この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。



〈ガラスの繭〉


ドアは
待ちかねたように開かれ、
伊東は再びロックを掛ける。


「奥です。」

囁くと
そのまま玄関脇の小さな画面を見つめ
伊東は仁王立ちになった。



カーテンに遮られてまだ未明の中にあるリビングをすり抜け
海斗は寝室へと急ぐ。
ドアは開いていた。
伊東だろう。
鷲羽の者であれ中には入れられない。
そして
寝室からの声も聞き逃せない。


開け放されたそこから
仄かな明かりが洩れていた。
照明でもなく
陽光でもない仄かな瞬きが蒼白く海斗を求めていた。



「海斗君!
 急いで!!」


作田の声が
低く聞こえた。


寝室は夜が一段と深い。
踏み出す足元を薄墨色の靄が舐めていく。
仄かな瞬きはベッドに横たわる白い形骸から発していた。
作田はその手をその白きものにあて
静かに見守っていた。


海斗は
歩み寄るとその上掛けに手をかけた。
作田がはっと押し止めようとするのを待たず
静かに上掛けを剥ぐ。


薄墨の靄が
嬉しげにその裸身を這い上り
硬質な輝きに透き通るガラス細工の人形を愛でる。

すっと海斗の手が伸びた。
迷うことなく抱き上げると
華奢な裸身は砕け散り
そして
腕の中に残ったのは眠る少年の体だった。




〈救護室にて〉


体育館の救護室に
瑞月は横たわる。
結城は西原の説得に口を開くことなく
押し黙ってベッド脇の椅子に座り込んでいたが、
時計を見上げ、
最後に瑞月の呼吸と脈を確かめて、
初めて西原をまともに見た。


「何かあったら‥‥‥‥。」

結城には
瑞月の巫としての真の姿は見せていない。
それは、
父親としてではなく指導者として瑞月に接すると決めた結城に配慮したものだ。


また、
その攻防の実際を知って結城が心穏やかでいられるとは
考えにくかった。


鷲羽の者でも、
その闇との攻防をあからさまに見ることはない。
警護と屋敷の女衆は
その意味で鷲羽の中の鷲羽だ。
彼らにとって闇はリアルだ。
西原は中でも突出している。




だが、
結城は父だった。
情愛は身を引いていても変わらない。


そのとき、
倒れ行く瑞月の姿がスローモーションのように見えた。
間に合わない!
と心臓が冷たくなった瞬間、
一直線に氷上をよぎった影がその体を抱き止めていた。


いつも見ている。
そして守りたいのだ。
その顔に滲む苦渋と苛立ちに
西原は胸をつかれる。




「お知らせします。
 だいじょうぶです。」

西原は応え、
結城は出ていった。



「特に異状は見られません。
 休息をとることで様子を見ますから‥‥‥‥。」

のんびりとすら感じられる女性看護師の声は、
普通であれば
これが正解だろうと西原に教えてくれる。



瑞月の虚弱な体質に
その母を重ねて案じる結城にも
瑞月を狙うこの世ならぬ影を知る西原にも
それは心すべきことだ。




普通の感覚に沿った対応が
瑞月を守る。
世の中から守るには、
奇異の目で見られることは避けなければならない。



気の良さそうな中年女性に
西原は
微笑みを返す。


「ありがとうございます。
 
 今日はショーから教室で
 ここは出入りが多いと思います。
 この子も少し眠れば
 回復するでしょう。
 別室で寝かせておこうかと思うのですが、
 どうでしょう。」


