この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




草をかきわけると
その根元には黒々とした土が覗く。

 ああ父さん
 朝は水まきしてから出てるもんな

豪は
仕事に出ている父を思う。



晩夏とはいえ
猛暑は衰えない。
庭は夏草が生い茂っている。



額から
ポタポタと汗が落ちる。
ぐっと鎌に力を込めて豪は草を刈る。



「たける!
 ねぇ
 もう上がりにして。

 お母さん
 もうだいぶいいのよ。

 すぐに草取りくらい
 できるようになるわ。」


久しぶりに
豪は
自宅に戻っていた。


「平気だよ。
 寝ててくれなきゃ
 俺が困っちまう。

 すぐに終わるから
 大人しく待ってて。

 昼は冷やし中華でいい?
 俺が作るよ。」


母は
夏風邪をこじらせて
寝込んでいた。


 ごめん
 母さん……。

豪は
夕方には
寮に戻る。

そう決めていた。
だからこその〝ごめん〟だった。



口には出さない。
出したら、
寮に帰る気持ちが鈍りそうで
豪は唇を引き結んで
庭を埋め尽くす草に向かっていた。



めったに寝込むことのない母の窶れた顔は
豪の胸を締め付ける。



 本当は
 具合の悪い日も
 あったんだろうな……。


ザクッ……ぱさっ。

ザクッ……ぱさっ。


鎌はリズミカルに動き、
豪は思いを巡らす。



自宅の空気は
いつも変わらない。



母は
いつもにこにことしていて、
父は
何事にも落ち着いて答えをくれる。


それは、
こうして
家を離れて暮らすようになっても
変わらなかった。


変わらなかった……。
その変わりなさに甘えてきた自分が
豪を責めていた。




 母さん
 ほんとは
 寂しいんだ……。


少し頬の削げた顔に
パッと浮かんだ笑みが
そして
ふらつく母を支えた腕にかかる頼りない軽さが
母の寂しさを伝えて余りあった。




寮生活に入って以来
シーズンでなければ
毎週欠かさず帰宅していた豪は
この四月から月に一回ほどしか
顔を見せなくなっていた。
それも必ず日帰りだ。


豪は
必ず寮に帰っていった。




ぎらつく太陽を見上げ、
豪は
日盛りの中
草刈りを続けた。




ふうっ
縁側に座り込むと
待っていたように母が冷たい麦茶を
脇に置いた。


母の作る麦茶、
それも変わらない。



いや、
今起き出して作っておいたのか。
豪は
そっと台所を見るやるが
ひっそりと静まるそこからは
何も窺えない。




「ありがとう
 母さん

 でも
 寝ててよね。
 俺、
 少しは親孝行しなきゃならないんだからさ。

 寝てる母さんのとこに
 冷やし中華を運ぶ息子を
 やってみたかったんだ。」

豪は
おどけて
笑ってみせる。


「まあまあ
 楽しみね。

 夜は
 お父さんが
 作ってくれるというし、
 お母さんは幸せだわ。」


母は
夜はいるのかとは
尋ねない。


それが
また
豪を責める。



 母さん
 こんなに寂しいのに
 …………俺はどうして言えないんだ?
 今夜は泊まるよって…………。


「母さん……。
 俺…………。」


豪は言い差して
俯いた。


胸を満たす申し訳なさに
胸は疼いた。
これほどに疼いても
なお
泊まると言えない自分が許せなかった。


許せなくて涙が滲む。
泣いて済ませるのかと
また
胸は疼く。




そっと
頭に手がのせられた。
その手が優しく豪の髪を撫でる。



「豪、
 とっても
 しなきゃならないことが
 できたのね。」


優しいアルト、
聞き慣れた母の声が
少しあらたまって聞こえ
豪は
思わず母を見上げた。




ポロリ……。



隠していた涙が
頬を伝って
零れ落ちていった。



すると、
母の細い指先が
その涙を
つっと掬い取るのだ。




「母さん……。」

豪は
母を見上げて
初めて見る母の顔を見つめていた。




微笑んでいた。
いつも見ていた微笑みだ。
でも、
どこか
毅然としていて
何かが違う。



かつて
自転車で坂道を疾走して
気付いたら病院で目覚めたときの母の顔


抱き締められながら
安心して
泣けてきた幼い日が思い出された。



あのときは泣き顔だった。
母は
声を放って泣いていた。
母の泣き顔など
あのときしか見たことがない豪だった。



 母さんは
 今
 どうして
 泣かないの……?


ぼんやりと
そう感じながら
豪は
母の微笑みに包まれるように
その顔を見上げていた。




「豪、
 母さんを見て応えてね。

 あなたは
 どうしても帰らなくちゃならない。
 それは、
 とっても大事なことなんでしょう?」


慈しむ声に
優しい手は静かに髪を撫でている。
目の奥が熱をもち
言われたように母の顔を見ようとするのに
その顔が涙に滲んでしまう。


 いやあああああっ
 許して
 許して
 ………………。

瑞月の悲鳴が聞こえる。
抱き締めても
抱き締めても
暴れる瑞月を抱いて
豪は繰り返し囁いて夜を過ごしてきた。


 だいじょうぶ
 瑞月
 だいじょうぶだ

 だいじょうぶ
 だいじょうぶ 
 ………………


暴れて暴れて力尽きると
瑞月は
カチッ
とスイッチが切れたように
眠りにつく。




翌朝には
まるで覚えていない悪夢は
何をきっかけに瑞月を襲うともしれない。


 帰らなきゃ
 帰らなきゃ……ダメだ。
 ダメなんだ…………。
 でも…………。


「…………うん。
 ごめんなさい
 母さん
 ごめん
 ごめん
 ごめ…………。」


そっと母の指が
豪の唇を押さえた。

そうして
豪の頭は母の胸に抱かれた。



「謝らなくていいの。
 十分よ。


 豪は
 ほんとに豪ね。

 こんなに汗だくになって
 一生懸命草取りしてくれて
 お昼まで作ってくれるの?

