この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





笑いは消え、
老人は
ふうっと息をつき、
杖に顎を乗せた。

眉が
その目に覆い被さり
その眸はその背後に隠れる。



「なるほど
 互いに侵入者ですな。」

老人は低く応じた。


「ここの主は
 何なのか。

 私なりに答えを持っています。
 申し上げても?」

海斗が続ける。


「そうしてご自分の札をさらす。
 危うい 危うい
 
 お若いことだ。」

老人の声は揶揄するようでもあり、
ただ己の優位を確認するようでもあった。


海斗は
それに構わず
ただ形を改めた。

老人の眸を真っ直ぐに見返す。


「鷲羽に伝わる絵に迎えられました。
 同じ祭儀を司るものは、
 同じ一族。
 
 主は鷲羽の長であった。
 つまり、
 この私。

 いかがですか?」

海斗は
静かに問う。




「いかがなものでしょうな。
 歴史の話では
 今を計れますまい。

 今の主は私です。 
 この庫にありますもの全て
 私のものだ。

 ………ま、法律ではね。
 不法侵入者はあなただ。」


老人は楽しむように
問い返す。



「今?
 時間の流れは
 お互いに関係ない世界に
 私たちはいます。

 あなたは
 秦伊周ではなかった。
 その父上に似ておられるようだが、
 その姿も借り物でしょう。」


 間違いない

板戸を前に思い、
伊周の姿に思い、
何より
この禅問答に思っていた。

海斗は
すっと
もう一歩を踏み出した。



老人は
下がるでもなく、
ニヤリと目で笑った。


「では、
 あなたは、
 主としてここに見えられたということになる。
 よろしいでしょう。

 では、
 主に
 お伺いします。」


老人が
ふわりと宙を飛んだ。
棚の端にスーツの裾がくいっと掛かり
怪鳥は宙に腰掛けて
小首を傾げる。



虹の宝玉が一気に光を落とした。
その中で
初めて近々と老人の顔は浮かぶ。
光彩が広がり黒々と口を開けた眸がそこにあった。



先ほどまでの擬態は
捨てられた。
それは
既に人の姿ではなかった。





伊周がぐうっと呻き声を上げた。

「………違う。
 これは父じゃない!
 絶対に違う!
 ………………父さん!!!」



伊周は膝から崩れ落ちて床を拳で殴った。
その指を血が伝う。




懐に飛び込んだとも言える位置に
老人は浮かんでいた。
黒服は位置を変えていない。
政五郎と西原は黒服に対峙し動かない。
民は綾周を抱いたまますっと下がった。
虹の玉が綾周の目の前に輝く。



ぐっと
虹の玉に近く
人の群れは固まった。


伊周の号泣が
啜り泣きとなり
嗚咽がそこに流れる。




その闇を宿して虚ろな穴は
海斗の顔の先、
わずかに1Mも満たない宙にぽっかりと開いている。



皺に埋もれた唇が
パカッと開いた。
能面が割れたかの印象だった。


「仰有る通り、
 歴史や法律の問題ではない。
 わたしは秦伊周ではありませんし、
 その父でもない。
 そんなものはね、
 消えました。

 さて、

 ここの主となれば
 ここは主を受け入れて
 主に扉を開きます。
 
 では、
 鷲羽さん、
 何をもって、
 誰に、
 ご自分が主であると証をお立てになります?

