この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





騒ぎは
あっけなく終わった。


もちろん
ヘスはあがいた。
さながら法廷に引き出された罪人のごとく
その罪をひた隠そうとした。



男を連れてきた支配人に、
まず向かった。


“この乞食を追い出せ!
 何を勘違いしたか
 この私を脅迫できるとでも思いついたんだろう。”

口調はエセ紳士に戻り、
背筋はぷるぷる震えるほどに伸びていた。



乞食と決めつけるのはどうかと思われたが、
まずまず当たらずとも遠からずのその男は、
どうやら少々頭が弱くもあった。

“ギルだよ
 おらぁギルだ。”

けんもほろろのヘスに
相手にされぬとあって

〝ヘスだよ。
 だってヘスなんだ。”

おろおろ支配人とロバートの顔を交互に見つめ、
そのギル某は
訴えた。


そして、
蹴飛ばされても
主人を忘れない犬のように
傲岸に自分を睨み付けるジャック・ヘスにすり寄った。


と、
その目が輝いた。


  “その喉んとこの筋、
 他にそんな筋ある奴いないよ。
 お袋さんに切られたって
 ヘス言ってたじゃないか。
   な?
 な?
 ヘスよう。〟

デリクは
その
弾んだ声を痛ましくさえ感じた。


ヘスは
そのギル某など
もう見てもいなかった。
ヘスはロバートを見ていた。



ロバートは
嵩張る書類を鞄から出しているところだった。
いかにも事務的な
この一連の流れを踏まえて為される流れは
一浮浪者の言葉などより
遥かに重みがある。


ヘスは、
おそらく世渡りの知恵が並外れていたのだろう。
下卑た振る舞いはその知恵とは別問題だ。
ヘスは商売の、世間の現実を知っていた。


そして、
ロバートは
書類の何枚かを鹿爪らしく眺め
目を上げた。


“イザーク・アスペンと名乗る人物は、
 15歳からの記録しか見つかりません。
 今のあなたですな。

 で、
 15歳まで、
 つまり
 御親戚に引き取られるまでのあなたなんですが、
 ‥‥‥‥ご存じですか?
 亡くなっているんですよ。

 たいそう大きな火事でしたからね、
 よろず大雑把だったのでしょうが、
 お亡くなりになったのは確かなことですよ。
 当時のお隣のMrs.シモンズ、
 ああご存じないですよね、
 だってあなたはイザーク・アスペンではない。
 
 とにかく亡くなっていることは証言が取れています。”


支配人は
重々しく頷き
手を差し出して
その書類を受け取った。


支配人がその書類に目を通す様を
ヘスは凍りついたまま
ひたすら見つめていた。


“Mr.ヘス
 当ホテルは、
 お客様のプライバシーに関わるつもりは
 ございません。

 犯罪と申し上げるほどのことには思いません。
 これを見る限り
 引き取られて利益を得たとも’申せません。
 御苦労なさいましたな。・”


ヘスの肩が
ふうっと落ちた。

エセ紳士でいる必要は
今度こそなくなったようだ。



“脱け出せた。
 それで十分だったんだ。
 名無しのガキから脱け出せたんだ。”

その呟きは
低く
自分に言い聞かせるように重かった。


ギル、
たぶんただのギルなのだろう。
ギルの顔が
また笑みを取り戻した。


“ヘス!
 格好いい名前じゃないか。
 ヘスって似合うぜって
 俺、
 言っただろう?”



ヘスは
微かに笑い、
ちらとかつての仲間を見やった。

兄貴分は弟分を
馬鹿にし
憐れみ
ときに蔑みながら
守ってやっていたのかもしれない。

デリクは、
子供時代の二人が
そこに仄見えた気がした。




“自分で付けても
 世間じゃ通らないさ。
 ギル、
 俺はただのジャックさ。
 お袋の名字なんざ
 もう忘れた。”


ラウンジは、
もう法廷ではなくなっていた。
ただ、
旅立ちの風景は
当初の流れとは違うものとなりそうだった。



“私も同じですよ。
 私は奥さまの財産が守られ、
 奥さまの望むように
 それを動かせればよいのです。

 ところで、
 お分かりと思いますが、
 奥様はイザーク・アスペンに従うと証文を作られた。
 この証文にあなたが拘るなら、
 あなたの出自は問題とさせていただきます。

 あなたが拘りを捨て
 それを廃棄なさるなら
 私が調べた全ては世に出ることはありません。”


