この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






後部座席に
するっと入った女が運転席に目をやる間もなく、
カチッ
と小さな音を立ててロックは下りた。


女のスカートの裾に覗く膝は
ドアに向いたなり動かず、
その手だけが頼りなくロックにかかろうと上がり、
そして、
くっと握られる。



くくっと
俯いた顔から笑いが洩れた。
勝負はついたのだ。





「まあ
 ゆっくりしてくんな。
 疲れただろう。
 ヤドカリさんよ。」


政五郎は
泰然と構え
エンジンをかけた。



ぶるぶるっ
車はスタンバイする。


その身柄を確保した鷲羽は
闇の皇子に宿る葦を連れ帰るべく
もう凱歌をあげようというところだろう。



シュルシュルと
衣擦れにも似たさやぎが起きた。


女のスーツの輪郭がぼやける。
滲み出し後部座席に立ち込める薄闇が俯く女の体を
ひどく薄っぺらくしていくのを
政五郎は分かっているのかいないのか。




収斂し弧を描く薄墨の先端が鎌首をもたげると、
女の輪郭がくっきりとなり、
かき集めた闇の尾が女を離れた。


僅かに一捌けほどの掠れた墨跡が宙に浮く。
ずるっと崩れ落ちた体は
夜明けの集積所に持ち込まれたゴミ袋よろしく
床からシートに引っ掛かって無機質に揺れ、
静まった。




