


華奢な月の精は、
本当に月の光を集めて凝ったように
そこに眠っていた。


だが、
海斗が見ているのは、
瑞月ではなかった。
それが、
動かぬ後ろ姿からひしひしと伝わる。


玄関の扉が
閉じようとしていた。
入ってきた人物は見えないが、
誰かが入ってきたところなのはわかった。
海斗は
その人物を見ていた。


「ああ
 眠っちゃったのか。」

予想通りの声がした。

「お、おう。
 寝室に運ぼうかと思ってな。」

西原の声が
ほっとしたように続く。



「海斗さんが仕事だと聞いたので、
 こっちに寄ってみました。
 終わったんですね。
 よかった。
 じゃあ母屋に戻ります。」

どこか張り詰めていた空気を
少しも意に介さない声が
瑞月をはさんで部屋を渡った。


「ああ
 気を遣わせたな。
 西原、
 瑞月を頼む。」

「はい。」


拓也は
動き出した長兄に続いて
進み出た。

高遠が
パッと明るむのが見えた。
西原は一礼して脇を抜けていく。


「やあ
 とんぼ返りなんでね
 黙って出ようと思ってたんだ。

 豪君、
 元気そうだね。
 顔を見られてよかったよ。」

実際、
嬉しかった。
そして、
見てよかった。

「兄さん、
 この契約がまとまったら、
 こっちに戻りますよ。

 しばらくぶりに
 家でゆっくりできそうだ。
 じゃ。」

荷物を受け取り、
高遠の肩を叩き、
武藤拓也は空港へと向かう車上の人となった。


総帥補佐の武藤も忙しいが、
次男たる拓也も忙しくなりそうだった。

 超特急で仕上げてきてやるさ、
 兄さん。

イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。






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