さて、
昭和4長谷川四郎「鶴」です。






〝私〟は軍人です。
膂力はある。
矢野もです。


二人は他の兵隊より
かなり早く乾草運搬作業をやりとげ
二人して乾草に凭れて休みます。



 おれは
 天皇なんか
 なんとも思っちゃいないんだ


矢野は言いました。
私は黙って受け入れ
沈黙の中で二人は親しくなりました。




軍人勅諭を覚えず、
上官の名も覚えない。
矢野は侠気ある男で仲間に愛されながら
軍の上下関係になじまぬ男でした。


 おれは人殺しなんて、
 考えたことはなかった。
 が、
 このごろ、
 奴らの顔を見ていると、
 これを叩き割って、
 中にどんな脳味噌が入っているか、
 見たくなることがあるんだ。

矢野は微笑しながら言うのです。
しなやかに、
折れもせず、
淡々と己自身である矢野を
私は好ましく思うのでした。




私は大学出です。
炊事班の残飯記録係の仕事は無意味で
〝こんなことできません〟と
言うのですから
私も矢野に通ずるものがあるのでしょう。


矢野も
私も
声を荒げる場がありません。


淡々と戦況は悪化し
淡々と二人は配属が変わっていきます。



大陸北方の国境地帯の監視業務が
私の任務になりました。
監視哨があります。
その壕を掘り
その小基地を作った坑夫らはそこに埋められたと
囁かれます。



そこに詰めた私たちは
対洗車自爆の訓練を受けます。
本物は重いぞと言われながら
ハリボテの自爆機を抱えて訓練する。


戦況はいよいよなのだ。
それが読むものに伝わります。




ある夜
歩哨の交代で
私は懐かしい声を聞きます。
矢野でした。


ただ一人
転々と移されていく矢野の経歴が
矢野の折れないこれまでを語るようです。




矢野は歩哨の順番を代わってくれ
私に頼みます。
私は代わり、
そしてある夜、
交代の場所に矢野はいませんでした。



私は
その場を動きませんでした。
上官がやってきました。
〝矢野は?〟の問いに
私は答えます。
〝先程交代しました。〟


しばらくして追っ手は出ました。
が、
矢野はつかまりませんでした。





一週間ほどして、
ついに監視哨は発見され
砲撃が始まりました。


私は
望遠鏡を取りに哨に上がります。
そして、
ふと
覗いてみたくなります。
鶴のいた沼を。






私は
ある日
池にゆったりと羽を休める鶴と
その鶴を狙う銃口を見たのです。

鶴は舞い上がり
ゆったりと羽ばたいて
空を進んでいきました。
銃弾は放たれることなくおわり、
鶴の姿は遥かな空に消えました。





私は
その池をもう一度見たくなり
同時に黒い影を見ました。


銃弾は
望遠鏡を掠め私に当たりました。


私は傷口を手で抑え、
そしてあの池の方へ行く足跡路を
辿っていった。

私は長いことよろめきながら
苦心して歩いた。

そして突然、
私は眼前に池ではなく黒い川を見たのである。
それは、
あの国境線だった。

傍らには一本の棒杭が’立っていた。
私はその下に身を横たえた。
その時、
私はそれが自分の墓標になるだろうと思ったのである。
太陽はもう熱くはなかった。
それは気持ちよく暖かだった。

私は眼をつむった。
すると
消えた道路の上を整然と行進してくる人々の足音や馬車の音が
聞こえた。

道路はよみがえり国境線は消えた。
それは広々とした耕地に
変わったのである。

そして
矢野が
そこで
発動機船ではなく
トラクターを運転しているように
思われた。

一方、
私の傷口は新たに開いて、
地がこんこんと湧き出てきた。
それは私自身の中にある海だった。
海が私の周囲に涯しもなくひろがり、
私は、
その無限の深みへ、
ゆっくり沈んでいった。



なんという静謐。
驚きました。


 主人が歴史オタクで
 近現代史においては軍事オタクでもあるため、
 店主は、
 無念を綿々と語る記録、
 惨をひたすらに綴る記録に
 結婚後数年で用心を覚えました。


 そこから継承に繋げるには
 その無念と惨は
 受けとるものの前に厚い壁となって
 のしかかる。
 記録の多くは向き合うに覚悟を要します。


この〝鶴〟の読了感の静けさは
特筆に値します。
ここに昇華された〝生〟と〝自由〟への思いは
鶴に結晶して美しくさえございます。


そういう物語があった。
著者の体験に基づく虚構です。
その鶴は、
長谷川四郎さんがご覧になったのだろうか。

虚構の友〝矢野〟に重なる鶴が
哨から望遠鏡を覗く長谷川さんに
どう見えたのだろう。

そんなことを思いました。


画像はお借りしました。
りがとうございます。



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