この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





送っていき、
車からエレベーターに入るのを
見届ける。



自分にできることは
それだけで
しなければならないことも
それだけだ。


だが、
そう思ったとき、
佐賀は口を開いていた。



「橘
    なぜ一時間なんだ?」


少年はピタッと動きを止めた。



ハンドルにかかる手は
ごく自然だ。
佐賀は心中を悟らせることに慣れていない。




「体力がない。
    だから練習できない。
    なぜ隠す?」



佐賀の中で錠は外れた。
そして、
外れて自分の口から溢れる言葉に驚いてもいた。
だが、
それは少年には分からなかったろう。
佐賀は表情の変わらぬ男だった。




少年は答えず
じっと身を縮めるようにしている。



佐賀は
後部座席を振り返ることは
しなかった。
そよとも動かぬ少年の気配を身に染み込ませながら 
自分も動かなかった。




「……隠すつもりはないです。
   鍛えます。」

それは
後半にクスッと笑いを含んでいた。

ガチャッ
ドアが開き、
同時に佐賀の声はとんだ。



「また倒れるぞ。」



車内灯は徒に点り、
ドアは開いたままで時間は過ぎる。

運転席から
佐賀は
ルームミラーを見つめた。



駐車場の薄暗がりの中で
車内灯の明かりは真上から落ちる。
少年の顔はその影を背けられた頬に刻み
その眸はミラーには映らない。



「気をつけます。」

固い早口の響きが車内を凍りつかせ、
語尾は駐車場へと消えていく。

少年は
その一言を残し
押し開いたドアから滑り出ていた。




「心配している。」



少年は
びくっと立ち止まった。
その声が前方から飛んできたからだ。

だらりと腕は下げられ
静かにそこに佇む長身の影があった。





まるで
ずっとその場で待っていたかのように
その姿勢には余裕がある。


ピタリ
少年の動きは止まった。





向き合えば
佐賀の背の高さは圧力ですらある。
静かに
静かにと
佐賀は念じる。
 



ほんの数秒ほど
対峙した二人は動かなかった。




そして、

「ありがとうございます。」

優等生の微笑みが
佐賀に向かって
お行儀よく返された。





しっかり振る舞えば
他人に勝手をさせずに済む。
そう学んだ新入生は
手強かった。




佐賀は
踏み込んだ自分が正しいのか
分からない。

分かっていることは一つだった。

少年にとって
踏み込まれることは
傷つくことなのだ。
傷つけると分かっていてなお自分は踏み込むのか。



そう思うと
胸はちぎれそうに痛んだ。
だが、
どうにもできなかった。

佐賀は分からない。
そして
分からないことが苦しかった。


分からないと待つことが
逃げであると感じるほどに苦しかった。






「心配している。」


佐賀は
自身の頑固さに半ば呆れながら
少年が許した境界線
駐車場までの送り迎えの場で
少年の前に立ち塞がる。




消え残った微笑みは
わずかに唇の端を震わせて歪んだ。



「…………なぜ?」

チクチクと
棘を含んで
声もまた震えていた。




「君が無理をしているからだ。」

佐賀は
口にして改めて
それを確信していることに
気付いた。


少年が
感情を覗かせた。
それがさらに確信を強める。




「ぼくは
    スケートをするから
    ここにいられます。
    無理かどうかは問題ではないのでは?
    コントロールすればよいことです。
    してきたつもりです。」

