この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






黒光りする触手が
ぐぐっと一気に伸びる。
天井近くを舐めるように掠めたその先端が
まっしぐらに綾周を抱く民に襲い掛かった。


思いがけぬほどの素早さで
民が身を躱した。
たたらを踏んだかと思われたが違う。

瑞月ちゃん!
触手を見切ったかのごとく横に滑るや、
民は叫ぶ。
獲物を逃して再び巻き上がる黒い蛇の下を民は
一気に駆けて瑞月に綾周を押し付けた。


海斗が瑞月ごと綾周を抱いて
飛びすさる。
触手が再び天井を掠めてぐっと鎌首をもたげた。


次の瞬間、
虹の宝玉を背に
二つの玉を抱いて身構える海斗の目の前で
触手は滝となって民に降り注いだ。




ぽつっ
最後の闇の一滴が天井から滴り落ち、
そこに一つの闇が踞った。



おやおや
鷲羽の軍団もたいしたものだ
真っ黒じゃないか
ほうら正直になればいい


「民さん!!」

民であった黒い塊に、
西原が叫ぶ。
既に西原は
海斗の前に飛び出していた。

そして、
動けない。
瑞月がいるのだ。



だが、
毎朝を迎えてくれた民の声が
頭を駆け巡る。

 おはようございます
 さあ
 たんと召し上がれ

飛び出したくて、
できなくて、
西原は叫んでいた。



「落ち着けトム!
 何も決まっちゃいない。
 勝手に決めつけるな。
 
 待つんだ。」

政五郎の声は静かだった。



いっそ
静まり返った空虚な棚の並ぶ一室は
黒く押し包もうとうごめいていた闇も含めて
その蠢く塊を囲んで静まった。



「民さん
 ……民さんは?

 海斗……海斗……民さんは?」

瑞月はもがく。
抱いた綾周がふぅんとあくびをする。
鋼の意志で閉じられた海斗の心中は読めない。
そして、
優しくはあるが毅然とその頭を抱え込んだ腕は動かなかった。




塊は静まり
その表面からはぬめぬめとした光が消えていく。
民を封印して黒い岩となった岩は、
少なくとも触手とはならないようだ。



「……民さん、
 さすがだよ。」

政五郎が小さく呟き、
次の触手が生まれ来るだろう天井に目を配りながら
低く身構えた。

次の狙いは
自分か西原だ。
政五郎はそう覚悟した。



「ねぇ
 ねぇったら
 民さんは?

 だって…………。」

甘い声に
黒い岩となった民が重い。
誰にとっても重かった。





ああああん
ああん……。

「ほらぁ
 ねぇったら!」

静けさを破る綾周の盛大な泣き声と
おろおろする瑞月の抗議。



ぎゅうっと抱かれたら息苦しいし、
慣れぬ子守りは不安だ。
玉ともなる無垢な魂は幼い。
子どもらはそれぞれに一生懸命助けを求めていた。



「待ってなさい!
 今は
 我慢!

 いいですね。」



くぐもってはいるが、
厳しい声がそれに応えた。
ぴたっと瑞月は黙る。
虚を突かれて
一同が黒い岩を見つめた。




おや
自分の黒さを思い出したと
思うたが?
その子らにも教えてやろうか?


黒い塊に
亀裂が走る。

ぐわっ
岩は砕け散り
その破片は散り散りに消えていった。






緋のチャイナドレスに
片膝を立てた女がそこにいた。

その太股が艶かしい。
髪は
後れ毛をうなじに残して高く結い上げられ、
そして後ろ手に背に立てて握られた日本刀が虹の光を受けて煌めく。


「……民さん
 その姿は
 お久しぶりだ。

 やっぱり
 いい女っぷりですぜ。」

政五郎の声が
優しくその姿を迎えた。
この裏世界のドンは
その姿の民に驚きもしない。






眦に入れた緋、
唇に差した紅、
深紅のシルクに金糸で象られた朱雀が胸に翼を広げる。

ニヤリと口角を上げて政五郎に応えると
その眸が優しく微笑んだ。



「瑞月ちゃん
 ちょっと待っててね。

 片付いたらすぐですよ。」


いつもの民の声が
優しく瑞月を宥める。


「うん!
 えっと……民さん頑張って!」

窘められてキュッと身を縮めていた瑞月が
ほっとしたように応えた。
民が微かに微笑み、
その声を噛み締めるように目を閉じた。


凄艶な姿だった。
政五郎は平然と見つめるが
西原は目を剥いている。



姿は、
夜を妖しく舞う蝶となり、
その手に物騒なものを握りながら
民は己を確かめるように目の裏に浮かぶものを見つめた。


 殺してやる!!