 私はその鍵を知っている。」



言い終わるや
空洞となった眸がくるっと
向きを変えた。


「秦の者よ
 哀れよの

 務めは終わった。
 よくやったな。」



伊周の体が
ぐぐっと反り返った。
触手は見えなかった。
だが、
そこにのたうつ青年は、
首をかきむしるように手を震わせる。



空っぽの棚たちが
秦の血をもつ青年の苦悶を
雄弁な沈黙で囲み、
それは語られ始めた。





 バタバタと駆け回る何本もの足が
 そこに浮かぶ。

その足たちは
透けて向こうに空の棚は
今を示している。
のたうつ青年、
そこに駆け寄ろうとして
踏みとどまる民、
全ては見えていた。


 棚から持ち出されていく
 古文書
 祭具
 ………。


そこに
その足たちを叱咤する男が
浮かび上がった。

鍛え上げられた体が
麻の粗末な服の上からもわかる。
汗を滲ませた額が埃で黒ずんでいた。

 〝急げっ!
  秦!
  出るぞっ〟

その声に政五郎が
ハッと
その目を上げた。
黒服から目が逸れる。

 板戸が膨れ上がる。
 その前で踞り
 台に乗せた匣に頭をつける青年。

 ぐわっ………。

その幻影の中の大音響とともに、
政五郎がさっと身を翻した。
同時に
西原の脇を黒い風が走った。



「秦っ!
 秦っ!!」

政五郎が
伊周に飛び付いていた。



黒服は
真っ直ぐに民を
いや綾周を目指していた。

猿臂が伸びる。
さながら触手のように伸びていく腕が
遅れを取った西原の前で
それは伸びていく。



民が身を翻して虹の玉の下を抜けて
匣のあった台に飛び乗るのが見えた。



天井が一気に波打ち
底が抜けたように
闇が落ちてくる。

民が飛び乗った台が
床から上がる黒い飛沫に囲まれる。




 民さん
 ああ綺麗だね
 

ぼんやりと
そう思ったことは覚えている。

白いライダースーツが
高く舞い上がった。
黒服の腕が蛇のように曲がり後を追う。
胸に抱いたものだけは!と
丸くなった体に庇う姿が眩しいと思った。


西原は
民の着地に合わせて
そこに転がり込んだ。
手にズシッと重く日本刀を感じるや
西原は殺到してくる腕を叩き斬った。



「民さん!
 だいじょうぶか!?」

「誰に聞いてるの?
 次っ
 来るわよっ」


蓮っ葉になった民の声を背に
西原は
腹に力を入れた。

 やれるだけやってやるっ!

落ちてくる闇は
あまりに広範囲で
もはや
刀一本で防げるものとは思えなかった。




そして
民の上に落ちかかる闇を切り裂きながら
自らの肩に落ちた闇の冷たさに
歯を食い縛ったときだ。



西原は光に包まれた。
いや民も
綾周も
床に這いつくばった政五郎と伊周もだ。




ざっ………ざっ………。
光の大鎌が
次々と
闇の雨を一文字に薙いでいく。
光の渦が闇を切り裂く無数の鎌となって
部屋に満ちていた。



目を射られ
あっと上げた腕の下に
西原は見た。



 こんなに大きな人だったろうか

落ちてくる闇の中に
巌のように立つ姿が見えた。
動かぬことがこんなにも力を感じさせる。
その腕が真っ直ぐに天を指している。


水澤と渡邉が
その足下に
双璧のごとく座していた。
渡邉の唇がせわしなく動いている。
水澤の固く閉じられた瞼が見えぬ何かを捉えて動かない。




光の渦の中心に
鷲羽海斗がいた。



眩しかった。
あまりに眩しい時間が
突風のように吹き過ぎていた。




「秦………秦…………。」

微かな声が
踞っていた西原の耳に
ひたひたと寄せてきていた。
ようやくそれに気づいた西原は
そっと身を起こした。



政五郎が
伊周を抱いて啜り泣いていた。
ハッと立ち上がる西原の目に
安らいだかに微笑む伊周の顔が見えた。
そこに、
先ほどまでの嗚咽の影はなかった。



棚に
老人の姿はなかった。


思わず
西原は鷲羽海斗を振り返った。
指示が欲しかった。
そして、
止まった。




総帥が立っていた。
だらりと下げた両腕、
そして
翠の光が胸にあった。


 瑞月?
 泣いてるのかい?


西原は
政五郎の啜り泣きを聞きながら
その光を見つめた。


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