この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





学園の正門は
大きなアーチに飾られた。



陸上部が汗を流すグランドを
学校指定の濃紺のハーフパンツに
白の体育着の生徒たちが
椅子を抱えて渡っていく。




立ち並ぶテントでは
放送部らしき生徒が
マイクの音量を調節し
保健委員らしき生徒が
持ち込んだ包帯やら湿布薬やらを確認している。


点々と杭が打たれ
ロープが張り巡らされ、
保護者席が仕切られている。
もう保護者たちも
ポツポツと姿を見せ始めた。


受付も
これから忙しくなる。
保護者受付はクラスごとだ。
スポーツコースでは
大きな籠が後ろに用意されている。
お弁当入れだ。


「スポーツコース2年A組の高遠豪の母でございます。
 よろしくお願い致します。」


高遠夫妻は
正門に続く緑陰は
郊外にある学園の自然を残した部分だ。
スポーツを主体とする校風を思えば不思議だが、
学園は緑と花に溢れていた。


花の似合わぬスポーツ系男子校だが、
高遠の母、静子は、
そこが気に入っていた。


「あなた、
 わたし、
 今日は知りたいことが
 あるんですよ。」


「そうだな。
 まあ、
 今日わからなくても、
 いいんじゃないか?

 豪は豪らしくやっている。
 私はそれで満足だよ。」


高遠信は笑う。
一字決まりの名は、
祖父の代からの習慣だった。

仁、義、礼、智、信と
悩んだ末に
高遠信は〝豪〟を選んだ。


〝豪胆に
 信じるままに進む男であってほしい〟
そんな願いを籠めた名に
息子は恥じぬ生き方をしている。
高遠信は、
この四月からの息子に
そう感じていた。



林は風が抜けていく。
同時に
その向こうから
ブラスバンドの奏でるマーチやら
何か気合いを入れているらしい声やら
ざわめきが伝わってくる。



間もなく開会式の時間だった。



学活の時間に
グランドで記録会には、
副校長が現れての説教がついてきた。


が、
それは大きな問題ではない。
正負どちらも問題は別にあった。



良いことから行こう。
瑞月は副校長の顔をしっかり見て
〝すみませんでした〟
言えた。


大きな一歩は
瑞月が
閉ざしていた壁を取り払った。
とりあえず、
視線は動くようになった。


多少の騒がしさに殻を閉ざすことは
なくなった。
同時にA組の授業態度は
格段に良くなった。


副校長の手柄ではない。
瑞月が反応するようになったからだ。




教師の問いには
こう答える。


〝先生、
 ぼく
 聞こえませんでした。〟

小首を傾げて
鹿爪らしくだ。


ぴたり!
教室は静まり
教師はこう応じる。

「そうだね
 わたしも自分の声が聞こえなかったよ。」


そうして
教師は
問いを繰り返し、
瑞月は
ほっとしたように答える。

「先生、
 聞こえました。」





恐ろしく天然な反応だが、
それは、
一部を除き、
影響力をもった。


授業は静かになった。
プラスの変化と言える。

瑞月は
口を開くことは希だ。
それは変わらない。
だが、
聞こえていることは伝わり
必要に迫られれば
応えることもできる。


素晴らしいことだ。




では、
負の変化だ。



瑞月がアンカーを務めることは
その日の内に広まった。
そして、
瑞月が様々に反応することが
傷つけてやろう
脅してやろう
という動きを誘発した。



まず、
