この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




海斗が静かに階段を下りていく。
結城先生なる人物の形相は、
無表情なまま下りてくる海斗を見つめたまま瞬きもしない。


瑞月は気づくや否や
くりーんと後ろを向き
眼鏡女史はワクワクするらしく
すっかり見物客の態勢だ。
つまり両手は胸、目はキラキラ、余計な口はきかず、
固唾を飲んでいる。


結果、
一人リンクに残ったスケーター瑞月と
客席を下りていく海斗は
日本語を解さぬメンバーの中で
字幕スーパー抜きのメロドラマのクライマックスみたいな緊張感を漂わせ
青、緑、茶と種々とりどりの眸に見つめられることなった。


音羽が見つめるのは
その二人なんだから仕方ない。
実質危険度マックスの結城はその注目の外に取り残されている。



柵があった。
その一線で区切られる客席とリンク。


海斗が下りきって立つと
その一線がその色を濃くするように感じられた。
海斗が己を律する境界線。
その越えてはならぬとする意思が見る者を支配する。


海斗が結城に正対し、
深く頭を下げた。

「ご心配をおかけし、
 申し訳ありません。
 時間をいただきます。
 お待ちください。」



そうして
結城の顔から視線は逸れた。
返事を待つことすらしない。
結城の食い入る視線がその横顔を焼く。



 決めた‥‥‥‥‥‥‥‥。
 選んだな


作田は
佐賀海斗の幻が消えていくのを感じた。
もういないのだ、あの少年は。


鈍い
それは変わらない
不器用だ
それも変わらない
だが、
人と共に生きる覚悟がそこにあった。



やたらオーラは強く
問答無用感満載で
事実、
知力体力共に抜きん出ている一匹狼は
他の意見を入れるという習慣はなかったが、
それでも
その父の怒りも負うし、
何より伴侶のそれに対して誠実に応じようとしている。



 誠実すぎて
 周りが迷惑するが‥‥‥‥‥‥‥‥。


何を言い出すかを思うと
少年佐賀海斗だった男の保護を責務と思う作田は作田で
覚悟を決めねばならなかった。




「綾周
 おいで
 瑞月にお前を見せたい」


 ‥‥‥‥‥‥‥‥やっぱり直球か。


作田は結城を確認した。
ちらと瑞月に目を走らせたように思うが
そのデスマスクは動かない。


そして、
綾周を見た。




声を受けて
綾周が目を見開いていた。
カーテンからやっと出てきた少年は
長身の二人に囲まれた小さな安全圏に集まる視線に竦み
その細い体を震わせている。



8歳のアヤちゃんにあった天衣無縫はない。
“父”の影に怯えて逃げ込んだ繭は剥がれ落ちて
剥き出しになった魂は
時を止めた雨の庭から海斗が拐ってきた寄る辺ない魂だ。




わずかに30メートルもないだろう。
それが
見つめる作田にも地の果てほどに遠い距離に感じられる。





「いい子だ
 綾周
 俺を信じろ

 悪いことは起きない
 瑞月にお前を見せたいんだ
 おいで」

その声が
綾周の足先まで続く橋を架けるのが
見える。

鷲羽海斗となって
人を守ることを学んだ少年は
包み込む声をもっていた。




 綾周
 かわいそうに‥‥‥‥。


作田の分別が警告音を鳴らす。
もう爆発はいい。
それは仕方ない。
でも‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。





ビシッ
箍が外れる音が聞こえた気がした。


「何を言うっ!!」




結城の怒号が炸裂した。
当たり前だ。
それにしても激しかった。

瞬時に姫から鬼女へと変わる人形浄瑠璃を見たときの驚きが
作田に甦っていた。
デスマスクは外れた。
血管がこめかみに浮き上がる。
目には爛々と燃え盛る炎が宿る。
かっと開かれた口は腹から込み上げる怒りに唇を震わせている。





作田は静かに海斗の顔へと
目を戻した。
脇から見上げる海斗の顔は
水のように静かだ。



 そう
 覚悟のことだ
 この怒りは
 だが
 後回しにするんだよな

 わかるよ‥‥‥‥。
 君は瑞月君しか見ていない‥‥‥‥‥‥‥‥つらいな
 私はね
 ちょっとつらいよ
 
 


凄まじい怒りの波動に静まり返ったリンクで
それでも皆の視線は海斗に戻ってくる。
場を動かすのは結城ではない。
静かに待つ海斗が場を支配していた。





「もう知ってる」

しん
静まり返るリンクに
声はポツンと落ちてそこに灯った。




作田は
目を見張った。
そっと
遠くリンクの端に集う面々を窺うが
皆の視線は揺らいでいなかった。


藤の精、
闇の蠢き、
宙を漂う葦、
そして
変貌していく綾周‥‥‥‥‥‥‥‥。

この世ならぬ影たちは
そこにいると作田に囁きかける。
確かな息遣いを聞かせる異形のものたちと同じく
瑞月がその魂を見せている。



 この子は
 人であって人でないのかもしれない‥‥‥‥。


作田は
佐賀海斗がその腕に抱く瑞月を思った。
誰に抱かれても似合うまい
このどうにも人の世にそぐわなかった男にしか
この子を抱くことは叶うまい。






「アヤちゃん友達だもん
 ‥‥‥‥‥‥‥‥知ってるっ!!





