この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





キシッ……。


少年の教科書に目を通していた佐賀は
ソファーが微かに軋む音を聞いた。


コン……コンコンッ……。


それは
乾いた咳に繋がり、
立ち上がった佐賀の見たものは
えびのように身を丸めた少年だった。


見る間に
事態は深刻となった。


細い指が背もたれの布に食い込み、
その関節は白く浮き上がる。
その腕に体はずり上がり
堰を切ったように
咳が激しくなる。


飛び付いて
ソファーからひきはがすと
その指は佐賀のシャツを掴む。
胸に抱いた体は強張り
ヒュー……ヒュー……とその小さな体は
鞴のように鳴っている。



「クスリ……バッグ…………」

掠れた小さな声が訴え
佐賀はバッグを引き寄せジッパーを乱暴に引き開けた。



小さな吸入器を見つけ
少年の口元に寄せる。
すぐに
小さな手がそれを掴み
口にくわえた。

シュッ

音がし
小さな肩が揺れる。



「お水……」

次の声に
そっとソファーに少年をもたれさせ
キッチンへと走り、
佐賀はミネラルウォーターのボトルとコップをもって戻る。



抱き寄せた体は
強張ったまま
背を丸め
その呼吸は一回一回が肩を揺らしていた。


コップをもたせ
その手を支え
水を取らせる。

咳とともに
口からこぼれる水を拭き取り
必死に痰を出そうと震える背をさする。




 喘息だ……。
 気づくべきだった。



わずかばかりの少年のデータにあった
喘息の文字が
佐賀を責めるように浮かぶ。


咳すらも間遠になっていく気道の狭窄から
吸入の効果は感じられなかった。



様々な要因はあるだろうが
そこに疲労が重なって
症状は重くなっているのかもしれない。
佐賀は少年を抱え上げた。






リンクに程近い病院は
総合病院であると共に救急医療の充実で知られていた。

飛び込んだ佐賀の腕から少年は引き取られ、
見る間に酸素カーテンやら
マスクやら
点滴台やらに囲まれていく。




佐賀は
悪い夢を見る思いで
それを眺めていた。



どれもが
少年を生かすための器材であるのに、
それが少年を苦しめているように
感じられた。


マスクは小さな顔を
ほとんど覆い尽くしている。
シューッ
シューッと洩れる音が
発作の重さを告げて
重苦しい。


酸素テントは閉じられ
薄ぼんやりと
小さい小さい体が遠くなる。


望んでいない
この子は、
望んでいない。


そう感じられてならなかった。




スタッフが
点滴に薬剤を注入する。


「かなり強い薬よ
    発作の兆しはなかった?
    咳とか微熱とか」

ナンシーは救急病棟玄関で待ち受け
合流した。
ナンシーの先導があって
佐賀はここまで
少年を抱いたまま運ぶことができた。


病院にナンシーが現れるのは、
異例だった。

連絡はした。
だが、
これは想定していなかった。





「留守にしていいんですか?」

佐賀は
蒼白の小さな顔を見詰めながら
暗に帰校を促した。






「兆しは?」

ナンシーは
気にもしない。
問いを重ねる。


「特に何も。
    突然でした。

    ……あとは私がいます。
    戻ってください。」



少年を独占したいのかもしれない。
そう省みて
ナンシーに任せることを思わないわけでもない。

少年の発作は
余りにも重かったから。


「それは、
     こちらのセリフよ。
     ここは大丈夫。
     スクールに行って。

     あなたが専属なのは事実だけど、
     頼りにされてるのも事実なの。
     あなたの目があるだけで
     安心ってこともある。

     リンクに入って。」


「目を離せる状態ではない。
    いてやります。」

「私が来たのよ。」

「俺がいます。」

「……専属さん、
 出番を
 間違ってるわよ。
 今は医療チームの出番
    言ったでしょ。
    この子はスクールが引き受けたのよ。
    指導は組織であたる。
 これ一人芝居じゃないんだから。」


