この物語は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




通り過ぎるスタッフの足音に
瑞月は揺れる。


鏡を背に
じーっとドアを見詰める仔猫は
明るんだり
しょぼんとしたり
分かりやすい。


感心に
足音が通り過ぎる前に
海斗ではないと分かるらしく
ドアに近づく足音はしょぼんと落ちた視線の前を消えていく。





楽屋の椅子に
ちょこん
座る瑞月は
久しぶりに仔猫満載の風情に
小悪魔と化していた。




長の愛撫は
覚えているらしく、
しょぼんとするや胸に当てた手から
情が零れて落ちて艶かしい。



伊東は
逆だ。


びくん!
強張っては
ふーっ
肩が緩む。
足音は虚脱した伊東の前を消えていく。


これも
久しぶりの赤鬼と青鬼を
往き来する伊東は
そろそろ色が混ざって顔色が青黒い。


明暗交錯する楽屋空間だった。






予想通り
西原は搬入口で一行を出迎えた。
開きかけた唇が柔らかく指に捺されて止まる。



唇を押さえた指先が離れ
搬入口の先に広がる袖の薄闇を指し示した。




袖脇に政五郎と作田が
ひっそりと控えている。
二人は
ステージに向けた目を揺らさない。




瑞月は
そんな二人に
はっとしたように
西原の腕に抱かれて
丸くなる。



 危ないんだ
 危ないんだよ
 見られちゃダメだ



仔猫は
きゅっと前肢を縮め
闇に瞳を凝らす。

搬入口手前の溶暗は黒々と深い。






西原が
インカムに耳を澄ます。

楽屋廊下に繋がるドアは
会場を縦横に繋ぐ通路の一端だ。
血流のように通路は会館を巡る。
その全ての確認を西原は命じていた。




ステージ奥の壁が
舞台を照らす照明を遮り落とす影が
搬入口前の闇を生む。



最前列の客席から仄かに見える舞台裏の手前、
西原はその可視領域を視認しつつ
楽屋口への動線を探る。


下げられた花飾りのかかる
いくつかのキットが
袖奥に並び、
その端は搬入口の闇に溶けて黒い。



高遠が
すっと踏み出し
壁際に向かう。



闇に慣れた目に
高遠の手が上がるのは見える。
西原がそっと瑞月の背を押し
高遠は瑞月を待ってその手を差し出す。




瑞月が
そうっと進み出した。

闇を進む仔猫は
足下に散らばる積込を待つ花枝やら傘やらをすり抜け
音もなく高遠の手を目指す。


西原は
その背後にぴったりとつき
一つの影となって進む。


布製の花房を垂らすキットの連なりが
三人を飲み込み
袖には客席からは何事の変わりもなく
静まったまま三枝の言葉が響く。



「…………固くお誓いいたします!」

力強く結ばれた言葉に
客席が拍手に揺れる。



水澤と渡邉は
静かに袖奥を
尋常に楽屋口へと進み
その奥へと抜けた。



そこは
既に瑞月を連れた高遠と西原が抜けていた。
伊東は会場の外を回っている。
楽屋前で待ち受けているはずだ。



 誰にも見られちゃダメ


かくして達成され、
瑞月は楽屋に設けられたステージを映す画面に海斗を見て
きゃっと喜んだ。




それが
どのくらい前のことだったろう。
楽屋の画面は
緞帳が下りるまでは生きていた。



プツッ……。


無駄に電力は消費されない。
自動的に切られた画面の前に
瑞月が
ぽつんと残された。




鷲羽財団総帥、鷲羽海斗は
待ち望まれた。

天宮瑞月には恋焦がれられて、
伊東国雄には慄き恐れられて、
ひたすら待ち望まれた。




明暗交錯する楽屋風景は
こうして
既に小半時ほど続いていたのだ。




西原は
とっくに姿を消している。


〝指令室は樫山が入りました。
 補佐、
 代わられますか?〟


自らが
すぐにも戻りたかったろうに、
それでも、
西原は伊東に問うた。



〝いや、
 総帥は俺に頼んだと
 仰有った。

 総帥が来られるまで……俺は待つ。〟



西原は
ビシッと姿勢を正し
礼をして
瑞月の頭をくしゃっとし
高遠に手を挙げ
水澤と渡邉に目礼し
楽屋を去った。



情報は
まだ整理されてすらいない。
しかも刻々と移り変わる。
西原は西原の守りがあった。



瑞月が
楽屋内をうろうろと
動き回り出した。



ドアの前で
じっと見上げてみたり
とぼとぼ戻って椅子の背を撫でたり
止まることがない。



海斗は
もちろん
いつかは瑞月の迎えに動くはずだ。
それは、
〝来い!〟
言った以上確実だ。



問題は
時間の指定がないことだ。



伊東は
じりじりと脳を焼く思いに
焦れていた。



そして、
水澤を窺う。



水澤は
静かな表情を動かさない。
その思惑が何であれ、
瑞月を会場に入れることに考えがあった。
伊東はそれが分からない。



「先生、
 あの……瑞月さんは
 だいじょうぶでしょうか。」


低く辺りを憚りながら
そんな問いが口をついて出る。


瑞月は
また
しょぼんとしている。
その様子をはかって
伊東は尋ねた。



何とも間の抜けた質問だが、
仕方がない。
瑞月本人がいて、
〝秦〟の名は出しにくかった。


「だいじょうぶ。
 今の瑞月君は強いですよ。

 私の目を開いたくらいです。
 何かが変わりました。

