この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




そっと掛布を持ち上げてみると、
少年は
いつの間にか寝入っている。


呼吸する。
ただそれだけに全身の力を使い果たした夜を経て
少年は弱っている。
それは確かなことだった。





少年の側を離れるつもりはなかった。
しばし
どう過ごすかを考え、
佐賀は
そっと寝室を抜け、
昨日目を通していた少年の教科書を
取ってきた。




通信制課程を履修させる。
どの程度
学習が進んでいるのか
昨日はそれを確かめていたところだった。




改めて
何冊かを運び込み
それを開いてみる。






成績表からして、
一年生の学習はしっかり終えているのは
分かっていた。



どちらかと言うと
佐賀が
高校生とはどんな学習をするものか、
一年生では何を学んだのか
それを確かめるための作業だった。


佐賀は書庫の中で学んだ。
切れ切れに並ぶ数学に戸惑い
英語の教科書に並ぶ文法の解説に戸惑う。


いつしか内容より
その書き込みに心を奪われていた。



一年生の教科書は
読み込まれていた。
折り目がつき、
あちこちに書き込みがある。

小さな丸っこい文字だった。
可愛い字を書くものだ。
そう思った。




そして、
それを見つけた。



〝がんばれ瑞月〟



その書き込みは、
日本史の教科書にあった。
暗記を命じられたページらしい。
ラインに赤く縁取られた表の脇に
励ますように大きく書かれていた。





見比べるまでもなく
字体が違う。
濃く、
やや太く、
字画がしっかりと意思を示す文字。


パラパラと
その字を求めて教科書を繰る。


あった。
ところどころ、
書き込みはこの字体でされている。



よく見ると
傍線の引き方も違う。
筆圧と入りが、そして止めが違う。



同級生か……。



佐賀はしばしその文字を見つめ
パタンと
教科書を閉じた。




少年を見やる。



少年は
スースーと
小さな寝息を立てている。


寝かせておきたい一日は、
まだ長い。
佐賀は
静かにその寝息を測る。



ステロイド剤は
今日も投与した。
血管は狭められ気道は確保される。


それは
もう三日分
薬局で受け取っていた。




発作は収まり
快復の時間を迎えた。
佐賀は一週間を見据える。



少年の髪が
額にかかっている。
それをかきやりながら
気づいた。





瑞々しく花が薫っていた。
甘くもありながら
心をとらえる涼やかな香が漂う。



ふと思い付き、
少年の寝顔にまた顔を寄せる。




少年だった。




昨日来、
その体はしとどに汗に濡れた。
喘いでは咳き込み
体を震わせ
少年はその身を濡らせた。




着替えさせ、
タオルで拭いてやることができたのも、
ぐったりと意識のない間のことだ。



幸い
少年は
気づいていないようだ。
いつの間にかパジャマになっている。
それは少年にはよくあることだったのかもしれない。




〝瑞月
 頑張れ〟

この子を支えるものは別にいる。
いや……、
いた。



佐賀は閉じた教科書に
また目をやる。
それは応えない。





花の香に薫る少年は、
静かに横たわる。



シャワーを浴びたいだろうか。
体を拭いてやることはできるだろうか。
そう考えると
先程の少年の固さが思い出される。



佐賀は
少年がそれを己に許すかが
気になっていた。



だからといって、
着替えさせたことを後悔はしない。
必要だった。




胸の音に耳を澄まし
その呼吸に陰りはないか気を配りながら
少年の下着を取り去り、
新しいそれを着せた。



袖を通す腕は
ただただ華奢だった。

胸から腹の肌の白さが痛々しかった。
目を逸らしても目に入るそれを
自らの目からも隠すように
そっと身頃で覆った。




ほう
ため息をつき、
佐賀は部屋を出た。



夕食の準備をしなければならない。
また、
いくばくかの買い物もある。



少年の側を離れることができるのは、
そう長い時間ではない。
次に目覚めるまで
二時間あるだろうか。






しん
静まる寝室に
少年は目を開けた。



 …………いない


まず
そう思う。





部屋が
ひどく広く感じる。



 おどろいた
 いきなり抱っこされる。
 ……いつも
 いつもなんだもの……。


少年は、
佐賀という新しい保護者を
