この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





突如、
調光卓が消えた。
前に浮かぶのはびょうびょうと風吹き過ぎる虚空だ。


 風……。
 
それは、
瑞月の肩にある領布に見え、
自身の耳に聞こえた。



踏み出そうとして、
その足元に迷い、
高遠は確かめる。



足元は
半ばまでが消えている。
そして、
背中がひどく冷たい。


肩越しに目をやれば、
そこに頼もしいスタッフの笑顔が
見えた。
切り取られたその笑顔は動かない。


一人が
奈落へと向かうために
ドアを開けていこうとしている。
その手はノブにかかり、
その足は踏み出したまま床についていない。



 止まっている……。


背筋が凍る。
高遠は
再び前を向き直った。


瑞月がいた。
浮かぶように、
たゆたうように、
踏み出される緋の長袴が
その舞いの始まりを告げていた。




 調光卓が……ない。


高遠の前にあるべき現世の全ては
消えていた。




現世の明かりは
その虚空には届かぬらしい。

翡翠の灯りに抱かれて
そこに瑞月はあった。






現世を背に
高遠は
立ち尽くす。



びょうびょうと風は鳴る。


その足に力がこもった。
行かねば!
瑞月がそこにいる!


まさに踏み出そうとした一歩は
ぴたり
止まった。



危うい虚空を爪先に
時を止めた現世を背に
高遠は
優しい声を聞いていた。




「たけちゃん
 たけちゃん
 待っていてやっておくれ。

 わしもね。
 待っとる。

 いつもね
 待っとった。

 わしらは目なんじゃ。
 目はね、
 見るのが務めじゃよ。」


老人が
いつの間にか
横にポワンと浮かんでいた。




西原は
もう動き出すことを
迷わずに済んでいた。


握り締めた拳、
瑞月を害する者を凝視する眸、
スーツの肩が今にも突進していきたげに真っ直ぐに
その長身の背に向かっている。



ゆらり
長身の影が
舞い出した瑞月を迎えるかに
立ち上がった。


そこには、
既に、
客席もなく
ステージもない。


びゅびょうと鳴る風に
その髪を靡かせ
秦は歩み出す。






袖には
老人がいた。


そして、
翡翠の光輪を纏い
サスライトの円柱から踏み出す少年に
戸惑っていた。




「政五郎さん!」

声を殺して
作田は
政五郎を揺すろうとし……止まった。



触れたものが信じられず、
手を離し、
そして凝視する。



手が痺れた。


政五郎の体そのものが、
作田を拒むシールドに覆い尽くされているように、
作田を拒んだ。



政五郎の顔は
引き締まっている。
今、
まさに舞い出した少年を受けて
その眼差しは熱く、
そして、
舞台空間全体を視野に入れんと素早く動こうとしていた。



スタッフは
調光室に繋がるインカムを頭に
場内放送に繋がるマイクを前に片肘をついて
舞台を向いている。



作田は、
詰まりそうになる喉を開き、
息を吐いた。



 俺は動ける……。


そう思った瞬間、
作田は、
身構えた。



袖幕の前に、
長身の影が滑るように入ってきた。
その唇に見事な細工の横笛が
あてられている。







 ……舞台に!
 西原君は!?


秦が笛を鳴らしたことは、
西原の声に承知していた。


だが、
続く
〝引きずり出す!〟の声も
聞いていた。




作田は
初めて気づいた。


瑞月の姿に眩惑され、
ただ見つめていた間に、
世界は変容していたのだ。




秦は踏み出した。
ステージの木の床は
作田の足を確かに受け止め
代わりに消した。




作田は
目をぱちくりする。




ステージは
空っぽになっていた。


楽者もいない。
演者もいない。
たった今、
目の前を行き過ぎた男もいない。



虚しく落ちるサスライトの円柱だけが
床に
ぽっかりと白い輪を作っていた。



踏み込めば、
そこは静寂の中にあった。
花をいっぱいに生けられた甕から
ひらり……と花弁が散りかけていた。


作田は
もう
触れようとはしなかった。


そこにある命あるものなきもの全て
作田を拒んでいた。
凍り付く現世に
視る力を与えられた男は
一人残された。




 うーん
 一人か……。
 

床はあった。
だが、
作田の足に応える音はしない。

客席の眺めは
藤咲き誇る庭の再現とも見えた。





 どうしたもんかな
 秦もいない……。


どうやら、
この妖怪大戦争の戦士たちは
丸ごと消えてしまったようだ。

作田は
頭を掻いて
ステージを見回す。




 今
 何かが起きている。
 それは……妖怪大戦争の続きだ。
 間違いない。



己を招く藤たちの声はないか
作田は耳を澄ました。


じんじんと耳鳴りがするほどの静寂が
作田に応える。




 どうやら
 今度は
 俺はお呼びじゃないらしい……。


光の柱を見上げれば
サスライトが眩しい。
作田は
ほうっと吐息をつく。




 まあ
 残すんなら
 俺も止めといてくれたら
 助かったんだが……。


作田は
しばし見回して
踵を返し、
静かに袖に戻った。



相棒の老人は、
固まったままそこに待っていた。
その脇に戻り、
作田はどっかりと座り込んだ。




そして、
目を閉じる。


見つめて待つには、
なかなかストレスがかかる現世の有り様だった。





待つのなら
己も待つしかない。
ため息と共に
作田は覚悟を決めていた。



保護すると決めた少年は
いつしか育ち、
やたらに背ばかり伸びていた。



そして、
真面目くさって言うのだ。
〝生命よりもと思っています。〟





 相手は化け物だぞ
 まったく!

 誰彼構わず
 すぐに揉め事ばかり起こすのは
 悪い癖だ。 


そう毒づきながら
でも、
作田は、
分かっていた。


 ああ
 君は白だ。
 いつも
 いつも君は悪くなんかなかったさ。
 …………どうしようもなく不器用なだけだ。



そして、
今度ばかりは、
不器用のせいとも言えないらしい。




〝君を守りたい〟

それは、
大人の約束だった。




 今
 何かが起きている
 それを知ってる奴も
 こっちにいなきゃな……。

 ……でも、
 早く頼むぞ
 佐賀君。

 
 

ちりーん
鈴の音がした気がした。
にゃあん
猫の声が続いた気もした。


それは、
あくまでも遠い。



作田は
いつ来るともしれぬ瞬間に備え
静かな待ちに入った。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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