この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






背はひょろりと高く
痩せぎすな男が玄関に立っていた。
切れ長の目でありながらやけに丸い瞳をひたと政五郎にあてている。


「マサさん
 こっち。」

玄関に出たのは渡邉だった。
言葉を使うことにまだ慣れていない。
そして、
真っ直ぐに見つめる。



彼は“耳”だった。
鷲羽に伝わる祭儀、伝承、歌謡、その全てを記憶する生きた記憶庫は、
遥かな時を越えて再びその任に就いていた。




「おう!
 すまねぇな。
 これ、ちょっと持っててくんな。」

政五郎は抱えてきた紙袋を渡邉に渡し、
ひょいひょいと靴を脱ぎ、
上がり口に身を屈めると脱いだ靴をきちんと揃えた。


さて、
と立ち上がる政五郎の鼻先に
紙袋に描かれたキリンにゾウさん、
サイにチンパンジーが賑やかに顔を並べた。
渡邉には立ち上がる人間の動きに応じた距離の置き方は分からない。


政五郎は
おっとと背を反らすことはしない。




渡邉が声を取り戻し
歩き出してからまだ一ヶ月ほどだ。
耳であることと今を生きることの折り合いを
不器用に探っている若きクラスメイトには
何でもないよと接してやるのが一番だ。


たかが紙袋
されど紙袋である。


眼前のキリンの頭上に
政五郎は渡邉を見上げる。
その不器用をいとおしく思う政五郎だった。


「ありがとうよ。
 ついでに運んでくれるかい?」

政五郎が
にっこり笑うと
渡邉はゆっくりと頷き
踵を返した。


大切に運ぶ様子はおかしいほどだが、
もうカチコチではない。
母親のもとを離れての数日は
耳としての勤めの日々でもあった。


渡邉勝彦はここで確かに必要とされた。
それは大きい。



政五郎は
そっと懐を確かめて
後に続いた。



そこに眠る葦の扱いは
まさに“耳”と導師たる水澤の領分の勤めだ。




勝彦がすたすたと進む。
リビングへの扉は素通りされた。
寝室か
政五郎は続く。




政五郎は押し黙った。



ドアは既に開け放されていた。
その入り口から続く純白の床は何反もの白麻だ。
重ねられた一反一反が隙間なく床を覆って部屋の端に畳まれた膨らみが並んでいる。


勝彦がすたすたと進んでいく。
その腕に捧げられた紙袋が如何にも場違いだ。



「おお おもちゃですか。
 ちょうどいい印になるかもしれない。」


中央に
蓙が敷かれ
白いほっそりした磁器が三宝に乗せられている。
その前にスーツの肩に白麻の細布をかけた水澤が
渡邉を招く。




「失礼します。
 だいぶお待たせしましたが、
 こりゃあ
 ちょうどよい間合いだったかな。」


「ええ
 かっちゃんが頑張ってくれました。
 何といっても民さんがおいでですしね。
 私も目が見えるようになりましたからお役に立ちましたよ。

 伝承を諳じてくれるかっちゃんがいます。
 間違いはないでしょう。
 
 白麻の敷物に神酒。
 そして言問いをする者。

 瑞月君にはお願いできませんが、
 鷲羽に巫が現れるのは鷲羽にとって特別なとき
 何かが呼応しあって高まり闇と対峙するときとなっています。

 言問いは
 常のこと。
 私とかっちゃんで勤まります。
 
 民さん
 どうぞ聞きたいことを尋ねてください。
 私たちが呼び出しますから。」




そして、
もう一人
水澤の向かいに端然と座る民が
にこりと笑った。
膝に丸くなっていた黒が優しく下ろされた。



白麻に前肢をぐううっと伸ばして
黒が伸びをする。




民はすっと座り直して政五郎に向かい手をついた。
細布が肩から敷物に垂れ
その頭は深く下がる。


「政五郎さん
 アヤちゃんに縁の方をお連れくださり
 ありがとうございます。
 お話できると伺い参りました。
 言問いを務めさせていただきます。

 よろしくお願い致します。」



政五郎も膝を折った。


「鷲羽の女衆に
 ご挨拶申し上げる。
 母の心を示すといわれる方々の心意気を見せていただき、
 この政五郎感服いたしました。
 必ずお守りいたします。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥綾の奴、幸せ者です。」