ぽつんと焼け跡にいたヘスは
〝イザークか?〟
と聞かれたのかもしれない。




浮浪児は
デリクも日常見掛ける。
愛想よく靴磨きに笑顔を振り撒く馴染みの子もいた。
施設に入らないのかなどと無粋な声をかけたりはしない。


その施設は
決して家となるものばかりではない。
施設を逃げ出して浮浪児となる子どもらもいる。



ヘスが己の工場で指弾されたという労働問題など、
浮浪児の暮らしからしたら
不思議にも思わぬ話とも言える。
それは過酷な暮らしだ。




病的ですらある傲慢さは、
己の過去を打ち消したい思いによるのか。
その過去を抱いて不思議な落ち着きを見せるヘスを
デリクは感慨深く眺めた。



そして、
今、
騒ぎは収まり、
ヘスは
かつての弟分を従え、
どこか昂然とすら感じられる顔を見せている。



「奥さん
 あんたの旦那は
 貴族っていう以外取り柄のない男だったのさ。

 自分の頭で稼いだものは身に付くが
 のほほんと受け取ったものなんざ
 すぐにも消えちまう。


 俺も馬鹿だった。
 名前一つで消えちまうもんを
 頼りにするなんてな。
 トム・ティット・トットって奴さ。
 馬鹿だよ、馬鹿だ。

 こんなもの
 もう要らないさ。

 俺は俺の才覚でここまで来た男だ。
 それで十分だ。」



ヘスは、
ゆっくりと紙入れを出し、
もう何の効力もなくなった証文を
引っ張り出した。


その紙の上質なことを見れば、
それを準備したのが
それを見つめる貴婦人であることは明らかだ。


当時、
それこそ魂を地獄に投げ入れる覚悟で書いたであろう証文を
未亡人はじっと見つめる。




ヘスは無造作に
ふたたび
それを開いてみせ、
ついで
ラウンジを見回した。


葉巻をやる客のために
壁際の黒檀の棚に一式の用意がある。


つかつかと
そこに歩み寄り
ヘスはマッチを擦った。


支配人が慌てて
その灰が床に落ちないかと駆け寄った。
ヘスは構わず火をつける。



浮浪児の頭は
その燃え上がる紙切れを摘まみ、
灰皿の上に厳かに置いた。



めらめらと
一瞬
その炎はヘスの顔を照らし出す。



名前だけであれ夫婦であったヘスと貴婦人は
初めて一つのことを共にした。
それは、
それぞれの捨てたくて仕方なかったものを弔うことだった。



「じゃ、
 もう一枚の証文は
 確かな証拠って奴になるはずさ。

 振り込みをお待ちしてますよ、奥さん。
 1000ポンドだ。
 振り込みが確認できたら
 いつでも離婚に応じますぜ。」



そう言い捨てると、
ヘスは
かつての弟分を振り返る。


「ギル、
 お前も来い。
 使ってやる。」

そして、
赤毛の息子には
顎をしゃくって合図して歩き出す。





「お待ちなさい。
 待って!
 お話があります。」


凛とした声が
ヘスの足を止めた。



グレンが
ふと興ありげな顔をする。
そして、
腰掛けに膝を抱えるアベルは、
その二人を魅せられたように見つめる。




まだ、
この二人に物語はあるのだろうか。



「Mr.ウィンター、
 お尋ねします。
 採掘権をお望みの方は
 5000ポンドで権利をお買いになりたいと
 仰有っているのではありませんか?」


「はい。
 鉱脈’を掘り当てた方は
 その鉱脈が続くと見込まれる御主人が採掘権をもつ山に
 その金額を提示されました。

 株は、
 その方の鉱山のものです。
 ご主人とその方は 
 互いの鉱山の株を互いに持ち合っておられました。」


夫人は深く頷き、
ヘスに向き直った。


その視線が
ヘスをしっかりと見つめている。
夫人がまともにその夫だった男を見るのは
デリクには初めてだった。


「では、
 私は
 その方に証券を買っていただきます。

 そして、
 ヘスさん、
 今あなたの工場に必要なのは、
 働く人のために
 環境を整えることです。

 きっと
 これは世の中の動きでしょう。
 まともな工場でなければやっていけない時代が
 始まろうとしているのではないですか?

 あなたが
 それを作ると約束するなら
 私は
 その5000ポンドを出資します。

 いかがですか?」


突然亡くなった夫の会社を整理するまでに
この貴婦人は
多くを学んできたのだろう。


その上で
あの魂を悪魔に売り渡す証文にサインしたのだ。
だが、
その悪魔は名を明かされることで消えていた。



文字通り消えたのだ。



そこに
もう必死になって偽りの己を守ろうとする憐れな魂はなく、
己の才覚に自負をもつ男が残っていた。



「あんたに金の使い方はわからんさ。
 甘いな。
 まったく貴族なんてのは
 おちぶれるのが当たり前だ。」


男は肩をそびやかし
また
歩き出そうとする。


「それをしなければ
 あなたの工場は潰されるだけ。

 もし
 それができれば
 続く工場は増えるでしょう。

 イザーク・アスペンさん
 あなたが作ったあなたの名前は
 本物になって残るのではありませんか?」


「ヘス!
 えっと
 ヘスが偉い人になるって
 この奥様は
 仰有ってるのかい?」


今は
グレンも
アベルも
そのドラマを見つめる観客だった。


 面白いかい
 人間は?