白光を纏い
激しく舞い狂う裸身が浮かぶ。

 見たくないんだね
 砕け散ってしまいそうな
 小さな心が必死に叫んでいる

作田はそれを美しいと思った。


それは視える作田以外にも
練習着の震える肩とその声に見えているらしい。
音羽の
最前列かぶりつきの一瞬をも見逃すまい!視線はともかく
色とりどりの頭が瑞月に白い顔を向けていた。



やがて分別がつけば
この悲しみの叫びは上げなくなる?
‥‥‥‥‥‥‥‥違うな
分別で消していけるものと消せないものがある。



 魂の奥底から湧き出る悲しみは
 誤魔化しようがない
 また
 消すことが正しいものかわからない

 苦しい
 もちろん苦しい

 つらい
 当たり前だ

 だから学ぶ
 苦しまぬ術を学ぶ

 だから身に付ける
 つらさを和らげる知恵、分別を。


作田は
身を庇うことを知らぬ悲しみの美を惜しんでいた
綾周を受け入れたなら
この悲しみはきっとベールを纏う。
綾周を受け入れないなら
この白い腕は剣をもつ。

こんなに美しいものを
もう視ることはないかもしれない。
惜しむに足るものだった。



「いや お前は知らない」


熱く愛を滾らせた言葉が
作田の哀惜の念を吹き飛ばした。




 浮気の弁明としたら
 確信がありすぎだ‥‥‥‥。

思わずぼそっと分別が呟く。
傍目には浮気に見えるのだ。
少なくともさっきの“いい子だ”だけで結城は浮気を確信している。


いや浮気の“う”もない。
綾周に傾くものはない。
わかっていた。
それが悲しくもある作田だった。



「お前の知らぬ綾周がいる。
 一緒に見てほしい

 瑞月
 こちらを向くんだ!」



愛している
聞こえた。


こんなとこに
自分は間抜けにもぼーっと立っている。
いていいのか悪いのか
分別は囁く。
こりゃお邪魔虫は引っ込んでろって感じだよなと。

音羽が
ああっと洩れかける嘆声を押さえるように両手を口にあてるのが見えた。


 つくづく羨ましいな‥‥‥‥。


この愛のドラマは居間のテレビ画面で見ているわけじゃない。
生だ。
そして、
音羽は知らないが、
大抵の大人は遠慮ってものを抱えているのだ。




これほど周りを気にしないってのは‥‥‥‥‥‥‥‥三つ子の魂って奴かもしれない。
作田は手のかかる問題児の成長に一抹の疑いを感じていた。
無関心の三文字に尽きた14歳の佐賀海斗が甦る。