運転席のシートを這い上がる弧は
どこかはだらでところどころカバーの地が透けて見える。
一捌けだけの掠れた墨に描かれた頼りない弧が
その鎌首をもたげた。




「‥‥‥‥やめな。
 消えちまうぜ。」

頭領は優しく囁いた。
構わず鎌首はぐっとシートを回り込む。


そして、
政五郎の手が一閃する。
その手に握られて尾を振る闇は
すり抜けられぬ己に狼狽えて身を捩る。


政五郎は悠然と懐から引っ張り出した白い守り袋を
その前にかざした。
「お入り。
 少し楽になる。」


力及ばぬと定まった瞬間に
薄墨色は薄くなった。
見切りをつけるように抜けていく一捌けの墨、
微かにまたたく金銀砂子の頼りない輪郭が弧を成す流れとなった。


その瞬きが政五郎の言葉に
頭を垂れている。


「さあ
 入れ。

 あんたは休めるし、
 黒い奴は引き揚げる。

 一人になれる。
 さあ。」


サラサラと音を立てて
弧は袋の生地に吸い込まれた。
異形の影は跡形もない。



ルームミラーに
後部座席を確かめて
政五郎は
耳に手をやり、
素早く回すと回線を開く。


滑らかにバックすると
政五郎は
陽光に明るい出口のバーに車の向きを変えた。


「はい
 水澤です。
 どうぞ!」

「先生、
 トムは金星を当てたようだ。
 瑞月ちゃんがお友だちだと思いそうなもんが
 出てきましたよ。

 いただいた守り袋に入ってもらいました。」

「さすがマサさん。
 迷子の魂には大人クラスの級長さんが
 ピカピカ光る道しるべになってくれると思いましたよ。」


今鷲羽の登録車両は政五郎が運転している。
バーは上がり、
ジルバーのごくありふれた乗用車が
駐車場から滑り出た。


ちら
ミラーを覗くと軽自動車の運転席に影は見えない。
言われた通りに隠れているようだ。


新井は駐車料金を請求されるだろうが、
財布は持ち歩いているだろう。
もたもたしなきゃいいが。
政五郎は
ゆっくりと方向を定めた。


ぴょこんと運転席に上がる頭を目の隅に確認して
走り出す。
付いて来させなければならない。


ゆったりとハンドルにかかる手は確かで、
その背筋はぴんと伸びている。
よたよたと乗り込んだ老人はもういない。


精悍な眼差しには
老いを感じさせるものが微塵もなかった。
影を束ねる男も
その長に同じく
一族きっての戦闘能力をもって配下一同に君臨していた。


政五郎は
目的地との最短距離を思い巡らす。



「先生、
 急ぎたいところだが、
 寄っていくとこができた。

 西原の奴は何ともなかったんだが、
 女はぐったりしてる。
 これまで取り付憑かれた奴等とも違うな。

 ‥‥‥‥食われてる。
 吸い尽くされてるって感じだ。
 
 人の医者が役に立つかは分からんが
 ちょいと医者に寄っていきます。
 付き添いにできる奴もいる。

 ちょっと待ってておくんなさい。」




幹線道路の車の流れに乗り、
背後を確かめる。
新井の白い軽自動車が数台後ろに見えた。


車窓に切り取られた初夏の景色、
山並み近くの青く繁る木々に覆われたあたりに
そこはある。




「やはり‥‥‥‥。

 マサさん
 謝っておかなくては。
 あなたが食われてもおかしくなかった。」


この担任は
しれっととんでもないことを
当たり前にやってのける。

いや
やってのけさせる。
ある意味、
人使いの荒い男であった。



「どういたしまして。
 そこまで柔にできてませんや。
 気にしないでください。」

政五郎は
くすりと笑いながらも
後部座席を窺う。


 まずいな
 急がんと

気配というものが消えていく。
ただ体力を喪ったには終わらぬ消耗が感じられた。
政五郎の顔が引き締まる。


影を束ねる頭領として
政五郎には見えぬものを入れぬだけの強固な門がある。



「そうでした。
 失礼を申し上げた。
 で、
 その医者というか‥‥‥‥。」

「腕は確かで口は固い。
 屋敷のご老人のツテです。
 あっしも顔を繋いでいる。」

「わかりました。
 お待ちします。」

 


ドドン!
花火が上がった。

日中のそれは
いわば開場の狼煙である。

続いて
一斉に上がる色とりどりの風船が歓声を誘う。

「開場です。
 どうぞ
 皆様ごゆっくりお楽しみください。」

櫓に設置されたスピーカーから響く声は
玉を転がすような
いってよい美声だった。


マイクに向かう三枝綾子を
笑み崩れた獅子頭が
うんうんと満足げに眺めている。



そして、
総帥は目を閉じていた。
聞こえてくるざわめきに浮かぶ暗がりが
ぱっと開ける。

 海斗!
 お客様いっぱいだよ

 えっとね、
 みんな笑顔だよ


リンク中央に滑り出る瑞月の目に映る客席は
確かになかなかの盛況だった。


 がんばれ!
 お母さんが振り付けてくれたキラキラ星、
 みんなに見てもらうんだ


 うん!



「海斗さん
 さあお出迎えだ。
 ご案内を務めよう。

 自治体の長の皆様がおいでだ。」


目を開くと
武藤に先導されて
スーツ姿の一行がこちらに向かってくる。


海斗は、
テントの前に進み出て
三枝に並び深く頭を下げた。


待ち構えた取材陣がフラッシュを焚く中に
みちのく全域から集う首長たちは
にこやかに握手を交わしては
用意の法被に着替えていく。



「さて、
 皆様、
 この三枝憲正、
 本日は一家をあげてこのイベントに参加しております。
 ここでご案内を務めるは私の孫娘。
 鷲羽財団の心意気に家族で感じ入っております。

