この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




お仕着せの黒い燕尾服の裾を靡かせて
ウェイターたちが粛々と動き回る。
ホテルの朝は始まっていた。
背面を深紺色のカーテンに閉ざして
どっしりと置かれたカウンターは
磨かれたばかりだ。


底光りする黒檀を挟んで向き合う
燕尾服は
その顔からもの柔らかな笑みを消すことなく
青年の客を待っていた。


灯されるガス灯が
ホテルの紋を透かした用箋と動かぬ青年のペン先を
徒に照らしている。


音もなく降りしきる雨に
垂れ込めた空は重く、
ラウンジに薄闇は腰を落ち着けていた。


残念そうな吐息が洩らされるのを
燕尾服は聞いた。
さらさらとペンは動き、
青年は肘をついたまま人なつこい笑みで燕尾服を見上げた。



「これをロンドンに打っておいてくれ。
 それと、
 ぼくの滞在なんだけど
 もう数日延ばしたい。

 仕事ができたんだ。」




遠乗りの一行は
もうテーブルについていた。
声は潜めていた。
話題も天候のことに収まっていた。
青年が最後に刺した釘が効いている。


〝仕事なんです。
 秘密は守らねばなりません。
 ぼくのことは内緒です。
 絶対ですよ。〟


大人たちは、
道理も弁えていたし、
意気込む若者の〝秘密〟を
いとおしくも思った。


穏やかに会話を交わしながらも
つい入り口へと動く視線は
どうしようもない。
黒髪のアポロンにまつわる物語は
昨日来
一気に魅力を増していた。



いつ閉じられたのか
その瞼は仄白く
長い睫毛はくっきりと影を落としていた。

ぽとり
血を落としたように
唇だけが鮮やかに赤い。




そっと身を離すと
なめらかな肌は薄闇にあって
白く沈む。

水底にあるかのような白は
もう何物も求めぬ。



美しい人形は
ひっそりと置かれたままに
そこにあった。



そっと夜具をかけ、
グレンは身支度をする。
朝食は何事もなく終わらねばならない。




鏡には
数百年の時にも変わらぬものが
映っていた。
餌となる人間たちを魅了する美貌は
冷たくグレンを見つめ返す。




鏡の端に寝台の小さな膨らみと
零れる黄金が在る。
そして、
グレンは胸に重い絶望を抱きながら
その顔に笑みを浮かべた。



「アベル
 おはよう」

頬に手をあて、
そこにエナジーを集中させて
グレンはアベルを呼ぶ。



まぶたが開いた。
サファイアがグレンの顔をとらえ、
そのまま止まった。
唇も動かないが
眸も動かなかった。




「いい子だ
 わたしは朝食に行ってくる。
 ここで待っておいで。」

まぶたはふたたび閉じた。
ただ開いて閉じたサファイアに置き去りにされ、
グレンはまた一つ深く階段を下りた。
数百年を経て
心だけは血を流すことを
忘れていなかった。


希望が生まれたとき
絶望も生まれる。
この数ヵ月に一気によみがえった揺れる心に
グレンは翻弄されていた。




ベンジャミンは
食堂に入って待つか
ラウンジで待つか
決めかねていた。


決められぬまま
椅子にかけるでもなく
ラウンジをうろうろする様は
調査員としてはいかがなものかと思われるが、
そこに気づかぬのが若さというものだ。


何といったかと
老婦人の名を確認する手帳も
真新しい。


〝ブラウネット夫人〟とある。
素直に頷く頭を見るに
名前を忘れたというより、
頭の中で組み立てた考えを
一生懸命に反芻しているのだろう。



「ウェストン様
 おはようございます。」

その声に
青年は振り返った。
ついでにソファに蹴躓いたが、
そんな雑事に止まることなく
その会話は進んでいく。


「弟様のお具合は
 いかがですか?
 何か用意するものがございましたら
 お申し付けください。」

「ああ
 ありがとう。

 いつもの貧血だ。
 また食後に
 温かな飲み物を頼む。
 そうだな
 ココアにしておくれ。」




ベンジャミンにも
慇懃に燕尾服が近寄り
「だいじょうぶでございますか?」
膝を払う手布を差し出した。

へどもど受け取り
パタパタする横をすっと抜けていく長身の影を感じ、
ベンジャミンは焦った。



「あっ、あのっ………。」

相手の顔を見もせずに、
急いで立ち上がり、
そして
絶句した。


まさに黒のアポロン。
本当に、
誰もがわかるような人物なのか
自分の目で確かめたいと考えていた青年は、
その目的を達していた。


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。



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