この小品は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





あっ………。

ザザッ………………………。


微かな声に
黒い風は立つ。
そして、
油照りの暑さと蝉時雨ばかりが残された。



男の胸に抱かれた少年は
目をみはったまま人形に変じてしまったかに
動かなかった。
炎天の下、
つつっと流れる汗がその白い頬を伝い、
時間は流れ出す。



男は
そっと少年の背に落ちた麦藁棒を
その頭に載せた。



「怖いか?」

小さな顎をとらえ
その顔を仰向ける。


ぼうっと見上げる眼差しは
真夏の庭を抜け出して
冷涼たる月の宮に飛んでいるようだ。


「こわい?」

あどけなく繰り返す声は
男の声を辿る。
スイッチが入ったように人の世を抜け出てしまう少年を
男は愛しく思っていた。


林を抜ける道は、
二人を守る男たちの眼を何ヵ所かに
もっている。
この日差しを案じているかもしれないな。
男は、
警護の指揮を執る若い顔を思った。




ぱんっ
男が少年の目の前で手を叩く。

ぴくんっ
細い肩が揺れて
黒曜石の眸が驚いたように
男を見上げた。


「おかえり」

くすっと笑ってみせる男の腕に
照れ臭げに頬を染めた少年が
しがみつく。



腕を貸したまま
男は鬱蒼と生い茂る緑陰の道に
少年を導いた。

さしたる距離ではなく、
日盛りに乾いた土を見せる道は僅かだ。
洋館から母屋へと
地下を通ることも可能だが
少年は林を抜けていくことを好む。


「怖かったか?」

歩き出した少年に
男は尋ねた。
叢に這いこんだのは無害な蛇だった。
だが、
その姿に闇を思ったのかもしれない。


えっ
少年はまた驚く。
表情の一つ一つが生き生きと分かりやすい。
そして可愛かった。
男にとって
それ以上に愛らしいものなどこの世にないほどに。


「ううん
 こわくなんかなかったよ。

 あのね
 すごーーーーく綺麗だった。」


這いこむその尾の残像を
男は思い出す。
日差しが鱗を煌めかせ、
半円を描いて消えていくそれは
細工物に命が宿ったかのような揺らめきがあった。


「そうだな。
 綺麗だった。」

そう返すと、
うん!
嬉しげに頷く。


かと思うと、
しがみついていた手を離し、
少年は呼ばれたように
ととっと傍らの樹に寄っていく。


ぴたっと
その幹に手をあて梢を見上げると
また微笑むのだ。


「えっとね
 暑いって。

 今日はみんな暑いって
 言ってるよ。」


甘い声だ。
男は
蝉時雨の中で
そう思った。

神を降ろす少年は
無邪気に感じたままを口にする。
その危うさまでが
この上もなく愛しい。


「そうだな。
 こんな暑さだ。
 咲さんが心配するぞ。

 急ごう。」

「うんっ
 母屋
 涼しいよね

 さやさやする。」


少年はくるりと背を返して
母屋に向かい出す。
その背が男を忘れたようで
男は切なくなる。


少年の後を追いながら
その背を見つめるのが
男の幸せでもあり
切ない時間でもあった。




突然くるりと
少年が振り返った。

まっすぐに自分に向かってくる笑顔が
男を包み込む。

「海斗!
 ねぇ はやくぅ

 一緒に入りたいよ。」


そうして、
男は少年と共に
勝手口を潜るのだ。

こんなに愛しくては
自分はどうなっていくのだろう。
そんな思いを男はそっと抱え込む。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



人気ブログランキング