 
 いいんだ
 もう終わった
 片付いたんだよ


いいえ
終わってなんかいなかった。
民はそう思い至った。

その夜の出で立ち、
その夜の刀を握り、
民は待つ。


「来るぞっ
 トムっ!!」

政五郎が声を上げた。
身を躱した西原の鍛え抜いた体が
瑞月から闇を引きはなそうと壁際に向かってトンボを切る。
それを見切ったように伸ばされる触手を
西原は静かに見つめた。


 同じことだ
 俺は変わらない

繰り返しつつかれる片恋の痛みも
暴かれる夜を塗って心に忍び込む切ない夢も
三度目ともなれば慣れたものだ。

 来いよ!
 ご苦労さんなこったぜ

西原は心を開いた。



ざっ……。


刀身の煌めきが
虹の光を得て宙を薙ぐ。

ぐうっ
呻き声が上がり
天井を覆っていた黒いものが
ポタポタと滴り
床に落ちてはジュッと消えていく。



「この子はね、
 まっすぐに恋している。
 茶々を入れるのはよしてもらうよ。

 私の子たちに
 指一本触らせない!」


烈火を巻き上げる啖呵が切られた。


西原は呆然と見上げる。
何が起きたのか
瞬時には分からない。


「いよっ
 さすがは朱雀を異名をもつ
 お姐えさんだ。

 民さん
 見事に退治なさったね。」


目の前に
形のよい臀部を包んだ深紅のシルク、
その裾に斜めに縁取られた足があった。


床に刺さりそうなピンヒールで仁王立ちになった民が
今振るった刃をその背に収めて
散っていく闇を静かに見つめていた。


そして、
すっとドレスの膝を折り
民は政五郎に向かって正座した。
闇の滴りには目もくれない。



「マサさん
 あの折りはありがとうございました。

 私は鬼になるところだった。
 今、切り捨てましたのは、
 私の嘘です。

 騒ぎ立てましたこと
 お恥ずかしゅうございます。

 お救いいただきました。
 今こそ御礼申し上げます。」


そうして、
民は床につくほどに頭を下げた。


「なるほど、
 この黒いのは
 民さんの嘘ってことだね。」

政五郎が
感慨深げに応える。


「ええ
 嘘です。
 悲しい嘘。

 馬鹿でした。」

頭を上げた民、
“ジュクの朱雀”は、
静かに言い切った。

眦の緋色が消えていく。
優しい笑い皺が口許に甦る。
西原は再び目を剥いて
鷲羽の台所を仕切る女衆を束ねる“母”の変貌を見つめた。




「民さん
 民さん どうしたの?
 だいじょうぶ?」

あーん あーんと泣く綾周の声と
瑞月のおろおろ声が
皆を我に返していく。


海斗は
静かに回していた腕を解いた。


鷲羽の女衆は、
いつもの和装に慎ましく手をついた姿で
瑞月の心配そうな顔を優しく見上げる。

「瑞月ちゃん

 民は
 頑張りましたよ。
 あなたが呼んでくれる民が、
 わたしの選んだ民です。

 なりたかった民。

 さあ
 民に
 アヤちゃんをちょうだい。
 もうだいじょうぶよ。」


ん?
と小首を傾げる瑞月に
民は笑いかける。


綾周は
もう
すっかりご機嫌斜めで
手をぱたぱたさせていた。
不器用な抱っこには呆れ果てたと言わんばかりだ。


民が立ち上がり、
瑞月が海斗の手を離れた。



「やれ、
 まあ楽しませてもらったよ。

 女とは
 思い切りのいいものだねぇ」


その声は、
あっけらかんと再びがらんどうとなった部屋に響いた。
ふっと
虹の宝玉の光が翳る。


ぬっと棚の影から
それは現れた。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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