この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






薄墨に
虚空は天に空を戴く。


流れる墨跡は
暗き流れに空をいろどり、
流れは刻々と闇を濃くする。


墨を流した闇。


小さな白い顔を残し
瑞月はその墨絵の中に掻き消されていく。



その顔は
もう
誰を見ているともない。
世にも美しい面が一つ、
ひそとも動かぬ岩を前に残った。


一つの岩陰が
闇にある。
それは、
先程の老人の座したところに
黒々と輪郭を刻んでいた。


松の幹は
黒き濃き墨に姿を変え
身をくねらせて縦横に幹と枝を伸ばしている。



黒き気は満ちた。



ひいいいいいいいいっ……。


闇を裂いた悲鳴が
悶絶して
ぱたりと途絶えた。



はっ……はぁ…………。
ううっ………………。


喘ぎが
それに続く。


そして、

嫋嫋と
啜り泣きが
間断なく始まった。



高まる声に
ねっとりと
闇は濃さを増し
沈殿していく。


そして、
その沈殿した闇に浮かぶ白い肢体が
折り曲げられ
磔けられ
無惨に開かれて震える。



岩を前に
面は
浮かんだまま
やや俯く。


表情のすべてを消した面は
その身を見舞う嵐を離れ
ただ白い。





高遠は、
唇を噛んだ。


心の臓に
爪が食い込んでいく。
ぐぐっと力が籠り
血が迸った。


己の体を裂く痛みを
こんなにも確かに感じながら
ただ
瑞月を襲うものを見つめていることが
信じられなかった。




 海斗さん……
 海斗さん…………


屋敷の洋館に響き渡る悲鳴に
階段を駆け上がった夜が
生々しく思い浮かぶ。




泣きむせぶその姿を
海斗が抱き締めていた。
壁に、
柱に、
己を打ち付けようとする瑞月を
海斗が抱き締めていた。



瑞月を揺り起こそうと飛び付こうとする拓也を
自分は止めた。
その無惨な夜のままに
瑞月を呼び戻すことが恐ろしかった。



だが、


その悪夢は、
今、
救う者もなく、
瑞月一人を闇に沈めていた。




そら恐ろしいまでに
それは美しく
無惨であればあるほどに
透き通っていった。



無限とも思える時が高遠の前を過ぎ、
白い体は
ついに
打ち伏せたまま動かなくなった。




ふうっと
ひどく明るいものが
そこに浮かんだ。



逞しい胸板
一筋一筋の筋肉が
その体に〝力〟を刻み上げている。
光が内から発している。

意志を表して結ばれた口元
閉じた瞼にまで
その内にある無垢な力は感じられる。



 ああ海斗さんだ……。

 

高遠の
空っぽになった胸に
ぽつん……と落ちていく理解があった。



 魂か……。


龍は
その眸を入れられて
雲に乗る……。


結ばれて生まれる命が
そこにあるのだ。



あっ
高遠は、
再び拳を握り締めた。



チロチロと
深紅の閃きが
高遠を
我に戻していた。


白い腹を
赤い舌を覗かせて這い上る
一匹の蛇。




その胸にとぐろをまき、
鎌首をもたげると、
ゆらゆらとその姿は霞んだ。



鱗の煌めきは
すうっと滑らかな鈍い光に
吸い込まれる。
弧は緩やかな山なりに落ち着く。


揺らめきは静まり、
一振りの剣が
そこに現れた。




横たわる白き体が
ゆらゆらと
吊り上げられるように
身を起こす。


剣は
その前に浮かび待ち受ける。
かっ
白き現し身は眸を見開いた。








面は
浮かぶ。
白く浮かぶ。
その額に朱を捺して、
白く俯く。



岩は
暗く沈み
巨木は暗闇にその根を張り巡らしていた。




その面に
瑞月はいるのか

その白き体に
瑞月はいるのか


高遠は
ただ二つある瑞月を見詰めていた。




画像はお借りしました。
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