 カーテン閉めようか
 海斗君
 秘すれば花っていうだろ

 一応は
 私たちもここにいるんだよ



白い裸身に光だけを纏った妖精が
小首を傾げている。
その光の衣が薄緑のグラデーションを帯びて揺らめき出した。




「勝手なことをほざくなっ!!」

 ああ
 驚いた
 そうだった
 

結城の声が雑音と感じられた。
舞台装置は
既に変わっている。


 いい声なのにな
 唾飛ばして騒ぐ場面じゃない


ひらり
光は揺らめき
瑞月が振り向いた。


目にいっぱいの涙を溜めて
それでも振り向く魂が
海斗に向かって全身を震わせて求めている。



「愛している
 いつもだ
 俺をお前に開く。

 一つも隠すものはない。」


ぱあっ
翠の深い海が広がった。
作田は己が海の中にいることに驚いた。

どこまでも透明な深い翠の中に漂いながら
作田は聞いた。




「綾周とお前だけでも
 俺と綾周だけでも
 本当に迎えたことにならない。

 瑞月、
 お前が綺麗だと言ったものを
 俺も綺麗だと思った。

 お前が生かすと決めたものを
 俺も生かしたいと思った。

 心からそう思っている。」


一つだ
俺たちは一つ
一つだ


溶け合ってなお
そこに美しく輝く二体の体が
たがいを求めて絡める四肢がふっと浮かんで
優しく消えていく。



 そうだよ
 カーテンは閉めなくちゃ
 ‥‥‥‥目の保養だったけどな





潮騒は遠鳴りとなり
はっと
気づくと
そこに綾周の肩を抱いた海斗がいた。

瑞月が柵にお腹をあてて
ぶらーんと
手を差し伸べている。



海斗に送り出された綾周がおずおずと手を差し出し
瑞月が綾周をぎゅっと抱き締める。

柵を越えて溶け合う少年たちは
どちらも
それは可愛らしかった。




 よかった
 綾周が子どもでよかった


絡み合う一人になりたいと願うには
綾周には経験がない。
14歳の海斗が撫で切りにしてくれた女たちとは違う。

“抱けば帰る約束でした”
無表情に答える顔が浮かぶ。
止めてくれよ、まったく。
それは違う約束になるんだ。




あちこち色々と切ないことはあるかもだが、
その一つ一つへの説明の要は
もうないだろう。
綾周を守るのは海斗と瑞月という一つのものだ。



 ‥‥‥‥あの二人の幻は
 美しかった
 ただただ美しかった

 他が入る余地がないほどに美しいものが
 断ち切ってくれるものはある



作田は
ほう
吐息をついた。



ようやく耳に音が届き始めた。
海ではない。
人の立てるざわめきだ。

 

そうだった!
慌てて見回すと
ごそごそと動く色とりどりの頭が
リンクの端に固まっている。


互いの顔を見ては
何となく目を伏せる。
伏せてはチラチラとこちらを見る。


 気の毒に
 口を開くと
 自分が何を言い出すか分からなくて
 戸惑ってるんだな


ということは、
最後の海は全員落っこちたのかもしれない。
音羽が満足しきったチェシャ猫みたいに御馳走の余韻に浸っているところを見ると、
それは間違いなさそうだ。


高遠と西原が
何か囁き合っているのは、
この全員一斉に見た幻の落としどころだろうか。


高遠が
すっと進み出た。
そのときだ。



「聞こえてるのかっ!?」

もう我慢ならないらしい結城が
金切り声を上げた。


 有り難い。
 海が完全消去できそうだ。
 見えてない人もいたんだな‥‥‥‥。



今度は
全員が結城を見てくれている。
真っ赤になって怒る指導者と
その怒りの対象らしき長身の青年が
今のドラマの中心になった。



あれ?
何があったんだっけ

そうだ
先生
すごく怒り出したんだよな

‥‥‥‥‥‥‥‥瑞月のこと?





「お父さん
 怒鳴らないでっ!
 アヤちゃんがびっくりしてるよっ!!」

今度は
また
えらく可愛いキャンキャン声が足元から響いた。



目は振り子のように戻っる。
瑞月が
脚をコンパスみたいに開いて
小さな拳を握っていた。


その眸は
はったと結城を睨み付け
キラッキラに輝いている。



「瑞月君‥‥‥‥!」

悲痛な声がリンクを渡ってきた。



もはや作田の振り子状態は止まらない。
振り返れば
デスマスクに戻った結城の顔が見えた。






スーーーーーーーーっと
高遠が滑り寄ってきた。


こつん
頭をつつく。

「瑞月!
 リンクでは先生だろ?
 心配なさってるんだ。
 だめだよ。」




オトウサン
オトウサン
脳内をぐるぐるする言葉を何とか消化し、
作田は納得した。


 そりゃあ
 怒るよな‥‥‥‥。


そして、
二人がくっつく姿は
基本
花嫁の父には
脳内削除作用が働くのかもしれない。
海を見ていない人間が一人もいないなら危ないところだが、
一人でも見ていなければ幻を幻覚で終わらせるのは簡単だ。



助かったな。
有り難い。
いささか気の毒ではあるが、
作田はそう思うことにした。


 だって
 もう少し見ていたいんだ

 分別無用の美しいものを
 俺は見ていたい


この騒動に思うことは
今はそれだけだった。




海斗は
もう
十分にオーラを落とし、
静かに口を開いた。


「瑞月、
 俺の言葉が足りなかった。
 お前を悲しませた。
 先生が怒るのは当然だ。」


そして、
すたすたと歩き出す。



あん!
置いていかれた瑞月が
後を追う。




「行こうか
 瑞月君のお父さんだ。
 ご挨拶しよう。」


作田は
そっと綾周の手を握り
優しく引っ張った。

「うん」

アヤちゃんは
綾周の中でちゃんと生きていた。



繋いだ手が温かい。
作田は
きちんと胸を張った。

アヤちゃんは
浮気相手ではないし、
疚しいところはない。
ちゃんと守ってやるのは保護者の務めだ。


作田は
綾周と手を繋いで
歩き出した。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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