 次のステージに上がったとも見えます。
 それは……目が必要ということかもしれませんね。

 何かが起こります。
 そう思った方がいい。
 備えは必要です。」



伊東は思う。

備えるなら
危険は避けなければならない。
今、
どうして
瑞月をここに置かねばならないのか。

その疑問を抱えて伊東は水澤を見詰めていた。




短い会話の間にも、
また瑞月はドアの前で見上げている。




水澤は、
自分の言葉を受け止める伊東を優しく見返しながら
瑞月の背を目の端にとらえていた。




首が
かくんと傾げられた。
うん!と
その小さな頭が揺れる。


高遠が
すっと
動き出す。




 ほら
 伊東さん
 来ましたよ

 何かが起きる





カチャッ……。
 


はっ
伊東は振り返る。


揺れるドアが
そして
消えていく影が見えた。



 高遠さんだ!
 追っている!


ドアに飛び付くと
がらんとした廊下が
一直線の直線コースに見えた。


駆け抜けていく少年二人は
もう楽屋口に
到達していた。


そして
それが開け放されるのが
ひどく
ゆっくりと見えた。



「海斗!」

甘い声が炸裂する。



駆け寄る自分の足が
床にめりこむようにのろのろと感じられた。



笑顔の瑞月、
その体を抱き抱えて止める高遠、
ドアの向こうからドアに飛び付いてくる作田、
さらに向こうに一歩舞台に踏み出す政五郎の厳しい横顔。


バターン……。


閉じられたドアに辿り着く前の一瞬に見えた中に
鷲羽海斗はいなかった。



「瑞月!」

高遠がめったに使わない
〝絶対だめ!〟の声を出した。


「だって……。」
瑞月がとんとん足踏みする。



この声の高遠に瑞月が逆らうのは
伊東は見たことがない。
高遠も、
驚いたように瑞月を見つめている。



「呼ばれたもん。」

瑞月は
胸を張る。
その眸はきらきらして
自信に揺らがない。


「……誰に?」

高遠が
落ち着いて声の調子を変えた。

言ってごらん
瑞月は嬉しそうに微笑む。



「海斗だよ。
 あのね……ミヅキって聞こえた。」



ドアの向こうが
いきなり
ざわめいた。


確かに
何かが起こった。






きゃっ
わっ
小さな声を押さえて
頼もしい声が聞こえた。


〝ああ
 こっちはだめなんですよ。
 すみません。

 だいじょうぶですかい?
 震えておられるじゃありませんか。

 ちょっと
 すみませーん
 こちら具合を悪くされたようだ。〟


瑞月が
戸惑ったようにドアを見詰め
高遠を見上げた。


高遠は笑いかける。

「マサさんの声、
 聞こえたろう?

 今は大変そうだ。
 海斗さんは来られない。」



騒ぎは
駆け寄る足音に続く。

瑞月はドアをまた
見詰める。
カクンと傾ぐ頭は頼りない。





「……呼ばれたの、
 ほんとだよ。

 ……これかな?
 マサさん、
 誰か呼んでる……。」


ドアを見詰めて
瑞月は戸惑ったまま高遠の腕の中に
じっと動かなくなった。


そして、
その声は響いた。


〝綾様!〟


瑞月がピクンとする。
その眸がみるみる見開かれた。




伊東は開会前に言葉を交わしたばかり
そして、
高遠も耳に焼き付いていた。



伊東は静かに
一歩前に出た。
ドアはいつ開くともしれない。




 覚えているに違いない。
 西原の声と重なって
 耳に残っているだろう。



TTW高等学校ビル
朝の登校風景の中、
倒れた西原と
その手に足を捕まれた女。


 瑞月!
 走れ!!

 私は教員よ!
 こっちに来なさい!!


そう報告書に読んだ風景が
目に浮かぶ。



高遠は思い出す。
渋谷駅前の群衆を煽る黄色い帽子が
不吉に揺れた。



 ほら!
 この子
 鷲羽財団の子よ!
 テレビに出てたもの




高遠は
そっと
瑞月の背を擦った。





 そう
 きっとこれだ


そう感じながら
伊東は
二人を背に庇い
思う。


 先生、
 怯えてます
 まだ早い
 早かった……。



高遠は
優しく腕の中の瑞月に語りかける。




「マサさんは
 会場の人を呼んでるんだ。
 病人が出たみたいだからね。
 俺たちは役に立たない。
 むしろお邪魔だ。


 ……海斗さんの声、
 まだ聞こえる?」



瑞月の震える体が
ぴたり
止まった。



ん?
頭を上げる。

そして
じっと目を閉じた。





高遠は
みるみる羽を広げる蝶を抱く思いに
震えた。



瑞月は
静かに高遠の腕を抜け出す。
凛と仰ぐ顔は
澄み渡るように辺りを祓う威に輝いた。



「……うん
 聴こえる…………。

 感じるよ。」


そっと呟くと
瑞月は微笑む。




カチャリ……。


ドアが開いた。


ふわり
蝶は舞う。






「海斗…………。」

愛しい長の胸に収まり
巫はその名を囁く。



仄かな翠が
廊下に灯された。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。




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