この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






「……涼しい」

少年が呟く。



アパートを出れば
風が道を渡っていく。
誘われるように
少年は風の吹いてくる方に顔を向ける。


日は中天にあって
やや仰向いた少年の額に
その前髪は吹き分けられる。


 美しい……。


胸が一つ大きく打つ。
そして、
目は吸い寄せられる。


少年を明るい日差しの中で見るのは
初めてだった。




「カナダだからな」

そう応えながら
佐賀は少年の表情の柔らかさに驚いていた。






道の向こうは奥深い林だ。
その中に遊歩道がうねうねと続き
ベンチがぽつんぽつんと置かれている。

8月は夏の名残の季節だ。
林を抱いた公園の遊歩道には
今を最後と夏を楽しむ善良な市民が
上半身に太陽を浴びて散歩する姿が見られる。


 
少年は
リンク通い一式を詰め込んだバッグを
今日は肩にかけている。
胸に抱き締めてはいない。





「何か食べていこう。」


佐賀の誘いに
少年は返事をしない。
だが
導くままについてくる。




少年は
自分に選択肢がないことは
考えることそのものを放棄している。
宮川に連れられてクラブに現れ、
佐賀に連れられてここに来た。



 自分のことだというのにな……
 クラブのスクールに入ることも
 ここに住むことも。



佐賀はそれを利用して少年を動かすことに
忸怩たる思いがあった。
あったが、
するしかなかった。




少年は、
ただ目を伏せて立っている。
ここで放り出されても
おそらく指一つ動かすまい。


だから、
佐賀は声をかける。
せめて、
何をしようとしているかは
伝えたい。



明るい店内は
公園の緑に応えるように木製の客席が
ゆったりとした間隔で並んでいた。


まず
少年が座るのを見届けて
佐賀は座る。



少年は静かに周りを見回す。
そして、
佐賀に目を戻した。
焦点は合っている。



ここにも
風が抜けていく。
さらさらと髪をなぶられ
ふふっ
少年が微笑む。


 まるで風に応えているようだ

人には反応しない。
だが、
風に少年は応える。


 綺麗だ……。
 透き通っていく。




宮川の残した澱が跡形もなく
消えていく。
佐賀は少年が人を拒むことが
ひどく自然なことに感じた。



 この子は風の仲間のようだ


その風に髪をなぶらせ
少年は
誰にともなく微笑む。




 少年は何に心を開くのだろう。
 心を動かすものがなければ
 指導は難しい


それは、
指導どころか
保護者まで引き受けた今、
佐賀には大問題だった。



大方の生徒のそれは、
観察してすぐに掴める。
〝成績を残すこと〟
それが第一にあったし、
取り巻く環境の中で何に反応するかは
分かりやすかった。


休憩の取り方
目標の定め方
短所に長所


すぐに分かるものを
仕事と意識したことがなかった。



が、


橘瑞月は規格外だ。
予測は幾つか立つようになったが、
制御できない。



時間を意識しない
食事をしない
行動が遅い
…………他人に踏み込まれることを嫌う




「橘」

名を呼ばれ
少年は
ふたたび佐賀に目を戻した。


少なくとも見てくれている。
くれている?
佐賀は自分を無視していられる存在に
出くわしたことがなかった。


自ら気配を消している数年間に
不要な軋轢はなかったが
指導しようとして
ここまで噛み合わないなどということは
経験がない。


そして、
誰かに〝自分を見てほしい〟
感じる感情は12歳を最後に
抱いたことがなかった。


見てくれている
という穏やかな思いは知っていた。


 見てほしい
 そして
 見てくれている


心が渇ききるまで切望した思いも
いつも温かく見つめてもらった温もりも
今思い出すには疼きを伴うものだった。



ともかく
視線から動かすのは
覚束ないながら
朝食では効果があった。



 今は
 自分を見ている。
 たぶん……なんとかなる



店員に渡されたメニューを手にしたまま
佐賀は確認した。

「まず、
 確かめておきたい。

 君は、
 一人で暮らす。
 これは君の希望か?」



少年の顔から
感情が消える。



「はい」

 即答だった。



「絶対?」

「はい」

答えの速さは
橘少年の場合、
本当に
絶対だろう。


自分と向き合うことで
また人形に戻った少年を見つめながら
佐賀は考えあぐねていた。





〝どうして
    あなたがここにいるんですか?〟

宮川を少年は拒んだ。



その行動を嫌ってではない。
誰であれ、
少年は嫌いはしない。
嫌うものも人を動かすことはできる。
興味というものが欠け落ちている。
それはおぞましい行為を受けた自分自身に対してもだ。