 どうぞ
 ご一緒にブースをご覧ください。
 綾子、
 ご案内を頼んだぞ。

 いずれ劣らぬ逸品揃い、
 私どももお供いたします。
 
 なあ鷲羽さん」


三枝憲正は
上機嫌に一同に向かった。


え?
綾子が祖父を睨み、
三枝がぴくんと怯むのがご愛敬だ。



獅子頭が孫娘には敵わないことは
ひそかに囁かれる笑い話であり、
それを目の当たりにすることは
異彩を放つ三枝の容貌を愛らしく感じさせる効果があった。


後は
その孫娘が
自慢に足る逸材かどうかというのが
一同の注目の的だ。

綾子がすっと前に出る。
まずは美しい。
一同のまじまじと見つめる視線は当然だ。

綾子はにこっと微笑んだ。
それは天晴れといえる爽やかなものだった。
媚も甘えもなく
ただ歓迎に明るい笑顔が一同をはっとさせる。



「皆様、
 若輩者の拙い案内ではございますが、
 ご覧いただく品々と
 ブースにおられる方々の誠意と熱意が
 皆様のお心を捉えること、
 間違いございません。

 先触れを務めさせていただきます。
 よろしくお願い致します。」


深く下がる頭にも
その所作にも
その真意は伝わる。

三枝綾子は
この物産展を心から大事に思っていた。




「おお
 それは有り難い。
 案内’のお嬢さん、
 楽しみに思いますよ。」


一際白い頭に
深い皺の畳まれた穏やかな顔が
莞爾と微笑んだ。


すわ
三枝の孫娘だ!
跳ね上がる顔の主もいないではなかったが、
この言葉と年長者らしい落ち着きが
綾子の真心に応えて
場を整えてくれたようだ。


「さあ
 鷲羽さん
 ご一緒に!」

三枝が海斗を綾子の後ろへと押し出す。



ブースの並びまでの僅かな距離だが、
鷲羽海斗と三枝綾子の道行きは
見事な見物となり、
ほうっ
嘆声が上がっていく。



武藤が
やれやれと
三枝に並んだ。


「効果抜群ですね。
 綾子さんは優秀なガイドさんです。」

「そうとも。
 うまくやったろう?」


鼻をぴくぴくさせて
三枝憲正は自慢顔だ。



まったくうまくやったものだ。
自分は動かないと言いながら
鷲羽海斗を婿に!作戦は快調な滑り出しを見せている。




報道陣の中に森本がいるのが見えた。
すっと近づいてくる森本に応え
武藤はわずかにペースを落とした。


三枝は
屈託なくさきほどの見事な白髪の首長に
肩を並べる。


武藤は
森本を迎えて
にこやかに微笑んだ。

「よかった。
 先輩が来てくださると
 思っていました。」


森本は
まずは尋常に頭を下げる。
後輩に会いに来たわけではない。
そこは互いに大事にしたい二人だった。


「武藤補佐、
 とうとう本格的に始めましたね。
 期待した通りだ。」

「ありがとうございます。」


と、
礼を交わす。

本題はここからだ。


「で、
 あれは報じていいのか?
 目出度い話になりそうだが?」

小声で森本が尋ねた。



「先輩、
 うちの鈍ちん総帥は、
 自分の振り撒いてる“おめでた”モードに自覚がないんです。
 その気もなければ
 振り撒いた後に起きそうなことも分かっていない。
 お嬢様もそこはお分かりです。
 鈍い。
 ほんとに中学生並みに鈍いんです。
 三枝憲正の魂胆も気づいちゃいません。」


大東新聞きっての辛口記者、
信頼する先輩に、
武藤は嘘はつくまいと決めていた。

小声の相談は依頼でもあり、
この企画の意義が
報じるに足るものとなっているかの賭けでもあった。


森本が
くすっと笑う。
先を行く二人を眺め
さらに声を落とした。


「OK。
 あのお嬢さんも大した玉だ。
 さっきブースを回るところを見たよ。
 気に入った。
 このネットワークの意義を本気で伝えたい。
 そんな気持ちにさせられた。

 俺は報じるべきを報じるさ。
 三枝憲正の本気はこの企画の本気に重ねておく。
 もう一つの本気も感じるがな。」

「頼みます。」


森本が
すっと離れて行った。



武藤は
三枝憲正の嬉しそうな後ろ姿に
やれやれとため息をつく。




ライダースーツは脱いだが
飾らぬ黒の上下にジャケットの鷲羽海斗は
額にかかる髪に若さが匂い立つ。

精悍にして端正な顔は
野生味を帯びて辺りを圧するオーラと
呆れるほどの美を振り撒いている。


一歩進むごとに
女性客の視線は釘付けとなり、
男性客は気圧されていくのはデパートの時に変わらぬ風景だ。


が、


そこに
添ってなお色褪せぬ者がいると、
絵は変わる。


 まあお似合い
 素敵なカップルよねぇ
 すごいな
 家族ぐるみって言ったっけ


咲の手配と武藤の根回しに
めったな報道は出させぬ段取りだが、
御目出度い雰囲気は御目出度い勘繰りを生むものだ。




飾らぬ装いでは
海斗に勝るとも劣らぬ綾子は
だからこそ美しかった。
ブースに立ち働くメンバーが
綾子を見てぱっと笑顔になる。



彼らは綾子の生まれなど知らない。
ブースを訪れた頑張り屋のボランティアの娘を
たいそう気に入った。
それだけだ。
それだけだからこそ
そこに生まれる明るさは本物だった。



その明るさが
この物産展の明るさを実のあるものにし、
その主催者に添う姿を
“お似合い”だと心から思わせる。





 まあ
 今だけのことだ
 午後は別行動にしてもらおう


武藤補佐は
騒動の種を撒きながら自覚のない兄に呆れながらも
その純な鈍さを愛してもいた。
その無垢を惜しむなら、
自分がやらねばならぬこともある。






 そうだ
 瑞月
 お前の姿に
 天女が重なる‥‥‥‥。


滑り出した瑞月の感じる揺らめく海と
満天の星空が
海斗を満たしていた。



魂の片割れを心に抱いてやりながら、
その生まれ育った地に生きる人々を総帥は眺める。
このネットワークの成功も、
そして、
白い蛇が守った命の再生も、
瑞月の祈りには欠かせない。



“あのね、
 ぼく 勝つの!
 みんな 幸せになるんだよ!”


勾玉が胸に熱く脈動を伝える。
瑞月は舞っていた。
そして、
そこにはいつも祈りがある。




ブースを巡り、
ときに
その実演に混じり客を沸かせながら、
海斗は白い’蛇を思っていた。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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