この小品は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




ともかく
様々な手続きは必要なのだ。


気ままな独り暮らしのアパートに現れた弁護士は、
宣言した。



デリク・バートンは
重い腰を上げて汽車に乗り、
この小さな村に降り立った。



 ああ
 変わらないな……。




電報とは便利なもので、
駅舎を出ると
見覚えのある顔が
皺だけは増えて笑顔で帽子をとって
腰をかがめている。



運転手に劣らず
年をとった自動車が
ピカピカに磨かれて待っていた。



「ありがとう
 ちょっと歩きたいな。

 荷物を頼むよ。
 えっと……ロバート。」


「おお
 やっぱり覚えていてくださった。

 お久しぶりでございます。
 デリク様が引き継いでくださると聞き
 嬉しゅうございました。」


いそいそとトランクを受けとる様子では
それは満更嘘でもなさそうだ。




……でも、
なぜなんだろうな。
訝しく思うのは
この相続話の最初からのことだ。


「どうして、
 ぼくなんだろうね。

 もう二十年近く
 ぼくはここに来てもいなかったんだよ。

 君こそ、
 よく僕を覚えていたと
 びっくりするよ。」


ロバートは
思いきり微笑んだ。
ちょっと不思議なほど安らかな微笑みに
デリクはたじろぐ。



「あなた様しかいない。
 そういうことでございます。」



いや
従姉妹も従兄弟も
山ほどいる。

第一、
大叔母には実子が六人もいる。

どこを
どうつついて
僕しかいないんだ。




そう思うデリクに構わず、
ロバートは
確信ありげににこにこと頷く。


「きっと
 そう仰有るだろうと
 思っておりました。

 散歩には少々長くなりましょうが、
 今は本当に村も美しゅうございます。

 お部屋を整えてお待ちしております。
 お楽しみください。」



というわけで、
デリクは
運動不足を否めない日常を忘れ、
子どもの頃を過ごした避暑地の素朴な村を
歩き始めたのだ。



三角屋根に
こじんまりと小さな煉瓦の家々が
小川の流れる小路に続く。


その小川の水辺は緑に縁取られ
その緑に混じる紫の花たちが愛らしい。



広くもない村は
すぐに外れ
その先は
夏に賑わう別邸が点在する森の小路へと
繋がっていく。



目指す大叔母の館は
外れも外れ、
村を見下ろす丘の上にある。



森は続く。
別邸から別邸へ
この双六は
薔薇たちが揺れる豪奢な館を通るごとに
緑を深くしていく。



木下闇は
小川の向こうを仄暗く包む。




まるで
森の王国に迷い込んでいくようだ。
涼しさは増していき、
そのくせ
どこまで行っても緑に押し包まれていくような目眩にも似た感覚が
デリクをとらえていた。



 なんだか
 入ってはいけないような……。

 早く抜け出さなくては
 ここに囚われて
 出ていけなくなるぞ

 気を付けろ



そんな感想を
ふと
遊び半分
真面目半分
思い付いてしまう。

森は深く
丈高く生い茂る木々に
小路の先は見えない。




だいぶ歩いた。
そろそろ
大叔母の館が見えてくる気がする。
デリクは、
幼い頃の記憶が微かに戻ってくるのを感じた。



そろそろだ。
たしか……たしか
館が見えたのは…………。



辿る記憶に応えるように
それは現れた。




 あ……。
 この塀…………。



高い門に蔦は絡まる。
近付けば
見上げる高さから溢れ落ちる蔓薔薇の白。
門構えの厳めしさは客を寄せ付けないが、
溢れる薔薇の滝はただ見事だった。







上着を肩にかけ、
そろそろ汗ばんできた額を拭い、
デリクは塀を見上げる。




緑陰は
塀を左に続く。
この高い高い塀を抜けたとき、
左手に開ける広い広い野原に揺れるラベンダー。


その向こうの小高い丘に
目指す館はある。




そう思い出すと同時に
封印されたものが流れ出すように
どっと脳裏に浮かぶ幾つもの瞬間があった。




この木陰を母や姉、
従姉妹に従兄弟、
同じ名をもつ一行と連れ立ち
ピクニックに興じた。


夏の風が
爽やかに緑陰を吹き抜け、
小さかった自分が
従兄弟らと笑いながら駆けていく姿が浮かんだ。



 そうだ
 楽しかった……。



ここで過ごした夏が
その幻影に
一気に甦る。




それは、
もう、
十数年も前の子ども時代のことで、
毎夏の賑やかな休暇は
年に一度のお楽しみだった。




それが
いつからか
パタリと足が遠のいていた。


寄宿舎に入った頃は
もう
ここの夏は忘れていたのだから…………。
十二、三歳あたりだろうか。





   なぜだったかな……。



その最後の夏を思い出そうとすると、
頭がぼんやりと霞む。



ピピッ
小鳥が囀り
ザッと枝が揺れた。



はっ
我に返り、
デリクは改めて塀を見上げる。




足下を
剽軽なリスがぴょんぴょんと抜け
塀の前の木を駆け上がる。



梢の先は
高い塀の遥か上に揺れ、
リスは愛らしく前肢を揃えて
男を見下ろす。






大叔母は
この村に構えた別邸を
なぜか彼に遺した。


従兄弟も従姉妹も
それには驚いたようだが
拘りはないらしく鷹揚に受け入れた。



ただ、
さすがに捨てがたかったのだろう。
叔母の愛した絵画やら
愛くるしい東洋の人形やらは
館から引き揚げられた。




大した値打ちものだそうだが、
それを惜しいとは思わなかった。
デリク自身、
暮らしに不自由はない。




子ども心に
愛らしくも
館に似つかわしくも感じていた幾つかは
オークションでこっそり買い取った。



それは
ロンドンのアパートに
そっと飾ってある。





一族の変わり者である彼は、
高過ぎる美意識を
自分でももて余しているところがあった。




妻を娶ることが億劫で、
親の財に助けられ、
何不自由ない生活に甘え、
気付けば雑文など書きながら、
一人アパート暮らしをしてきた。




   不思議だな……。


男は思い返す。
駆けていく少年には
何の屈託もなかった。


自分は
腕白なやんちゃ坊主で
世界は空の向こうまで広がっていたのに……。





美に身を捧げる今が
デリクには心地よい。





陶磁器の人形は
夢見るように微笑む。

愛らしく
そして、
触れればひんやりとするもの。



絵画も
そうだ。
日差しの煌めきより
月光の冴えざえとした冷たさに
惹かれる。



 そうだな
 この
 妖精の世界に迷い込んだような感覚も
 心そそられる。



お気に入りの様々に囲まれたアパートを出て
ここまでやってきている自分が
どこか現実味がない。



 本当に
 なぜ
 断らなかったんだろう……。



〝あなた様しかいない。
 そういうことでございます〟


ロバートの言葉が
妙に引っ掛かった。




白い薔薇の滝が
さやさやと風に揺れる。

もう
一休みは終わりだろう。



デリクは、
森の終焉を告げる塀沿いの道を
また歩き出した。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。

☆諸般の事情で
 黒猫物語本編は
 書割から書き直してます。

 しかもこれ前編には主人公出演してないし……。



 書き直しの事情は聞かないでやってください。
 この……この指があかん。
 何回滑ってんだ。