廊下で
わざわざぶつかってくる奴が
激増した。

今までいなかったわけではないが、
数が違う。




とりあえず
そいつらには
蹴躓いてもらったり
高遠がぶつかって
すまんすまん
わざとらしく謝ってやったりで凌いできたが
煩わしいことだった。




「どうして
 みんな
 転んじゃうの?」

瑞月が高遠を見上げ、


「B組の奴等、
 お前に……イテッ!」


用心棒のつもりで張り付くようになった保谷は
〝怪我させようとしてんだ〟
と言う前に
足を踏んづけられて
恨めしそうに高遠を見上げる。


そんな
休み時間が
続いた。




言葉は
始末におえなかった。



〝けっ
 フィギュアスケートのお嬢ちゃんがよっ〟
聞こえよがしに言う言葉は
瑞月の耳に届く。



それには、
高遠は無視を通した。





「たけちゃん……あれ、ぼくのこと?」

不安げに
高遠を見上げる瑞月に
高遠は言うのだ。


「面と向かって言えない言葉は
 聞こえなくてもいいんだ。
 気にするな。

 お前はスケート大好きだろう?」

「うん!」

「それでいい。
 俺もさ。
 誇りをもってる。
 俺たち少数民族だからな。
 色々あるさ。」

「言う奴は
 鈍足って決まってる。
 ほんと……イテッ
 高遠!」

そして、
保谷は足を踏んづけられて
高遠に噛み付く。



そんな二週間ほどを経て
各クラス、
応援旗も仕上がり、
応援団は演舞の練習を終え、
今日がやってきた。





観覧席も満席となった。
保護者はほぼ入場を終えたようだ。
そこここに見える制服姿は
高等部への進学を考える中学生だろう。
学園も満足する大入りの体育祭となった。



ブラスバンドの演奏に
ビシッと揃った演技としての入場行進。
開会式は始まり、
後は怒濤のスポーツ系男子校の体育祭へと
プログラムは雪崩れ込んだ。



準備運動を終えたら
まずは100メートル走だ。


瑞月が出走する。
大きな体がズラリと並ぶ中に
ちんまりと小さな瑞月を
応援席から眺めながら
高遠は気が気ではなかった。


とはいえ、
勝手に生徒がうろついては
競技は進行しない。


高遠は
動けないまま
ひたすら
目で追っていた。



100メートル出場者が
整列を終えた。



召集の位置には
強面で知られる野球部顧問が陣取っている。
瑞月の立ち位置が
その鬼瓦のすぐ側なことに
ようやく高遠は安堵のため息を洩らした。


「鬼瓦も
 役に立つぜ」

保谷がぼそっと呟く。



音楽が鳴り、
瑞月たちは入場し
100メートル走は始まった。



次だ!
瑞月が立ち上がるのが見えた。
そして、
そこに瑞月が立ち止まるのも見えた。


瑞月は
立ったまま
人形となって立ち尽くしていた。





「おいおい
 臭くないか?」

「ほんとほんと
 こりゃ
 津波のへどろの臭いだ」

スタートラインに向かう瑞月に
その言葉を囁いた二人は
今度は
いけたかだかに肩をそびやかした。


「何止まってんだ!
 棄権か!?
 体育は見学のお嬢ちゃんよう!」

ドスをきかせ、
嘲りを籠めた言葉が
今度は
聞こえよがしにわめかれる。



「橘!
 こっちだ!」

それを超える声が
ビシッと響いた。

決して怒鳴ってはいない。
だが、
その声には力があった。




瑞月は
ぼんやりとしていく頭で
その声を聞いていた。


景色が遠くなり
海の音が聞こえてくる中に
自分を呼ぶ声がした……?