そして、
興味がないものが目の前をうろつくのを嫌う。


佐賀も例外ではないだろう。
鍵をもつのを認めるのと
侵入を認めるのは話が別だ。





「わかった。
    じゃあ、
    条件がある。」


佐賀は、
一呼吸おいて
少年の目を見つめた。


彼は
視界にあるからと言って
見えていないものが多いようだ。

佐賀は、
少年が自分を見ているか
再度
確かめたのだ。
聞いていてもらわねば困る。




少年は
佐賀を見上げ
訝しむように小首を傾げた。


「何ですか?」

少年は返した。



会話は噛み合った。




「 一人でも食事をきちんと取る。」

これだけは
絞った条件だ。




後のものは、
付きっきりでなくともカバーできる。


出る時間にやってきて、
叩き起こして連れて出れば、
スクールには通えるのだ。

が、
食事は日に三度ある。
そうはいかない。




少年は眉をひそめた。
まだ
なんとか
視線は佐賀をとらえている。




「…………食べないわけじゃありません。
   朝食は食べない。
   それだけです。」

言い終えて
少年は
ふっと視線を泳がせる。




佐賀はその手を押さえた。


少年がびくんと震え
視線は逸らされたまま止まった。


 怯えている

可哀想にと思いながら
佐賀は手を離さない。







「もう説明はした。
 スクールに通うなら
 三食食べてもらう。

 そして、
 君への支援は
 スクールに通うのが前提だ。

 俺はスクールの職員で
 君はスクールに預けられたからだ。」


宮川の真似か
自分を嘲笑いながらも
これも現実だった。


保護者を引き受けるにも資格は必要なのだ。
この場合はスクールの生徒であることは
最低条件だった。




「食べずに
 ここまでやってきました。」

「ここではダメだ。」


目を逸らしたまま少年は応え
間髪を入れず佐賀は叩いた。




オーダーを取りに来た店員が
テーブルに重ねられた手を見て
早々に退散していく。



解放感ある空間だったが
佐賀は指導オーラに本性を覗かせ
拐われてきた姫さながら
顔を背ける少年はゾクリとするほどに美しい。


拒む少年は
手も触れられぬほど遠いものにも
手折って意のままにしたくなるほど蠱惑に満ちたものにも
感じられる。



「……分かりました。」

ようやく少年が応えた。


だが、
これで終わりにはできない。
もう建前では済まない。
日常は始まっている。


「目を上げろ。
 話は
 相手の目を見てする。

 特にこちらでは
 それが習慣だ。
 慣れろ。」


佐賀は手を離さぬまま
じっと待った。



少年がゆっくりと佐賀に視線を戻した。
その眸は真っ直ぐに佐賀を捉え、
佐賀の視線を受けて立っていた。


 宮川を貫いた目だ


佐賀は静かに手を離し
その視線を受け止めた。



「ハウスキーパーを手配した。
 買い物はしておいてもらう。
 君が欲しいものも
 頼めばいい。

 夕食は作りおいてもらう。
 昼食は俺が迎えにくるから
 一緒に取る。

 いいな?」

「迎えにくるんですか?」

「通い方を知らないだろう?」

「教えてください。」

「教える。
 だが、
 一人で通わせはしない。
 俺がつく。

 部屋には入らない。
 君が開けてくれるなら外で待つ。」

「開けなかったら?」

「入って叩き起こす。」

「嫌です。」

「それではスクールにいられない。
 日本に帰ることになる。」


少年が黙り込み、
佐賀は自分の言葉の無慈悲に
胸が痛んだ。




「わかりました。」

すっと
少年の手がメニューに伸びた。

英語と仏語の羅列に
瞬時止まるが
佐賀に助けを求めない。


少年は
一つの写真を指した。


「このスープだけでいいですか?
 食べたばかりなので。」

「ジャガイモのスープだ。
 だいじょうぶか」

「飲みます。」



佐賀は自身はランチメニューから
手軽にバーガーを注文し
少年の様子を眺めた。

すんなりと
スプーンは手にされ
ひらり
ひらりと一口ずつ口に運ばれていく。



先程の朝食の悪夢とは打って変わって
少年は淡々と注文したスープを
優雅に飲みきった。



「これでいいですか?」

少年は
また佐賀を見つめる。
見てくれるようになったが
その視線は佐賀のそれを押し返すほどに強い。


「ああ。
 上出来だ。」

「では
 連れていってください。
 よろしくお願いします。」

少年は
尋常に挨拶をする。
つまり、
知っているのだ。
この子は挨拶の仕方は承知している。


関わりをもたずに通せるものなら
通したかったのかもしれない。
今、
関わりをもたないために
最低限の関わりをもつことにしたのだ。


佐賀は
自分にあてられた少年の眸に
もどかしさを感じながら
言い忘れていたことを伝えた。




「ハウスキーパーも君が起きなければ
 中に入れない。
 午前中に来てもらう。
 9時から11時の契約だ。」


少年は返事をせず、
じっと見つめ返す。


「スクールの帰りは俺が送る。
 入り口までだ。
 君は英語が話せない。
 しばらくは仕方ないだろう。」


当分は
自分が部屋に踏み込むことはしたくなかった。
それは
佐賀にはしてはいけないことのように
感じられていた。

自分に込み上げた衝動を
佐賀は忘れてはいない。



また、
ほろ苦くもあったが、
少年を動かす何かは見つかった。
それは佐賀を拒む気持ちだ。


佐賀を入れないために少年は
食生活にそれなりの努力はするだろう。
また、
佐賀の助けを断るために
語学に精進するかもしれなかった。




どうだ?
俺を中に入れたくないだろう?
いうように
佐賀は少年を見つめ返す。


「分かりました。」

少年は
まとめて返事をし、
自ら立ち上がった。




 ただ拒ませてもいられないが……。

悩みながらも
とりあえず
他に手段はない。
佐賀は勘定を済ませ後を追った。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。





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