黒が
民を見上げ
その膝に前肢をかける。

民が微笑み
黒はふたたびその膝に丸くなった。



武藤が見たら
この清浄な拵えに慌てるかもしれない。
高遠を呆れさせた散らかしようは影もない。
砦の中の小さな一室は
この世ならぬものを迎えるべく整えられていた。






「さあ公園に行っておいで。
 たくさんのお店が開いているんだ。
 賑やかだよ。
 
 美味しいものがたくさんある。
 綺麗なものもたくさんある。
 瑞月と一緒に後から行くから
 お勧めを見つけておいてくれ。」


日本人形が頬を染めた。
花や蝶を連想させる瑞月の風情とは違い
一つ一つが人形のそれを思わせる。

そして影が薄い。


何に手折られてか
8歳の綾周にあった物怖じのなさは今はない。
お勧めをと請われて
仄かに染まる頬はいじらしく西原には映った。



「はい!
 あの
 ショー楽しかったです。
 見せてもらえて嬉しかった。
 ありがとう!」

綾周は
西原を見上げて無邪気に笑う。
共にいてやりたくもあり、
ちびっこスケート教室の終わりまでとも思ったが
瑞月と綾周を同じ車内に座らせるのは剣呑だ。



砦からは続報がない。
葦の動きが分からなかった。




ショーの終わりを機に、
西原は客席の伊東と連絡を取り
作田と綾周の見送りに出たのだ。



「じゃあ
 乗ろうか」

作田が優しく促し、
伊東はにこにこと車の脇に立って綾周を待つ。


「はい」

伊東が開けたドアに消える綾周は素直だった。


伊東が付いていて途中の道で滅多なことは起きない。
公園には鷲羽海斗がいる。
砦には政五郎だ。
樫山は頼りになる。
万全だ。


ただ何が起きるか分からないだけだ。


チーフとは
手の及ばぬことを任せることができなければ’勤まらない。
西原はもどかしさを押さえ
車を見送った。




部屋は
しん
水底にあるかのように静まっていた。


渡邉は
低く何事か呟きながら
頭を低くしていた。





低く
ただ低く流れる呟きは
聞き入るものどもを幽暗の中に引き込んでいく。
水澤が取り上げる徳利の輪郭がふっと濃く目に残る。


杯に酒は満ち
カーテンの合わせ目から差す陽光が
微かな橙色を帯びてさざ波を煌めかせた。


黒は丸くなっている
その背におかれた民の手は動かない。




 お日様の酒だ
 伊周さんよ
 潜り込んでねぇで出てきな。
 ‥‥‥‥あんたは
 なぜ葦なんだい?



政五郎は
杯に吸い込まれる陽光を囲む幽暗の中にいた。
日の長が葦を召喚しているのだ。
海斗の横顔が浮かぶ。



 なあ
 海斗さん
 よく任せてくれた

 あんたには向いてない
 こりゃ民さんの
 そして俺の出番だよ

 お日様の下で
 世間の波に揉まれて
 親になる人間の出番さ



渡邉が
頭を上げた。
その瞳は丸く
焦点は茫漠として遥かな先にあった。

遠く
遥か遠く
この幽暗の一室に繋がる異界の先に
渡邉は何かをとらえたかのようだ。


伸ばした弦のように細い腕が
くっと上がった頭を支えている。
獲物を視界にとらえた獣のように渡邉は動かない。




「秦伊周殿
 これへ」


水澤の声が
その視線を辿るように走り抜ける。
低く尾を引いて遠ざかる残響が実体をもつ使者を思わせた。
水澤は声に己を託し渡邉が示す道を進んだのだ。





きらり‥‥‥‥‥‥‥‥。


すっと杯の底へと煌めきは降りていく。
何かが酒を飲み干していくのがわかった。




黒が
民の膝を降りた。
フンフンと杯に鼻を寄せると、
その金茶に煌めく眸を宙に定める。



 サラサラッ‥‥‥‥。

微かな煌めきがそこに漂った。
虚無から生まれて
己がそこにあるともつかぬらしきそれは
頼りなく瞬き
ふたたび幽暗の彼方に消えいきたげに瞬きを間遠にしていく。



黒の前肢が
その蛍火を止まらせ
その眸がまじまじと漆黒に艶やかな毛並みに溶け入りそうな仄かな火を見詰めた。




 ニャア

黒が鳴き、
そこに人の形をした白い影が現れた。




“困っちゃうわね。
 あなた自分の姿を思い出せないの?”