そのコントロールは
佐賀が
強いたことだ。



それを告げなければ違う流れも
あったかもしれなかった。
告げた責任はある。
少年の逆襲に佐賀は冷静になっていく自分を
感じていた。


冷静にならなければ
少年を抱いて
着地することは叶わない。


佐賀の眸は動かない。
岩にも似て
流れに揺らがぬものでいてやらねばならなかった。




「そうだな。
    だが足りない。
    君は自分の状態を
    指導チームに伝える義務がある。
    まず俺にだ。」


少年が薄く笑い
佐賀を見返して……笑いを消した。
佐賀は笑っていなかった。



「……何を隠している?」

隠していることを前提に
佐賀は小揺るぎもしない。

佐賀は
一歩も近づきはしなかった。
それでいて、
その腕に少年を抱いているかのように
その眸は深かった。



見詰める眸に甘えて
脇をすり抜けることを模索するように
少年はエレベーターを窺う。




「……逃げるか?」

佐賀は投げ掛ける。


逃げ出そうとする少年が哀れで
愛しかった。
逃がしてやりたくもあり、
そして止まってほしかった。



え?
戻った視線に応え
佐賀は動かない。


動かなかった。




「技量はある。
 練習はかなり積んできただろう。
 その練習に耐えてきたなら
 30分もたずに倒れたことは不自然だ。

    つまり、
    君が練習するのは久しぶりだ。」



少年は
じっと佐賀を見詰める。



その首がカクンと傾いだ。



まるでほっとしたように
その眸が明るみ
透き通っていく。




佐賀は
静かに少年に近づく。



そっと肩に手を回し
抱き寄せる。
少年は
逃げなかった。

誰もいない駐車場に
二人は静かに寄り添って立った。






「入院してた……。」

ポツン
と声が洩れた。
甘い声だった。



「怪我か?」

佐賀は
そっと先へと導く。



「…………分かんない。」

その声の甘さ、
舌足らずな発音が
頼りなく揺らぐ。



「なぜ分からない?」

佐賀は
抱いた腕に少年の微かな重みが
ふうっとかかるのを
感じた。


「誰も教えてくれないんだ。
 ぼくも覚えてないの……。
 何があったの?」


これは
自分に尋ねているのではない。
そう感じながら
佐賀は少年の背を宥めるように
擦った。



「何を覚えてる?」


少年は
佐賀に身を預け
その胸に頬を寄せて
遠く遥かに焦点を合わせて眸を凝らす。




「気がついたら
 ぼく
 病院のベンチに座ってたんだ。
 空が青くて綺麗だった。

 すごく綺麗だった……。
 呼んだんだよ、ぼく……。
 一緒に見ようって思った。」


「そうか」

「……うん」




佐賀は
そっと体を離し、
その腕を支えながら
少年と向き合った。




少年の眸の焦点がゆっくりと結ばれる。
そして、
その眸は佐賀を映した。




「あ……。」

小さな声が上がった。
わずかに腕に力が入る。


驚いたように辺りを見回す眸が
また自分を見詰めるのを佐賀は待った。




「俺は
 支えたい。

 橘、
 君を支えられる保護者でありたい。
 それは支えたいと思うからで
 仕事だからではない。

 心配している。
 支えさせてほしい。」


少年の腕をもったまま
長身を不器用に折り畳み
佐賀は語りかけた。


少年は
じっと佐賀を見つめる。
その言葉が
届いているのかいないのか
その表情からは読めなかった。



ただ
そっと
添えた手に伝わる少年の腕の細さが
佐賀の胸をきりきりと締め付けていた。



ゆらり
華奢な体が揺らいだ。




一度外れた少年のガードは
もう疲労を隠すことはできなかった。
腕は佐賀にすがり
足は震えていた。



佐賀は
その肩からバッグを外してやり
それを少年に差し出した。




「鍵を」

佐賀は促す。



迷うように
少年は
佐賀を見上げる。

そして、
膝から崩れ
佐賀の片腕に抱き止められた。




佐賀が
そっともう片方の手でバッグを少年の胸に押し当てると、
小さな手がバッグを探り、
鍵は取り出された。




佐賀はその鍵を受け取り
バッグを肩にし
少年を抱き上げた。




「あ……。」


小さな声は上がったが
佐賀の腕に抱かれて少年は
静かに身を任せた。


ホウ
吐息が洩れる。
もう限界だった。
体力を使い果たした少年は
目を閉じる。




「すまなかった。
 もう無理はさせない。」

佐賀は
エレベーターに向かいながら
そっと少年に囁いた。




エレベーターを降り、
鍵を開けて部屋に入り、
リビングを目指して
足早に進む。

寝室に向かうことは憚られた。
少年とそこに在る己を思うと
ひどく罪深いものを感じてならない。




佐賀は
見知らぬ誰かを思っていた。
さっき己が姿を借りた誰かを思っていた。





ソファーに少年を下ろすと
佐賀は浴室に向かいタオルを取って戻った。
キッチンでタオルを濡らし
きっちりと絞る。




ソファーに
横たえた体は
消え入りそうにほっそりとしていて
小さな手が曲げられて頬に触れているのがひどく儚げで
その指先は繊細なガラス細工のようで触れることが憚られた。