看護師が
顔を引き締めた。

「だめですよ。
 様子を見るというのは、
 大事なことです。

 どこも悪くないのに倒れるというのは、
 重大な異変の兆しであることもあります。

 そのために私がおります。
 お預かりしますよ。」


ドアがノックされ、
金髪が覗いた。
看護師が慣れた様子で立ち上がり
冷凍庫を開ける。
トコトコとその後に続く練習着姿の少女が
氷嚢を受け取り手を振って出ていく。


「どの子も痛む場所を抱えてます。
 スポーツをする子達は
 本当に大変ですね。」

そう
西原を振り向く彼女は
寝不足か緊張かで倒れてしまった少年を預かる
当たり前の仕事をしている。
その世界観を崩すことは許されない。




「ありがとうございます。
 ただ‥‥‥‥この子は‥‥‥‥。」

西原は
わずかに顔を曇らせて
言葉を途切らせてみた。



「どうしました?」

「すみません。
 一人で寝かせてやりたいと言いますか‥‥‥‥。」


女性が優しく待つのを感じながら
西原は言葉を続けず恐縮したように俯く。


「似たようなことが?」

「‥‥‥‥はい。
 緊張というか‥‥‥‥。」


看護師は小首を傾げ
そして、
瑞月を改めて見つめた。


「わかりました。
 でも
 一人にはできませんよ。」

「はい
 私がついています。」


その可愛らしさが
保護を要する印象を当たり前にしてくれる。
倒れたのが高遠ではこうはいかない。



この際、
それは有り難いことだった。



西原は
今日使うことのない応接室を念頭においていた。
葦もその時を待っているに違いない。
動き出すなら
二人きりになってからだ。



 高遠
 今はお前を頼れない
 いつかも言ったよな‥‥‥‥。

 俺は迷わない
 
高遠がリンクにあることが
そこに瑞月の戻る場を作ることだ。


西原は
重ねて礼を述べ、
瑞月の体を抱き上げた。



〈殿方は‥‥‥‥〉


作田が開いたカーテンから陽光は寝室に流れ込んだ。
その日差しの中で
意思のない白い肢体が痛々しい。



海斗が
そっと上掛けをかけてやるのを
作田は静かな思いで見つめていた。



「君は
 本当に変わったな。」

思わず
そんな感想が口をついて出た。


「‥‥‥‥はい。」

どこを変わったと言われたのか
分かったようには見えなかったが、
変わったとは思うのだろう。

海斗は
そう応えた。



さらに
しばし考えているようだったが
そっと寝室を出ていった。

作田は
どこへと
尋ねることはしなかった。

ともあれ
綾周の姿は定まった。
ほっとしていた。





作田は
改めて綾周を見つめた。

生気というものが感じられない綾周は、
その美しさもあいまって
人形めいていた。

漂い続ける闇の皇子は
いったい何を思っているのだろう。
いや何者となっているのか
それさえも分からない。

この体に今アヤちゃんの記憶があるだろうか。
そう思うと、
胸が痛んだ。


リビングの写真立てには
図書館で読み聞かせに聴き入る綾周の写真が入れられている。
政五郎がひょいと懐から出したカメラは
止める間もなくアヤちゃんを写し取っていた。


“‥‥‥‥残してやりたいですね”

“ああ 民さんに渡されたんですよ。
 家族のお出掛けに子供を撮るカメラは必需品だってね
 ちがいねえや
 ほら一生懸命生きてますぜ
 かわいいもんだ”



   本当に可愛かったな………。


作田は
8歳のアヤちゃんだった綾周を思う。



昨夜、
夕食と一緒にこの写真が
この部屋にやってきた。


眠りにつくまで
大事に写真立てを抱き締めていたアヤちゃんの姿が
思い浮かぶ。
この文字通りいつ消えるかわからぬ姿の中に
あのあどけないアヤちゃんはいるのだろうか。