ナンシーは
筋が通っている。
が、
佐賀はそれを受け入れるわけにはいかない。



「今日は休ませる。
 そう連絡しましたが?」

「ええ
 生活補佐を務めている
 専属トレーナーからね。

 佐賀、
 あなた、
 通訳も兼ねてるから
 任されてる部分も多いけれど、
 これで3日もコーチからあの子を取り上げてる。

 あなたが呼ぶ。
 あの子があなたに滑り寄る。
 で、
 さよなら。

 怪しまれてるわよ。」

「何をです?」

「振付も始められない。
 曲を選んでいるようでもない。
 一時間も遅れて連れてきて
 一時間もしないで連れて帰る。

 ……ちゃんと伝えてるんだろうか?
 今何をする時期かをってね。」


佐賀は黙り込む。
少年の状態は
説明できるものではなかった。


スタッフが
二人に目をやり、
手で退出を合図した。



どさくさに紛れて
運び込んだまま治療室に居座っていた付き添い二人は
廊下に出された。


病院は
誰が付き添いで残るかに
興味はない。



救急病棟の白い壁は中立だった。


廊下は
忙しなく往来する白衣と青衣のスタッフと
椅子に項垂れて座る付き添いで
人影は多い。


だが、
スタッフは進行方向から視線を逸らすことはないし、
付き添いらしき一群は
一斉に顔を上げた後、
失望したように、
また項垂れる。


ザワザワとざわめきながらも
救急病棟にいる人間は
それぞれが緊急事態の中にいた。


ざわめく無関心の中で、
二人は
尋常に向き合った。



ナンシーが切り出す。

「白状しなさい。
 まるであなただけの宝物みたいよ。
 ついでに
 アスリートの卵の扱いじゃないわ。
 療養所の患者みたい。
 ほら
 吐いちゃいなさい。」


ナンシーは
促す。




「…………発作を起こしました。
   環境が大きく変わったのです。
 疲労も回復していないし、
 まだ運動をさせる時期でもない。
    そう考えています。」



発作は建前としては
役に立つ。
佐賀はナンシーの専門性に働きかける。



「何の疲労?」

ナンシーは突っ込む。

体の疲労を言い立てるには
そもそも練習時間が
余りに短い。



「……わかりません。
 でも無理をしている。
 それは
 分かります。」

佐賀は応えた。
それが精一杯だった。


ナンシーは
佐賀を見詰め、
ちょっと悲しげに微笑んだ。



「あのね、
 天使ってとこが
 そもそも難しいかな。
    あの子は、
 ここで生きてくようにはできてない。
    無理をしてるのは、
    佐賀よ。
    あの子じゃないわ。

 さてと
    行くわよ。」

ナンシーは、
大きく伸びをし、
佐賀の肩を叩いた。



「何です?」

佐賀は
ついて歩き出しながら
尋ねた。



「精神科に挨拶に行くのよ。
    あ、
    通訳はいらないわよ。
 この病院の通訳についてもらうから。

 カウンセリングからだわね。」


ナンシーは、
医療責任者として
決定事項を伝達した。


佐賀は立ち止まる。

ナンシーが振り返った。



「止めてください。」

佐賀は低く囁いた。


「吐いたらね。」

ナンシーは揺らがない。




救急病棟のスタッフの往来は
繁くある。
沈黙の対峙は限界があった。


佐賀は
ナンシーに身を寄せた。


「入院していたそうです。
    だが、
    なぜ入院したかを
    本人は覚えていません。

    そして、
    …………他人の介入を嫌います。
    生きるために必要なことのためにも
    他人の手助けを拒みます。
    まるで
    このまま死んでしまいのかと感じます。」
  


佐賀は、
言い終えて、
そっと身を離した。


ナンシーは、
真面目な顔をしていた。




「わかった。
 何が欲しい?」

「時間です。
    あの子と俺に時間をください。」



スクールの医療スタッフであるナンシーは、
少年の保護者を励ますように
ふふっ
と笑った。


「言語環境の変化に対するストレスで
   気候の変化に激烈に反応したらしい。
   ついては、
   ……そうね、
   1週間?
    退院して1週間かな?」

「ありがとうございます。」

「じゃ、
    頑張ってね。

    私は戻るから。」



佐賀は、
頭を下げた。


「日本人ね、佐賀。
    感謝なんか要らないわ。

   あなたがあなたを追い詰める手伝いをするようなもんよ。

   あの子と二人の1週間、
   パンドラの匣ね。
   山ほど絶望が詰まってる。
   最後の希望は……あるかどうかも分からない。」


ナンシーは、
少し、
迷うように小首を傾げる。


「まだ指導者に戻れるわ。
    一緒に精神科に駆け込むの。
   より専門性の高い支援を受けること、
   指導の鉄則よ。」


佐賀は、
表情の変わらない男だった。
ただ、
もう一度、
深く頭を下げた。



「まず、
    誰かが、
    守ってくれるんだ
    と 
    思わせてやりたい。

    俺は、
    その誰かになります。
    支援はその後です。」


そして、
佐賀は踵を返す。



少年のいる治療室へ
佐賀は滑り込んでいった。



ナンシーは
しばらく待った。


   出て来ないわね……。


佐賀の姿が浮かぶ。


壁を背に
ひっそりと
彼は立っているのだろう。

傷ついた天使を
拾ってしまった男は
その天使だけを見詰める。


   だから、
   指導者と保護者は
   別種の生き物だって言ったげたのにね



バン!
一つ向こうのドアが開き、
ストレッチャーが飛び出してきた。

俯いていた付き添いらしき一群が
跳ねるように立ち上がる。



小さな男の子が乗せられたストレッチャーと
白衣と青衣のスタッフ、
血相の変わった付き添いたちが
走るように廊下を進み、
また別の部屋に吸い込まれていく。



救急病棟の廊下は、
また
ザワザワと無関心に包まれた。


ナンシーは
ため息をついて
歩き出す。


さしたる嘘があるわけではない。 
そう思った。



    そうね、
    あなたに時間をあげるわ


ナンシーは
スクールへと戻っていった。


イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。



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