突然
遠慮のない姐御肌の言葉が響き
白い影がブルッと震えた。
黒の姿はない。



黒の声もまた影の中より聞こえる。
ずいぶんと奥深く入りこんだというか
黒がこの影を作っているらしい。



“あなたは
 何か心に引っ掛かりがあるから
 こうして出てこれたの。

 とてもとても大切なもの、
 思ってごらんなさい。”
 


突然だった。
そこにひどく幼い顔立ちの青年が
微笑みながら片膝をついて小さな影を覗き込んでいた。
ごく細い縞が無地に近く感じられる紺の着物に
その手には折り紙でできた兜がある。


小さな影は
空気に溶けて
何もないところに微笑みかける青年が残された。



「綾周は‥‥‥‥?」

覚束なく口が開いた。
幸せのままに漂うことは人の魂に許されることではないのかもしれない。
青年は何かを思い出し、
その手の兜は小さな影に続いてサラサラと消えていった。


眉は寄せられ
深く皺を刻み
頬は削げていき陰影の中に幾重もの皺が沈む。
着物がずるっと落ちた。
小さな体が生地に埋もれて
緩んだ帯の輪に嵌まっている。
まるで餓鬼の戯画だ。




「お父様
 アヤちゃんのお父様ですね。」


民の声が響いた。
脇に置かれたおもちゃの袋を開けると
ビー玉の目がぱっちりとした可愛い子犬のぬいぐるみが現れた。


「ほら
 アヤちゃんにと
 買ってきたぬいぐるみです。

 お父様
 アヤちゃんがびっくりしますから
 どうぞお姿を戻してくださいな。」


民は
皺だらけの塊とも見える伊周の前に
そのぬいぐるみを置いた。



ふうっと
その輪郭が揺らぎ
そのまま消えるかに思われたが
白い影は僅かに人の形を残して止まった。



仄かに光に透ける姿は
古い写真のように色褪せてはいたが
若い父親のそれとなり定まった。



「お父様
 私は今朝アヤちゃんと約束しました。
 民が待っているから
 必ず戻ってくるようにと。

 アヤちゃんは18歳になりました。
 葦というお友達を
 それは心配しています。

 お父様、
 なぜあなたは葦になったのですか?」


民は言問いを始めた。


若い父の幻影がゆらりと動いた。
ついた膝
差し伸ばした手
その手が犬のぬいぐるみを
そっとまさぐる。

小さな影のあった場に
愛らしく見上げる丸いビー玉の眸。


“アヤチカ‥‥‥‥‥‥‥‥。”
父親は呟いた。
その声は男性としてはやや高かった。
母親のそれのように優しく
慈しむ声はビー玉に降り注いだ。

そこに確かにいた我が子に導かれ
秦伊周はその言葉を取り戻し
言問いの場に現れた。



 やっぱりな
 アヤちゃん
 お父さんは見つけたぜ

 いいお父さんだ
 とっても優しそうだ
 アヤちゃんが大好きだ
 


政五郎は胸中に微笑むアヤちゃんに囁いた。
図書館の綾周にカメラを向けた。
小さな子ども連れの親たちは皆そうしていた。
ファインダー越しに見えるアヤちゃんは可愛かった。

ぬいぐるみは
昨日看板に誘われて入った玩具店で購入したものだ。
闇とのせめぎあいの中で
いつ消えるともつかぬ幼子がいとおしかった。



 そしてね
 勝つの
 
 みんなで幸せになるんだよ


巫の祈りは叶う。
鷲羽が叶える。

政五郎は鷲羽を守る男だった。
ただ
人生を知る男でもあった。



 大好きってのは罠だ
 人は
 その罠に落ちて狂っちまう

 悲しいな










車は砦に滑り込んだ。
公園は道を挟んで向かいにある。
ごった返す公園駐車場に車を停めるまでもないことだ。



ドアを開けると
出し物に上がる子どもたちの歓声が
聞こえてきた。

 キャー
 アハハハ

広い道路のその向こうでは
テレビで人気のヒーローショーに
各地のゆるキャラが絡んでの子どもたち向けのショーが始まったらしい。
休日のテレビをにぎわすテーマソングらしき音楽が聞こえる。