そう思うと
つい目頭が熱くなる。




「民さん‥‥‥‥!」

伊東の圧し殺した声が聞こえた。


はっ
振り向くと
もう
海斗の後ろに従って
民が寝室に入ってくる。


ここにいるのは、
アヤちゃんではない。
いいのだろうか
迷う余地もなかった。




民は
さすがに
ベッドを前に足を止めた。

その目は上掛けから覗く綾周の顔と
その膨らみに分かる体の大きさに
釘付けになっている。



そして、
その顔はぐっ引き締まった。


「殿方は
 外に出てくださいな。
 お服を着せたら
 お呼びします。

 あ、
 ドアは閉めてくださいね。
 途中で目を覚ましたら可哀想です。」


そして、
ドアは閉められた。



〈西原の覚悟〉

応接室のソファーにクッションを集めたベッドに
西原は瑞月の体をそっと寝かせた。
それは恭しいといってよいほどに
西原の所作は優しかった。


部下たちが見たら
どれほど驚くだろう。


頭をくしゃっとする。
優しく肩を抱く。
高遠から奪い抱き上げる。


西原の若き班長時代に
もう驚くだけ驚いてきた彼らも
まだ見たことはない。
初めてだからだ。



 目覚めても
 俺が行くまで決して外に出すな


 総帥
 ここに
 瑞月はいます‥‥‥‥。


西原は
その寝息に思っていた。
それを改めて報告するには根拠はなかった。
だが。
感じていた。


 目覚めている‥‥‥‥。


その体に宿るものが
何であれ
瑞月は確かにそこにいて
健やかにあった。



この世の何よりも
西原を捉えて放さない大切な存在が
そこにあった。


静かに
その髪を撫で、
西原は向き合った椅子に深く掛けた。


「話さないか?
 俺には幻術は通用しない。」


パチリ
目が開いた。


「あっ
 西原さん
 ぼく‥‥‥‥どうしたんだろう。

 あれ?
 たけちゃんは?」

瑞月が
ごそごそと起き上がった。



「たけちゃんは正解だ。
 だが、
 俺は西原さんじゃない。
 音楽室を
 忘れたか?」


瑞月の顔が戸惑ったように
西原を見つめる。


「あの‥‥‥‥たけちゃん‥‥‥‥。」

「高遠は総帥じゃない。
 そして、騙せない。
 俺以上にな。」


ゆっくりと
瑞月の顔が変わっていくのを
西原は見つめた。

皮肉な表情、
少し上がった口角、
老成していながら妖艶な酷薄な眸。



西原はその完成を待った。
そして
しんしんと降り積もる理解が固まっていくのを感じていた。


「今の瑞月は
 邪悪と感じるものを受け付けない。

 白い蛇はお前の願いだ。
 今もそればかり考えている。
 だから‥‥‥‥お前はそこにいるんだ。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥秦伊周。」


その顔が凍りつき
目が見開かれるのを西原は見つめた。


 父親はどこに消えたんだろうな
 お前はどう思う?

 どうでしょう
 まるで霧のように消えています。
 そんなことが人間にできるものなのか
 不思議です。



総帥、
ここにいました。

そして、
西原は葦と向き合った。






〈愛されてこそ〉


「お入りください。」

ドアが開き
海斗と作田は招き入れられた。



ベッドには
昨日の瑞月が着ていたものと同じデザインの色違いの薄紫のニットを着せられた綾周が
上掛けを掛けられて横たわっている。



海斗が
ベッドへと踏み出す前に
民がすっと立ち塞がった。



「急いでいます。」

海斗は言い

「瑞月さんのためですね。」

民は応える。



事態は切迫していた。
鷲羽の巫は危機に貧している。
作田にも優先順位は明らかだった。
民にはもっと明らかに違いない。


だが、


「お願いします。
 綾周が今
 どういう状態かを掴まねばなりません。」

海斗が民の脇をすり抜けようと動く姿に
作田の胸はチクリと痛んだ。


そして、
民は再び
するっと海斗の前に立ち塞がった。




「私が起こします。
 お待ちください。」

その決然とした顔に
海斗が
その動きを止める。


それを見済まして
民が
静かに綾周へと向き直った。




ベッドの脇に
慈母の笑みで屈み込む民に
作田は息を呑んだ。


「アヤちゃん
 アヤちゃん起きなさい。」

ほっぺを挟んで
民は
いたずらっぽく綾周の顔を揺らした。



硬質な冷たい白い肌
生気のない人形は呼び掛けに応えない。


民は
そっとベッドに座り
綾周の頭を抱えあげた。


白い顔が
その膝に乗せられ
カクンと傾ぐ。


本当に人形と同じなのかもしれない。
入れるべき魂を持たぬ
哀れな美しい容れ物の頭部を
民の腕が優しく抱き締めた。



「さあ
 アヤちゃん
 起きてちょうだい

 今日も楽しいことがきっとあります。
 民はアヤちゃんが大好きです。
 アヤちゃんが目を開けてくれるのを待っています。

 アヤちゃん
 アヤちゃん
 お日様が呼んでますよ。」


優しく揺する腕は
愛児を抱く腕。
囁きかける声は
我が子を思う母の声。




その絵を見つめる作田に
ぐっと込み上げてくるものがあった。


リビングに走り
写真立てを掴んだ。
立ち入れぬほどに濃密な母子像に
それでも
自分もと揺れる思いがあった。



寝室に戻り
つかつかと民のもとに歩み寄った。


「アヤちゃん
 ヒロおじさんだ。
 覚えてるかい?

