この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





夜が明けようとしていた。
白々と室内は明るみ、
少年の顔が仄白く浮かぶ。



少年は救急病棟の二階に移され
喧騒は遠くなっていた。



小さな体は
呼吸を強いられ
気管支をこじ開けられ
力なくベッドに横たわる。





発作が収まり次第、
退院となる。
夜の内に
そう伝えられていた。


後は
どこまでステロイドを投与したら
少年が白旗を上げるかだ。
そう長くはない。
強い薬なのだ。



明け方になり、
酸素テントは取り払われ
マスクは外された。




酸素濃度は80まで戻ってきていた。



近々と見る。
唇が乾いている。
佐賀は立ち上がる。

タオルを絞り
ベッドサイドに戻ると、
そっと顔に当てた。



「…………。」

小さく唇が動く。



吸い飲みを取り上げ
その唇に差し込む。
コクン……と喉が鳴った。



ケホケホと少年は咳き込み、
佐賀は唇から零れる水にタオルをあてる。



うっすらと開かれていく瞼を
佐賀は見つめる。



「だいじょうぶだ。

 すぐに楽になる。」


この病院に駆け込むまで、
抱いた腕の中に
助手席に丸まる小さな体に
かけ続けた言葉を
佐賀は
静かに少年にかけた。


少年を抱いて
救急病棟の廊下を走った。
そのときの思いが
甦る。


もう
このまま
この手から失われてしまうのではないか。


 もうだいじょうぶ
 だいじょうぶだ

深い安堵が
佐賀を包んでいた。



また唇が動いた。
佐賀は
聞いてやりたくて身を屈めた。




「まだ……だめ?


佐賀は
その顔を覗きこむ。

少年は眸を透き通らせて
ぼんやりと
天井を見上げていた。




「…………どうした?」

佐賀はそっと尋ねる。



「もう…………いいかと思った」

少年は呟く。




佐賀は
自分の心臓が冷たくなっていくのを
感じた。
少年が
ゆっくりと佐賀の顔へと視線を移す。



少年はまばたきする。
ああ……と微かな失望と諦念が見えた。


「佐賀さん……」

少年は
今の保護者に気づいた。





「苦しいか?」

佐賀は尋ねる。


「もうだいじょうぶです。」

少年は応えた。




佐賀は点滴のパックを見上げた。
残り時間は一時間足らずというところだった。





退院の手続きはすぐに済んだ。
部屋に戻ると
もう点滴は外され
ジャージ姿の少年がベッドに腰掛けていた。



「帰るぞ」

抱き上げると
少年は素直に手を佐賀の首に回した。
少年を抱いて
佐賀は病室を出た。





車に乗せて
アパートに向かう。
少年は口を開かなかった。
助手席にひっそりと
美しい人形が置かれていた。




街は目覚めて
人の往来が賑やかに始まっていた。



スクールバスから
子供達が
笑いながら下りていた。


横断歩道を
スーツ姿の男女が
颯爽と渡っていく。


みんな
ぞれぞれの人生があるのだ。
それぞれの今日があり、
明日がある。




その人々の姿が
佐賀には
ひどく遠いものに感じられた。




少年は
明日を思ってなどいない。
もう
それは確信していた。

そして、
佐賀自身も
これまで
明日を思ってなどいなかった。
そう気づかされていた。



明日を思い
今日を生きる人々の中で
佐賀は
羊の群れの中の狼のように孤独だった。


佐賀は明日を思っていた。
だからといって
外を行く人々と分かち合うものが
できたわけではない。



切ないほどに
これからの1週間を思う佐賀には
その時間が余りに重かった。





少年を寝かせ
スクールは休むことを告げた。
聞こえているのかいないのか
少年は目を閉じた。



佐賀は
そのまま少年を見つめ続けた。



天使は天に帰ろうとして
阻まれた。
その絶望が
また少年を人形に戻していた。




透き通る眸は
天国を見上げていたのだろうか。
そこに戻る翼をもがれた天使は
もう一つの手段に期待したのだろう。




佐賀は
椅子に座ったまま
幻を見た。




目の前を濁流が流れていく。
道子の黒髪が
深い水底に広がる。


〝狼さん
 もう寂しくないわ

 わたし
 あなたを
 一人にしたりしない〟






生きたいと思わなくても
人生は終わらない。



朝は来て
一日は始まる。


興味なくとも
食べなければ腹は減る。
夜になれば眠くなる。


佐賀は
もう
それを学んでいた。




手に触れて温かく
心が満たされる。


先を思って
今を働き
ささやかな夢を育てる。



そんな短い日々は
ただ一本の知らせで断ち切られた。
道子はいない。
どこにもいなくなった。



佐賀は
少年に目を戻した。



額にかかる前髪は絹糸
その肌は白磁
唇には紅が差され
瞼には仄かな青みが差され
その顔は
精巧に造り上げられた細工物のようだった。


天使は
感情がないのだろうか。




いや
少なくとも
ここを去りたいと願う心がある。




5年の時を巻き戻すと、
そこに
小さな男の子が立っていた。


あどけない顔は
今より少しだけ頬のラインが幼い。
唇はふっくらとし、
そして震えている。



高台に寄り添う人々の中に
少年は
ただ一人いる。





そうだな
道子
一人はつらいものだ。




もぎ取られたものは
ぽっかりと
穴を空ける。

冷気は体を凍えさせ
剥き出しの皮膚はぴりぴりと痛い。



〝まだ……ダメ?
 もう………いいかと思った〟



誰に聞いていたのだろう。
もういいよ
誰かに言ってもらうのを
少年はただ待っていたのだろうか。




造りものではない。
その小さな頭は
一生懸命望んでいた。

〝もう
 いいよね

 もう
 いいよね〟





佐賀は
少年の髪に手をやる。
静かに撫で始めた。


そうしたかった。
ただそうしていたかった。



イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。




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