この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




降り続く雨に降り込められたホテルは、
暦が春へと進んでからを
冬とも春ともつかぬ薄闇の中に
辿ってきた。



昼なお暗い外は
いつ目をやっても窓を伝う雨垂れに遮られる。
そんな1週間が終わった。



春の訪れに
黄色の花弁を揺らす水仙、
野辺を柔らかく覆う緑を
荒れ野を渡る風が揺らすさざ波を愛する常連客ばかりが
暦に合わせて集う街である。



「やあ
 ようやく晴れましたな。」

恰幅の良い紳士は
そわそわと
長椅子に置いた尻を浮かせんばかりに
声を上げる。


静かに
グレンは目を上げた。

「ほんとうに。
 
 今朝は
 小鳥の声で目覚めましたのよ。
 春がようやく暦に追い付きましたわね。」


薄紫のローブが春めく老婦人が応じる声は
どこか可愛らしい。
向き合ったご主人は、
そんな妻に微笑んでいる。


それぞれに
互いを侵さぬ距離を保てる空間が
陽光に結び合い
会話が始まりうとしていた。



「雲雀は歌い
 蝸牛は枝に這い、
 神は空においでです。

 さあ
 春の朝ですよ、
 皆さん。」


第一声を上げた紳士は
我が意を得たりと
頷く。
恰幅もよいが、
一同の中では元気の良い客でもある。


 冬が腰を落ち着けたかの3月の氷雨が
 いつもなら
 もう賑わいを見せているはずのホテルを
 寂しいものにしている。


それが
この紳士の口癖だった1週間だ。
グレンの美神を思わせる姿も
到着して早々に振る舞ったにこやかな挨拶に
その垣根は取り払われていた。


「どうです、
 ウェストンさん。

 ここは保養にも最適な地です。
 ようやく胸を張って
 そう言える。
 これから一気に春めいてきますよ。」


病弱な連れがいる。
そう告げて
朝食の場にのみ顔を出す。
グレンは
そうしてこの1週間を過ごしていた。



 朝は起き上がることができず、
 寝かせています。


静かに微笑み、
紅茶の時間を過ごし、
静かに去っていく長身は、
もう次の朝まで現れない。


「そうですね。
 美しい季節を過ごせる場所です。
 嬉しいことです。」

軽々しく
連れの病状には言及しない。
そして、
このホテルの客たちは互いの領分を察するだけの良識を備えている。



静かに
紅茶のカップを置き
グレンが立ち上がる。


ラウンジの飾り棚に置かれた時の女神を模した時計が
カチリと優雅な女神を回転させ
澄んだ音色が時を告げ始めた。





「失礼します。」

グレンの朝の勤めは終わりの時刻を迎えた。
ラウンジを抜けていく長身は
陽光を受けて春の王のように輝かしい。



「………お連れというのは、
 奥様なのかしら。

 きっと
 とてもお美しい方ね。」

老婦人は
ひそやかに囁いた。




グレンはラウンジを後に
足早になる。
そっとドアを開けて滑り入る。


「おはよう
 よく眠ったね。

 綺麗だ。
 アベル、
 君は本当に美しいよ。」


ベッドに半身を起こした少年は
レースのカーテン越しに柔らかく注がれる光の中にいた。




食事は終わり
眠りは
そのエナジーを肢体の隅々まで行き渡らせている。


春の中に生まれ出た少年は
光をその手に掬う。

「………グレン、
 なんだか、
 キラキラしてるよ………。」


戸惑ったように振り返る少年に
グレンは答える。


「春だ。
 春が来たんだよ。」



黄金の髪が波打ち
その肩を流れ落ちる。
白磁の肌は光を吸って眩しいほどに白い。
見返る半身の描くしなやかな曲線が
その指先から零れる陽光を纏って
少年は
さながら神の手になる像であるかのようだった。



 神の治める国に
 自分は
 まだいるのだろうか。


冷たく暗い黄泉路を行きながら
そこに
アベルを得たことが
赦しのように思われる朝だった。



イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。


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