 昨日は楽しかったなあ。
 アヤちゃん
 起きてごらん。」


民の前に膝をつき、
作田は囁いた。


抱えられた頭が
微かに揺れた。


民の腕が
そっと開かれ
眠そうにしかめられた眉が覗いた。



「アヤちゃん
 おはよう」

民が、
作田が、
声をかけた。



ぽっかりと目が開いた。

「‥‥‥‥おばちゃんだ‥‥‥‥。
 ヒロおじさんも‥‥‥‥。

 夢?」


ぼんやりと
洩れた声に
民がその頭をまた抱き締めた。
作田の目から温かいものが溢れて流れ落ちた。



作田の後ろを綾周が見上げ、
そして頬を染めた。


「鷲羽さん‥‥‥‥。」


そして、
綾周はおずおずと起き上がった。
民を見上げ、
作田を見下ろし、
綾周は頼りなく胸に手をあてる。



「ぼく‥‥‥‥夢を見てました。」

海斗が
作田の脇に立ったかと思うと、
ベッドに座る民に並んだ。




静かに抱き寄せる。

「夢じゃない。
 綾周、
 お前は愛されている。

 夢じゃない。」


海斗の声は低く力に満ちていた。
微かな震えは何なのだろう。
作田はその背にも感じる震えに
また驚いていた。

瑞月を得て
守る者を得て
海斗は変わっていた。

強く
そして
愛ゆえに揺らぐほどに弱く
つまりは人として歩き出している海斗に
作田はどれほどほっとしたか知れなかった。



そして、
この震えは何なのか。
その海斗に抱かれて
綾周は目を閉じていた。


「‥‥‥‥愛されてる?」

その呟きが唇から
ぽつん
落ちた。


「ああ
 そうだ
 愛されてる。」


零れた呟きを
海斗が拾う。



綾周の目がそっと開き、
己を一心に見つめる民を見つけた。
あっ
小さく声が洩れて
その細い腕が頼りなく上がる。


民の腕が伸ばされ、
綾周は
そっと民の胸に抱き取られた。



「アヤちゃん
 よく覚えていてくれましたね。
 民は嬉しい。
 嬉しいですよ。」

ぽつん
綾周の頬に温かなものが落ちるのを
作田は見つめた。



「‥‥‥‥民‥‥‥‥おばさん?」

「そうよ」

「お弁当‥‥‥‥ありがとう」

「おいしかったでしょう?
 たくさん食べてくれましたね。

 あなたはアヤちゃん
 民が大好きなアヤちゃん」


綾周の目に涙が浮かび
そして
はらはらと零れた。



作田は立ち上がり、
民と綾周の傍らで
俯いて座り込む海斗の肩に
そっと手を乗せた。


海斗は顔を上げない。




「どうした?」

作田の声が優しくその頭に落ちる。

民が
綾周が
海斗を見つめた。




「愛してもらいました。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥私も愛してもらった。
 思い出しました。」

陽光がレースのカーテンを通して
優しいその人の手となって
海斗の髪を撫でていく。


“寂しがり屋の狼さん
 大好きよ”

そう言われるまで
自分が寂しいとも知らずにいた。
海斗の胸を
先程の民の厳しい拒絶が満たしていた。


人を
どう救うというのか
愛されぬ己を閉ざした魂に
それはできない


愛されていると感じて
初めて
その魂は扉を開く



「‥‥‥‥民さん
 ありがとうございました。」


綾周が不思議そうに
民を見上げ、
民はその頭を優しく撫でる。


その意は
綾周は知る必要がないものだった。



「鷲羽には
 誰かを愛したい女が集まります。
 御老人が呼んでくださる。

 道子さんは
 総帥を愛せてどんなに幸せだったか。
 私もアヤちゃんを愛せて幸せです。」




海斗が立ち上がった。

「民さん、
 綾周をお借りします。
 必ず
 傷つけずに戻ります。
 約束します。
 よろしいですか?」


民が
そっと綾周を覗き込む。

「アヤちゃん、
 総帥があなたに来てほしいそうです。
 とても大切な人が
 総帥の大切な人がいます。
 その人を助けに行くのです。

 あなたはどう思いますか?」


その頬が
パッと赤く染まるのを
民は静かに見つめた。

その悲しげとすら見える顔を
また綾周が不思議そうに見上げる。
それを見る作田も胸が痛んだ。



「分かりました。
 ではね、
 アヤちゃん
 民に約束してちょうだい。

 総帥に大切な人がいるように
 アヤちゃんは民の大切な子です。

 今日の最後
 あなたを待っている民がいることを
 忘れてはいけません。

 必ず元気に戻ってきなさい。
 いい?」


優しい声だった。

己の恋心も気づかぬ子どもに
せめてもの思いを伝え
民は綾周の頬に手を添える。


その手に
そっと手を重ねながら
綾周は頷いた。


「はい
 あの‥‥‥‥葦もいますか?」

最後は
海斗を仰ぎ見て
綾周は尋ねた。


無邪気に明るむ眸が
その葦にも海斗にも揺らがぬ信頼を示している。


「ああ
 いるだろう。

 行こう。
 お前も俺も行かなければならない。
 そう思う。

 必ず守る。
 お前も、
 俺の魂も、
 必ずだ。」



画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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