 あなたは
 お父さんそっくり。
 優しい子だわ。

 だからね、
 あなたを待っていることが
 どんなに大事なことなのか
 あなたの涙で
 お母さんには分かる。

 ちゃんと分かります。

 頑張りなさい。
 しっかり頑張りなさい。
 お母さんは
 あなたが自慢よ。」


母の腕は細く
その胸に抱かれるといい匂いがした。
このまま
ここに
ととまっていたかった。


そこは優しい豪を待つ場所だった。





ふんわりと
儚く微笑む瑞月が浮かぶ。
帰る家もない。
いつも二人寄り添っていた母もいない。


 いやあああああっ
 ………………。


もしも
このまま
悪夢に拐われて
瑞月を奪われたら……。



そっと
豪の腕が
母の背に回る。


豪は
しっかりと母を抱き締めた。



「ありがとう
 母さん

 俺
 幸せです。」

しっかりと言い切ると
豪は
そっと体を離した。
涙は
もう消えていた。



13歳の幼い狼は
守る者を寮に残していた。


「じゃ、
 冷やし中華作るよ。

 一緒に食べよう。」

豪は
母に笑いかけた。


「はいはい
 じゃあ
 ちょっと横になってるわね。」

母は
ちょっと
くしゃっと顔を歪めかけ、
急いで立ち上がって居間を出ていった。



豪は
もう迷っている時間はなかった。
早朝、
そっと瑞月を起こして
夕方には戻るからと言い聞かせ
帰宅していた。



豪は
台所に立った。
幼い頃から
料理も洗濯も母を手伝ってきた。


小さな菜園から
草取りの仕上げに収穫してきたキュウリとトマトを
ボウルに入れて水道の蛇口を捻る。


ザアアアッ
小気味良く水は流れ
緑と赤の野菜は色を新たにする。


井戸水を引いた水道は
夏でも冷たく
心地よい。


母の麦茶も
水道の水も
何もかもが豪を切なくしていた。




くれぐれも寝ていてくれと
母に言いおいて
豪は
自宅を後にした。


13歳の狼の駅に向かう足取りは
少し重く始まり、
少しずつ速くなっていった。


〝がんばりなさい
 しっかり
 がんばりなさい〟

母の言葉に許されて
狼は
ひたすらに急いだ。



夏の宵は
暮れなずんで明るい。

寮のドアの音が
ガランとした建物に響き渡る。



盆に入り
さしものスポーツ名門校も
明日の土曜日を前に
練習を終えると
そのまま自宅へと戻る生徒が大半となっていた。



残っている寮生は
どこにいるのか
その気配もない。


誰もが帰宅していく今を
ホームシックに耐えているのだろうか。


高遠は
静かに階段を上がる。


そっとドアを開けると
二段ベッドの下に
小さな膨らみが見えた。


朝残してきたまま
そこに
瑞月はいた。



高遠は
ベッドの脇に座り込み
その寝顔を見つめた。


頬に
跡が残っていた。
流れ落ちた涙の跡を
高遠は
母に倣ってそっと指に辿った。






胸がキュンと締め付けられた。
愛する者の涙は
辛いものだ。
13歳の狼はそれを学んだ。


 母さん……
 俺
 頑張るよ

 ありがとう
 守らせてくれてありがとう

 俺
 瑞月も
 母さんも守れるくらい
 強くなる

 きっと
 いつか強くなるよ


母に守られる自分を感じながら
少年は思うのだ。

瑞月を守るのは
高遠しかいなかった。
それは
厳粛な事実として高遠の心に
改めて染み渡っていた。



ぽっかりと
瑞月の目が開いた。
そして、
高遠を映す。


「たけちゃん!」

細い腕が
高遠にしがみつく。


「ただいま
 瑞月」


食べているよう言い聞かせて出たが
それは
できていないようだった。


仕方ない。
瑞月が一人で食堂に行けるとは思えなかった。
また、
連れて行っても
食べるとは限らない食の細さだ。


「さあ
 夕食は
 一緒に食べよう。

 お腹空いたろう?」

高遠は
その背を撫でながら
優しく囁く。


母の背を抱き締めたのとは
また違う思いだった。
守りたい!
似ていた。


でも違う。


胸に灯る温かさは変わらない。
だが、
仄かな甘さを伴う痛みがあった。


その痛みは
甘く切なかった。


ようやく斜陽が赤みを帯びて
部屋を染めていた。
夕闇迫る部屋で
高遠は
その痛みを静かに感じていた。


夏は既に盛りを過ぎて
秋は間もなく
やってこようとしていた。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。


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