ゆっくりと
瑞月の頭は動いた。






瑞月の顔が
導かれるように川上を向くのが見えた。
瑞月が立ち止まった瞬間
パッと立ち上がっていた高遠の拳が震える。





「瑞月!
 行けー!」


高遠は夢中で叫んだ。
その背に叫んだ。

「たちばなー!」

脇から保谷がわめく。




ガッ
ガッ
A組応援席は立ち上がる猛者たちで
溢れた。


〝橘!〟
〝橘!〟
のコールが
いつしか収斂していく。


たっちばな
たっちばな!
たっちばな!
たっちばな!!
……………………。




川上は
優しく瑞月に笑いかけていた。



ゆっくりと
その背を押されるように
前から引っ張られるように
瑞月が動き出す。




ふわふわと
頼りなく揺れる足元は
母を求めて歩いた黒い泥のようでもあり
母を置いて着いてしまった高台の固い土のようでもあった。




川上が
静かに迎える。


「橘、
 聞こえてるな。
 俺たちはお前のスターティングブロックだ。」

瑞月が
ゆっくりと川上を見上げる。

あっと
その眸に光が灯った。



「お前の最初の一歩、
 俺たちが支えてる。」


川上は
きっぱりと言い切り
瑞月は
こくんと頷いた。




「さっさと
 位置につけ!
 競技が止まってるんだぞ!」

空気を読まぬ出走担当の陸上部顧問が
苛立たしげに声を挟んだ。

川上は
それを無視して
瑞月の肩を抱いた。



「川上!
 聞こえてるのか!?」

顧問の声はヒートアップした。


川上は動じない。
静かに瑞月を
スタート地点につかせ、
振り向いた。


「出走妨害がありました。
 被災地に対する誹謗中傷です。」

川上の声は低く、
観客席に配慮したものだった。


顧問は
びくっとし
瑞月を振り返った。
被災による心的外傷ではないか
教師たちは橘瑞月にそういう認識があった。




「……走れるのか?」

今度は小声だ。


「はい」

川上も小声で応えた。



瑞月は
静かにスタートラインに着いていた。



川上が
位置につき、
ピストルを高々と掲げる。



A組の
傍迷惑なまでの大声が
ピタリと止まった。



ターーーーーーン!


川上のスターターピストルが
号砲を鳴らした。



行けーーーーーーーっ……!


高遠の声は
グラウンドを渡る。


瑞月へ

瑞月へ

瑞月へ


その声はA組の声を引き連れて
瑞月を抱いて走った。



観覧席がどよめく。



彼らは
翔りゆく白き魂を見ていた。


発光するかに眩しい白が
真一文字に
空を切り裂いていく。





う、うおおおおおおおっ


一瞬の戸惑い、
それを超えた後は、
喉も枯れよと声はうねりとなった。


拍手が
ゴール遥か手前から
沸き上がる。



出走の遅れは
みなの見るところのものだった。

華奢な肢体を震わせて
うつ向いていた少年を
観覧席の群衆は
微かな同情と
そのスポーツクラス在籍をいぶかしむ思いで
見つめていた。




それがどうだ。



頭を上げ、
大地を蹴って
少年は走った。



そのクラスは
きっと
あの少年たちなんだろう。

手を振り
足を踏み鳴らし
その華奢な背を押そうと
なりふり構わず叫んでいる。




少年は
ぶっちぎりでゴールテープを切った。



グラウンドに放送が響く。


「出走が遅れ
 失礼いたしました。
 
 このたびの震災を経て
 本校に転入してきた橘瑞月君です。
 まだ快復しきらぬ中ですが、
 競技に参加しています。
 温かな拍手を感謝します。」


パンパンパン…………。

しん
としたグラウンドに
力強い拍手が響き出した。

拍手は広がり、
瑞月はゴール地点に立ち尽くす。



「橘!

川上の声に
ん?
瑞月は振り向く。


パッと
出走担当の顧問に礼をし、
川上がグランドを走る。
いやはや、
それも見物には違いなかった。


思わず観客は拍手してしまう。
川上は
瑞月を一位の列に連れて行き座らせ、
ピシッと観客に向かい一礼して
また走り戻る。


笛が鳴り響き
放送が告げる。


「競技を再開します。」



終わってみれば
中断は
ほんの数分のことだった。
学園の体育祭は
ふたたび滞ることなく再開した。



先程
最初の拍手を力強く始めた夫婦が
観覧席の端に
ひっそりと佇みながら
そっと言葉を交わす。


「いつも
 お母様と一緒だったの。

 …………豪はよく話してたわ。
 とても綺麗で
 かわいくて
 気になってるみたいだった。

 お弁当、
 二人分って……橘君の分だったのね。」


「豪は豪だな。」

「ええ
 豪は豪なんだものね。」


そうして
二人は
くすりと笑い合う。



息子はとうぶん
家には戻りそうになかった。




遠目にも
息子の震える拳が
二人には見えていた。

少年を守るために
全身で備える息子が
いじらしかった。



「橘瑞月君か。」

「橘瑞月君……ちょっと心配。
 ほんとに綺麗な子ね。」

「気が早いな、母さん。
 そんな意味じゃないと思うよ。」

「もう!
 豪ときたら、
 ほんとに鈍くて
 いつ彼女を連れてきてくれるんだか。」

「まあ
 今はスケートがある。
 気長に構えていいんじゃないか?

 さあ
 次は豪の出る200メートルだ。
 応援しよう。」



よく晴れた空に
風は鳴る。

良い体育祭日和だった。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。


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