「ちょっと
 賑やかすぎるかな。

 まずお店から回りましょうか。」

伊東が
提案した。
綾周がヒーローショーに興じるとは思えなかった。
今日の綾周は8歳ではない。


車を降りた綾周は
その音楽に馴染みはなさそうだった。
が、
ああ!と頷いた。


「‥‥‥‥こどもの日なんだ。」

アイスショーから今の歓声までが
綾周の頭の中で結び付いたようだ。




「そうだよ。
 こどもも大人も楽しむ日だ。
 私も君のお陰で楽しめる。」

「ぼくの?」

「そうさ。
 私の子はもう大きくなっちゃってね。
 図書館は久しぶりだし
 アイスショーなんて初めてだし
 楽しいよ。

 瑞月君も高遠君も
 ほんとに素敵だったね。」



こどもの日と自分に関わりがあるなど
綾周には意外なことだったらしい。
それを寂しいと感じるほどの積み重ねもないのか
綾周は淡々と微笑んだ。


「はい
 素敵でした。

 こどもの日って楽しいことが
 たくさんあるんですね。」

「そうとも。
 久しぶりのこどもの日、
 君と楽しめてラッキーだよ。」


脇で
伊東が待ってくれていた。

「さあ
 行きましょう。」


公園へと
三人が歩き出す。
駐車場の端近くになると
外界の音は
一気に音量を増す。


往来する車のエンジン音は明瞭になり
公園に響く迷子のアナウンスも
一語一語がよく聞こえてきた。


 緑のショートパンツにオレンジのシャツの
 アヤちゃん五歳を
 お預かりしています



そして
綾周が足を止めた。



 アヤチカ‥‥‥‥
 アヤチカ‥‥‥‥どこだい?
 

幽暗の異界は現世と繋がっていた。







バサバサっ‥‥‥‥。

鎮守の森に巣があるのだろう。
鳥が枝を蹴って舞い上がる翼の音が
やけに大きい。


ん?
目を開けると天井に広がる染みが
コウモリみたいで
あれ?と思う。


新井は
自分がどこにいるのか
一瞬頭をひねった。



ギギッ‥‥‥‥。

身動ぎして
背中の下から振動と共に響くストレッチゃーの軋みに
ああと思い出す。



くりんと横を向くと
女はそこにいた。
音を立てぬように起き上がろうとごそごそ努めたあげく
ギリギリ、ギシギシと上がる手強い軋みに新井は諦めた。


えいっと跳ね起きると
ギギッ!一回で
ぴょんとストレッチゃーから降りた。



どうかな
どうかなと覗き込むが
女に変化はなかった。


 ぜんぜん姿勢変わんない‥‥‥‥。
 さっきとおんなじシワだし
 顔の向きもなんか1ミリも変わんないみたいだ


素直なことと
見たことを覚えていることが
新井の長所だ。
余計なことを考えないから記憶が記憶として鮮明なのかもしれない。


感情や予断を伴わない正確な記憶。
西原が誉めたのはそこだった。



うーん
腕時計を確かめる。
そろそろ十二時だ。
女とともに転がり込んだのは
9時あたりだったろうか。


10時を回る頃
点滴を外された。
ストレッチゃーに眠り込んで2時間。
鷲羽の指揮系統を離れてからかれこれ3時間が経つ。



インカムは入っていた。
自分に新たな指示は入らなかった。
スイッチを切っていたわけではない。
ほっとした。



そっとドアを出ると
インカムに囁いた。

「新井です。
 女に付いています。
 変わりありません。」

「わかった。
 今はお前一人だ。
 目を離すな。」

「はい」


そそくさと
新井は診療室に戻る。



あれ?
思った。

そして、
新井は声を張る。


「おはようございます!」


女は
目を閉じたまま
新井に背を向けた。
緩慢な動きだった。


背を向けたなり
もう動く力もないように
その体は静まった。


画像はお借りしました。
なぜかジュリエットを描いた絵に惹かれました。
葦の記憶にそれを感じてる?
うーん
たいそうお待たせしました。
読んでいただけたら嬉しいです。
ありがとうございます。



人気ブログランキング