この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。

☆ファン・エイク兄弟画
 ゲントの祭壇画から天使の合唱部分



「トムさん!
   どこ行くんです?」

笑いを含んだ高遠の声が響いた。
ピタッと足は止まる。


思わず振り向いたことは自覚していたが、
足まで動き出していたとは不覚だった。


「いや
    ちょっと
    騒がしいから
    ………………。」

ついしどろもどろになる。
バスからは
総帥の声が響き出した。


ついでにアルトからは
らしからぬ甲高い声が響く。
アキは確かにソプラノではあるようだ。
出ないと言っているのはサボりと見える。


〝だから 早くって
 言ってんのっ!
 かっちゃんが声出さなきゃ
 あたしら、
 歌えないんだからっ!〟

ほぼアルトの脅しは
年季が入っている。


〝最初の音だけ出しゃいいんだよっ
 おいら、
 もう三回出したぞっ!!〟

〝出す前に言ってよっ〟

もっともだ。
いきなり出されてもわからない。
古代の稽古場ではないのだ。


〝わかんないんだもん
 わかんないんだもんっ〟

もう瑞月は混乱している。
この〝わかんないんだもん〟の波状攻撃に
西原は反応した。
恋する男も始末におえない。



「わかりやすいなー
    あっちは心配ないぞ。」

ここは人生経験の差がものを言う。
口に出したのは久保だ。
にやつく顔は
よく日焼けしている。



テノールは若い。
高校生としたら若くはないが、
この大人寄り合い所では若手が配された。


よく日に焼け、
その手はまめを作り、
それぞれに仕事に励みながら、
その仕事に報われず、
不安定な就労から抜け出そうと一念発起という三人がテノールだ。


〝かっちゃん
突然、
聞き慣れぬ声が響いた。

バスでは作田の指示が止まり
海斗の声も止まった。
テノールでは抗弁しようと口を開きかけた西原が止まった。


いつも
アキの脇でにこにこしていたサヨが、
思い詰めた顔で
渡邉を見つめている。


瑞月の目がぱちくりし、
アキは口が半開きだ。
渡邉は思いがけず厳しい顔になった母を見るように
もじもじしている。


クラス全員が
サヨに注目した。
そんな位置に立ったことなど
サヨの人生ではなかったことだろう。
それは、
サヨを見る誰もがわかる。


だが、
サヨは、
今、
自分に注目あることに気づいてすらいないようだ。

「音出して
 出したら長く引っ張って」

渡邉は
押されるように口を開いた。


サヨの声が
そこに入った。
わずかに上下しながら渡邉の声に添う細い声が
しだいにブレをなくしていく。

息を継ぎ
精度をました声を添わせ
サヨは自分の声を聞こうと集中していた。


その集中を妨げまいと
バスもテノールもサヨの声に集中する。
渡邉の見事な声は変わらない。
だが、
皆の耳は微かに響き続けるサヨの声を聴いていた。


 はあっ………。

ついに
さしもの渡邉の声も途切れた。
そして、
皆は聴く。

ほんの数秒だったが、
その声は揺らぐことなく均質に続いた。
正しくサヨは音を取っていた。


さすがパートリーダー!」

高遠が腕を突き上げて吠えた。
その声に続く
みなの解放されたかのどよめきの中で
海斗はその姿を見つめた。


作田が寄り添った。

「佐賀君、
 役割というものは
 あるものだよ。
 人が集まる場では自然に決まる。

 君は君のできることをする。
 何だかわかるかい?」

「音を正確に出すことですか?」

「そうだ。
 何回でも出すんだよ。

 みんなが覚えるまでだぞ。」

鷲羽海斗は
こっくりと頷いた。
頷いたままじっと押し黙る。

わいわいエールを送りながらも
パートの位置を誰も離れない。
俺たちもやるぜ!
男たちは
明るく声をあげ拍手を惜しまない。


ようやく
自分に向けられた注目に気づいたサヨが真っ赤になり、
アキと瑞月に飛び付かれていた。
渡邉はキョトンとしている。
立派な大人が騒いでいるのが不思議なようだ。


作田は、
小さな、
でも真剣な囁きを聞いた。

「………高遠の役割は何ですか?」


傍らの少年はだいぶ背が伸びた。
見上げると目は伏せられている。
作田は負けずに小さく、
でも優しく応えた。

「みなを仲間にすることだ。
 見事なムードメーカーだね。
 瑞月君が溶け込んでいるよ。」



鷲羽海斗は、
じっと黙っていた。

「君も瑞月君も、
 仲間になるんだよ。

 これは大事な勉強だ。」

作田はそっと言い聞かせた。

その姿を現すだけで
瞬時に集団を命令一下動く戦闘グループと変える〝少年〟は、
部下は作れる。
だが、
この子に必要なのは仲間という感覚だ。
教えたかった。

初恋を知ったばかりの中学生よろしく、
この許されたわずかな時間に
少年の視線は恋人を求めて切なげだ。


「瑞月は
 高遠に惹かれます。」


「惹かれない奴はいないさ。
 魅力的だからね。」


「どうやっても
 私から離れていきます。」


「だから恋ができる。
 ドキドキするだろう?

 頑張りなさい。
 やるべきことをできなければ
 恋も失ってしまうものだよ。」

作田は子ども相談室の時間を打ち切った。
政五郎が動き出す。


「さあ
 俺たちも頑張ろうぜ。

 旦那、
 よろしく頼みますよ。」

こうして自分を呼ぶのは、
鷲羽海斗を仲間に入れるためだ。
目立ちすぎる男が
勝手に歌い出したり止まったりしては
ペースが乱れる。


「作田です。
 そうですね。
 まず
 ここまでのところを
 一度やってみますか?」

「そうしやしょう。
 旦那はやっぱり頼りになる。

 海斗さん、
 しっかり声出してくださいよ。」

もう〝旦那〟はあきらめて
作田は
海斗のもつ楽譜に指を走らせ、
最後の念押しをした。

「いいかい。
 ここまでだ。

 ここ難しいんだ。
 はっきり出すようにね。」

難しいんだ、
に瞬時首を傾げかけるのを
肩を叩いて阻止する。


 難しいんだ
 難しい

 君に難しいと言ってるんじゃない
 いいね
 これはパート全員できてクリアだからね


そして、
バス一同の渋い声が
海斗の声に合わせて歌い出した。




テノールでは
西原と高遠が肩を並べて歌い、
デッキを挟んで向き合った三人が
それに合わせている。

歌える仲間は相乗効果でより歌えるようになる。
そして、
この二人には豊富なリーダー経験がある。
テノールは唯一の安全牌だ。
恋狂いのリーダーも
瑞月が安定すれば安定する。


そして、
サヨは
もらった励ましを力に
びしっと背筋が伸びていた。

「いい?
 音取るには声出すの。

 かっちゃんの声に声を合わせればいいだけ。
 できるよ。
 あたし できたもの。
 できる!」

飽きちゃった可知である
渡邉が口を尖らせる。

「もう いい?
 おいら、
 声出していい?」

サヨがにっこり頷いた。



パートリーダーはパート練習の要である。
その姿勢が皆を一つにする柱となるのだ。


画像はお借りしました。
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