この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






近づいてくるサイレンが
佐賀を動かす。
警官だという気の良さそうな男は
もう公園の入り口に向かって走り出していた。


佐賀は少年の肩を抱き、
後を追った。
まず怪我の有無を調べなくてはならない。
少年は佐賀が駆け付けたとき、
既に押し倒され、
男が馬乗りになっていた。



舗道に出ると
月光はますますけざやかに少年を照らし出す。
裂かれたステージ衣装が痛々しい。
上着をかけ直そうと佐賀の手は自然に動き出す。


胸で掻き合わせてやり、
そっと押さえると
少年は
佐賀の顔を振り仰いだ。


己の血を浴びた頬は抜けるように白かった。
拭いきれなかった微かな跡を
そっと左の指先でぬぐう。



がやがやと近づいてくる気配に
不安を感じるのだろうか。
その眸は食い入るように佐賀を見詰めていた。







「だいじょうぶだ」

佐賀はそっと応えた。


すると、
少年はぎゅっと佐賀の背に腕を回し
その頬を佐賀の胸に押し付けた。



少年を胸に抱くのは
初めてではなかった。
が、
少年からしがみついてくることはなかった。




    この頬に
    この唇に
     微笑みは浮かんだ。
     他でもない
     自分に向かって少年は微笑んだ。


胸がキリキリと痛んだ。
今、
その細い腕が必死に求めているものは何なのか。
佐賀には分からなかった。


 俺に
 瑞月が微笑むなど
 ‥‥‥‥‥‥‥‥あうはずもないことだ


それは佐賀にとって
既に学び尽くしたことだった。
それでも甘く高鳴る胸を佐賀は押さえ込む。



事件の恐怖が微笑ませたのかもしれない。
そう思い直そうとすると、
今度は別の幻影が浮かぶ。


陶然として
その唇の端は緩やかに上げられた。
死を近々と感じた少年は微笑んだ。





少年が死神にその腕を差し伸べる姿に
佐賀は恐怖というものを
初めて知った。



遥か少年の日にもっていたかもしれない様々な感情
大切に思う人に抱く感情を
佐賀は学び始めたばかりだった。


少年の機嫌を損ねることは悲しく、
少年がどうであれ生きていてほしく、
淡々とその側に付き添いながら学んできていた。



そして、
今夜、
知ったのだ。



 もし少年を失ったら‥‥‥‥。
 自分は生きてはいないだろう。

それを学んでいた。





「だいじょうぶだ
 そばにいる。」

佐賀はしがみつく少年に囁く。
少なくとも
少年は自分を必要としている。
それだけは確かだった。




 

 こっちだ
 急げ!
 怪我人がいるんだ!!


聞き覚えた渋い声が聞こえてきた。




救急車に落ち着くまで
少年は
佐賀から離れなかったし、
それを説明することもできた。


だが、
佐賀は右腕に裂傷を負っていて
救急隊員はその傷を確認しなければなるまい。


「右上腕に
 ナイフによる裂傷を負いました。
 止血をお願いします。」


佐賀は
車内のベッドに少年を座らせて、
その右に自分も座り、
スーツから右腕を抜いて隊員に声をかけた。


「君、
 そこをどいて」

「レイプ未遂の被害者はこの子です。
 私が保護者でもある。
 ここに置きます。」


少年を立たせようと腕を伸ばした隊員は
ぐっと詰まった。
佐賀の声はあまりに落ち着いていて
命令するのに慣れていた。



「揺れますよ。
 横になってください。」

「構いません。
 このままお願いします。」


救急隊員は佐賀の脇に屈みこみ
血に濡れたシャツの袖にハサミをあてる。



ジャキッ‥‥‥‥。


その音に
ん?
少年の顔が上がる。




ゆっくりと眸は巡らされた。
だらりと下げられた佐賀の右腕を鮮血が糸のように幾筋もの流れを作っていた。
信じられないものを見るように
眸はその赤い流れを追う。
救急車の床に点々と小さな染みを作っていた。



「あ‥‥‥‥」

小さく声が洩れ、
弾かれたように離れかけた体が
有無を言わさず、
だが
優しく抱き寄せられた。




「だいじょうぶだ。
 何でもない。」

佐賀の声はあくまで静かだった。



ジャキジャキと袖は切り取られ
肩口に布が当てられる。
もう佐賀は口を開かなかった。
ただ抱き寄せた腕に優しく力を籠めた。


少年は目を閉じた。
頬は佐賀の胸に寄せられ
何かを一心に聞くように眉がひそめられた。






佐賀の鼓動が
少年を落ち着かせるようだった。
佐賀は少年を抱いた左腕を微塵も動かさず止血を受けた。



少年は微笑んだ。
なぜかは分からない。
それはどうでもよいことだった。


大事なことは別にある。
少年は死を恐れない。
だが、
人は怖いのだ。



 今は
 俺が必要だ


ただそれだけを佐賀は心に刻んだ。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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