思う。






少年は
自分の考えで
何かが決まる経験がなかった。

中学校一年で
天涯孤独となって以来、
美しいお人形は
ただ
手から手へと渡されてきた。





少年にかけられる言葉は
いつも同じだ。

〝君のためだ〟




二回の経験で
何回も聞いた。




寄宿舎に入るんだよ
のとき

カナダに行くんだよ
のとき

スーツを着た人に
白衣を着た人に
歯を剥き出しにした作り笑いで
繰り返し言われた。


〝君のためだ〟





一人残されたとき、
少年の引き取り先が
施設とならなかったのは、
名ばかりの親族がいたからで、
学校という場所が選ばれたのは
寄宿舎があったからだ。


そして、
その見映えの良い手段が取れたのは
スケートがあったからだ。





スケートは、
少年に責任ある大人たちには
厄介払いするための建前にちょうどよかった。



〝君のためだ。
 スケートができるんだよ。
 よかったね。
 私も嬉しいよ。〟


だから、
少年は答えてきた。

〝はい
 ありがとうございます〟





そして、
その大人たちは
消えていく。


少年を庇護することを欲する人間はいない。
少年はそれを知っていた。





それでいながら、
なかなか終わらない。
それも不思議だった。


 だあれも
 ぼくなんか欲しくない
 ぼくも
 ぼくなんか欲しくない
 どうして
 終わんないのかな……。



ごそっと喪われた記憶の向こうに
微かに残る優しい声は
もう消えていた。





いなくなってしまう
それも
少年には自然なことだった。


消えてしまったものは
どうしようもない。






そして、
佐賀だった。




少年は今を思う。




 あの人も
 仕方ないから
 やってるんだよね。

 スクールの人だもの……。



少年は
そう思ってみる。


クスリ
小さく笑ってもみた。




「あっ……」

小さく声が洩れた。
思わず
手が口を覆う。




ズキン!
胸が痛くなったのだ。




それは、
刺すような痛みだった。
本当に
自分の笑い声がナイフになって
胸を刺していた。




ズキンズキン!
痛みが増していく。






その痛みが
押さえ切れなくなると
目の奥が熱くなった。


熱い塊が
胸の底から湧いてきて
流れ出す。


 痛い……
 痛い……


痛みが少年に教えていた。
その痛みは佐賀が与えたものだと。



佐賀がいることが
撥ね付けたいほどに苦しく、
すがりたいほどに切なかった。











音を立てずに
ドアを開ける。


もう目覚めているかもしれぬ。
そう覚悟して開けた部屋に
小さな啜り泣きが
聞こえた。



もう一度
ドアを閉めるべきか迷った。



佐賀は
しばし考え
そっと滑り込んだ。





ベッドに近づくと
掛布から覗く啜り泣きに震える肩が
痛々しい。




どうしよう



触れてよいものか
散々考えたばかりだ。

佐賀は
書き込みの主を
また思った。




その主ならば
触れてもよいのだろう。
だが、
佐賀はどうなのか。

狼は
小さな生き物を愛しむ術を
知らなかった。





時間が流れる。
啜り泣きは続く。




佐賀は動き出す。




そっと
掛布の膨らみに体を添わせた。




ビクン!
膨らみが跳ね起きようと動く。



そっと
その膨らみを押さえ、
佐賀の腕が包み込む。



「だいじょうぶ
 もう
 よくなる。

 だいじょうぶだ。」


佐賀は
低く囁き、
その膨らみを優しく擦る。







突然、
背に男の体があった。
反射的に逃れようとすると
押さえられた。


ああっ
覚悟すると
声が降ってきた。



佐賀だった。



そっと
腕のあたりを擦られる。



 佐賀さんだ……
 佐賀さんだ……
 佐賀さんだ……



涙は
びっくりして
引っ込んでしまった。




佐賀は
いつも突然踏み込んでくる。







少年は
じっとする。



擦られる腕が
教えてくれる。


 いる
 この人いる
 ここにいる





消えていかない大人は
初めてだった。


狼みたいな大人も
初めてだった。


少年はドキドキした。
初めてが
少年をドキドキさせていた。



綺麗で強い狼に抱かれて
少年はドキドキしていた。



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