砕け散る前に
ようやく抱き止めた。


そんな感慨があった。




そっと
そのタオルを頬にあてると
瞼が震え
ゆっくりと上がる。


その眸に見詰められながら
佐賀は
その頬を拭い
額を拭う。



「気分はどうだ?」

佐賀が尋ねると
少年は
その眸を天井に移した。




「…………カナダに行くんだ
 と
 言われました。
 だから来ました。」

微かな声だったが
迷いはなかった。
少年は語り出した。
今度の相手は確かに佐賀だった。





「誰に言われた?」

「知らない人です。」

「なぜ従った?」

「家族をなくしたときも
 知らない人が来ました。
 親戚だと聞きました。」

「同じ人か?」

「いいえ」




佐賀は少年に問い
少年は佐賀に応える。




「……どうして
 ついてきた?」

「お医者さんと話してました。
 その人たちが
 病院に入れてくれてたそうです。

 学校に入れてくれた親戚の人は
 ぼくのことは
 その人たちに任せたって聞きました。」



何でもないことのように
少年は淡々と語った。



無理をしているようではなかった。


本当に
それは少年にとっては何でもないことなのだ。
そう感じる。
佐賀は
それが
ひどく苦しかった。



佐賀は、
それを振り払うように
続ける。





「その学校は
 スケートをするために選んだ?」

「…………そうかもしれませんが、
 もう決められていました。」

「親戚の人に?」

「はい
 そこは寄宿舎が
 あったから……。」



そして、
言葉が胸を切り裂くことがある。
佐賀は初めてそれを知った。


自分の胸から血が流れるのを感じながら
佐賀は表情を変えることなく
少年と変わらず淡々と聞いていた。




儚げな少年との会話は
そめそめと続く。


「君が病院で気がつくまで
 どのくらい時間が過ぎた?」

「4ヶ月くらいと聞いてます。」

「その前までを覚えている?」

「少し」

「大切に思う人はいた?」

一緒に空を見ようと思った人間を思い
佐賀は尋ねた。



くっと
その唇が結ばれる。
その眸が暗く翳り、
佐賀ははっとした。



「…………もういません。」

「……すまない。」


佐賀は詫びた。



少年は
また目を閉じていた。


そして、
その眸が
ふわっと開いた。




「いいえ

 だって仕方ないです。
 もういなかったんだから」

その声に
それを悲しむ色は
もうなかった。

見上げる眸は
ただぽっかりと天井を見上げていた。


会ったときの印象が
また色濃く甦る。


ビスクドールがそこに置かれ
何を見るでもない透き通った眸があった。




佐賀は
静かにその髪を撫でた。
撫でられるまま
避けるでもなければ
佐賀を見るでもない人形がいた。


佐賀は
それでも
その髪を静かに撫でる。


静かに時間は流れ、
いつしかリビングは薄闇に包まれた。




「…………佐賀さん?」

少年が
ん?
今気付いたように
佐賀を見上げた。



「少し眠れ。
 掛けるものをもってくる。」


佐賀は立ち上がり、
浴室で見かけた
大きめのバスタオルをとってきた。



戻ると
もう少年は寝息を立てていた。





それを
そっと掛けると
佐賀はキッチンに向かい
冷蔵庫を開ける。



ハウスキーパーが残した夕食は
佐賀の要望通りに
バランスのとれたものだった。



リビングに目をやれば
少年は素直に眠っている。



倒れた……。
それを思うと
一人に置くことはできない。
今夜は
納得するだろう。


佐賀は
開かれたドアと
まだ隠された奥のドアとの間に
どう身を置くかを考えていた。



イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。



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