 私もときどき驚くよ。
 

デリクは
森に棲む二人が見つめる二人の物語のクライマックスを
何だか誇らしい気持ちで
眺めていた。



「‥‥‥‥そうだな。
 そうさ。
 ギル、
 俺は偉い奴になる。
 誰もが俺に頭を下げるぜ。

 どうやったら
 そんなことができるんですかってな。」


そして、
今度は振り向かず
動き出す。


息子と弟分に
山のような荷物を抱えさせ
自分もそれを肩に担ぎ上げドアを抜けていく。


支配人
ロバートが
その一行を送って後に続く。
微かなエンジンの響きが聞こえてきた。
駅へとその車は向かうのだろう。
ヘスは己の物語を作るべき場所へと戻っていくのだから。




ラウンジは
また
静かな客間に戻った。



「Mr.ウィンター
 もしかすると、
 あなたはアレックのお友だちではありませんか?」


客間の主たる未亡人は
静かな目をグレンに向けた。



「なぜ
 そう思われるのですか?」


「この子が呟きました。
 グレンと。

 あなたが“この証文は無効だ”と
 仰有ったときです。」


アレックが
あっと口を押さえ
アベルが腰掛けから立ち上がった。



「グレン・ウィンターさん?
 それとも、
 まだ別のお名前がおありですか?」



グレンが
まじまじと夫人を見つめ
姿勢を改めた。


あらためて
腰を屈め
グレンは礼を示す。


「慧眼、
 恐れ入ります。
 トム・ティット・トットは私のようだ。

 グレン・ウェストンと申します。
 御子息に命を救われた少年は
 私にとって何にも代えがたい者です。

 心から感謝しております。」


夫人は
静かな目でグレンを見返す。


「その証券も株券も
 あなたのものなのではありませんか?」

グレンは
静かに手を差し伸べた。

アベルが
ほっとしたように小走りに駆け寄り
その腕に身を委ねた。


森に棲む美しいものたちは
その姿を
そこに浮かび上がらせる。

森の王は、
もう俗世の匂いを感じさせない。
その手に抱いた金髪の妖精も
王の腕に抱かれて透き通る羽を震わせている。



「私は投資が趣味です。
 彼は
 たいそうな才覚がある。

 そして、
 これからの工場経営は
 まさに奥様の仰有る通りの流れを辿るでしょう。
 楽しみだとは
 思われませんか?

 そして、
 奥様、
 この株券ですが、
 これは本物ですよ。

 あなたにと託されました。
 苦労を共にしたご友人のお話、
 奥様も聞いておられるのではありませんか?」



夫人が
その御友人の話を聞いたことがあるかは
重要なことではない。
その話はされたかもしれないし、
亡夫が秘密にしていたかもしれない。



「私は
 この子を守るためなら
 何でもするのです。

 ご主人も同じお気持ちだったに違いありません。
 御友人がそのお気持ちに添いたいと考えた。
 そういうことと思っています。

 奥様、
 私は、
 この子のためなら惜しいものはありません。」


王が
厳かにそう宣するのを
デリクは
何か
なくした記憶の中に渦巻くものを見るように
眺めていた。


 そうだ
 確かに私は
 知っている

 知っているんだ


夫人は
アレックの手をしっかりと握って
グレンを見つめていた。


「わかりました。
 ありがとうございます。」


未亡人は
静かに立ち上がり
ドレスの裾を摘まんで膝を折った。


「お父様のお気持ちなの?」

アレックが母を見上げる眸に
ようやく明るい光が灯った。


「ええ。
 お父様のお気持ちよ。
 私たち、
 しっかり受け止めなくてはね。」


母は
毅然として
息子の顔を見つめた。



アレックは微笑み
幸せそうに
母の首にしがみついた。




アベルの望みは叶えられた。
別れは寂しいだろうが
それはお友だちの幸せな未来はそれに優る。



 王は
 愛しいもののため
 すべてを支配する


よく
こんな展開を準備できたものだ。



頭をかき回す既視感に
眩暈を覚えながら
デリクは舌を巻いてもいた。


そして、
胸に一つ温かいものも抱いていた。


ときに
その支配を越えて
人もまた思いがけぬドラマで王を驚かす。
それも人の面白さというものだ。



強いようで弱く
折れそうでいて折れない
そんな人の魂に
心揺さぶられる夜でもあった。



何かがあった。
既視感は
もう薄布一枚のベールの向こうに揺れていた。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。


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