この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。







佐賀は
静かに待ち受けた。


〝宮川です〟

リビングのインターフォンに
宮川の顔が映る。
佐賀はリビングを出た。  



少年の部屋は
ひそと静まり返っていた。




佐賀は深く息を吸った。

「橘
 客が来た。

    出てこい。」



1秒1秒が
ひどくゆっくりと刻まれて行く。




カチャリ……。


ドアが開いた。



ジャージ姿だった。
白く開い襟が繊細な造作を包み、
華奢な胸から喉を覆う黒は華奢な肢体を際立たせる。



トントントン……。


玄関から
焦れたようにノックが響く。
かれこれ数分が経っていた。




「行こう」

佐賀は促し
玄関に向かおうとした。




カチャ……。

佐賀は微かな音を聞いた。
鍵が回されている。






 まずい


佐賀は少年を後ろに庇い、
ドアは内開きに
ぐーんと弧を描いて開かれた。



そのまま
黒いスーツの体が
無遠慮に踏み込んでくる。



「なんだ
 佐賀さん
 いらしたんじゃないですか。

 あんまり遅いので
 どうしたかと思って
 開けさせていただきましたよ。

 どうです?
 なかなか良い部屋でしょう」


へらへらと喋りながら
宮川が廊下を進んでくる。



佐賀は
脇をふわりと抜ける小さな影に驚いた。
少年のしなやかな肢体が
前に立っていた。



「どうして、
 あなたが入ってくるんですか?」

その声は震えもしていなかった。



宮川は
少年を相手にするとは
思ってもいなかったようだ。

瞬時たじろいだが、
ちらと佐賀に笑ってみせ、
少年に目を戻す。



「あ、
 ああ橘君、
 これは緊急用のキーなんだ。
 私は君のエージェントだからね。」



佐賀は静かに少年の脇に寄り添った。



「あなたは
 もう
 ぼくの前に現れない。
 ぼくはスクールに預けられる。

 あなたは
 二度とぼくに関わらない。
 そうではなかったんですか?」


少年の眸は
宮川を貫くようだった。
それでいて感情はない。


天使はラッパを吹き鳴らす。
哀れみも悲しみもない。




「ここは、
 君のために
 私が契約した部屋なんだ。

 君が家賃を払っているわけじゃないんだよ。
 万一のときは
 君では何もできないじゃないか。

 さあ通してくれ。
 佐賀さんと話があるんだ。」


宮川は
両手を広げてみせ、
佐賀に笑いかけた。


宮川は通り抜けようとし
佐賀はその肩を押さえた。




「佐賀さん、
 話があるんじゃなかったんですか。
 私はこの少年の責任者です。
 さあ通してください!」


憤然と
宮川が
声を荒げる。

それが虚勢であることに
宮川本人は気づいてもいないのだろう。


たかがトレーナーに押さえつけられて
一流企業の資材買い付けと
ログハウス輸入企画を任されたエリート社員は
怒りに我を忘れていた。




佐賀は宮川に
無力な少年を取り巻く世間というものを感じ、
うそ寒い思いを抱いた。


そして、
腹の底から込み上げるものは
やり場がない。



「この部屋の主は
 この子です。

 私ではない。
 ここは橘君の部屋だ。」


びくん
宮川は自分を押さえつけている男を見上げた。

たかがトレーナーの声は
腹に響く威をもって落とされ
宮川は肩書きをひっぺがされて
投げ出された。


恐る恐る見回すと
少年は
自分を見つめている。

ただ見つめる視線に押され
宮川の目が泳いだ。



「あなたは
 ぼくを押さえつけて
   ぼくの服をまくり上げました。
 口を押さえて
 胸にキスしました。

 ぼく、
 助けを求めました。
 夢中で求めた。
 〝助けて〟って
 やっと声が出て
 飛行機の人が来てくれました。

 英語だったから
 あなたが何て説明したか分からないけど
 席は変わることができました。


 どうでもいいけど、
 あなたは
 もう
 関係ない人になるって
 あなたが言ったのは覚えてます。

 出ていってください。」





非道な行為を
責める色は少しもなかった。
少年は
ただ宮川が現れたことを責めていた。


 自分を玩具にした行為は
 この子には
 どうでもよいことなのだ
 

それが
余りにも明白で
佐賀は心臓が冷えていく思いだった。



押さえた手の下で
宮川が喘いだ。



「橘君、
 何を言っているか分からないよ。
 君が具合が悪くなったみたいだから
 私は対応したんだ。

 佐賀さん
 何でもないことなんです。
 橘君は魘されて勘違いしてるんだ。」


声は上擦り、
佐賀にすがるようにかけた手が
ぶるぶると震える。




「宮川さん
 昨夜
 シャワーで事故がありました。

 私もここにいた。
 だから、
 見ました。」

佐賀は
宮川を押さえたまま
その耳元に囁いた。
少年に聞かせたくなかった。




「私は
 何もしてない!」

宮川の怒号を
佐賀は
そのままにする気はなかった。




ガッ……。



宮川は少年の目の前を吹っ飛び、
無様に床に這いつくばった。




ううっ……。
呻き声を洩らし
体を捩る宮川を
少年は
不思議なものを見るように見つめる。




佐賀が
また動いた。


少年は
佐賀が
膝をつき
転がる宮川の懐から鍵を抜き取るのを見た。




佐賀は
宮川はそのままに
静かに立ち上がり
少年に向き合う。


少年は
自分の手を佐賀に握られ
びくんと固くなった。



背まで強張らせた少年に
佐賀の胸は痛んだが、
それは仕方ないと思った。




佐賀は
その手に鍵を乗せた。


「君の鍵だ。
 もう一つは
 俺がもつ。

 この部屋の鍵は
 この二つだけだ。」


佐賀はそれだけ言って手を放し、
少年を背に庇って
転がった男に向き直った。







自分が鍵をもつ理由を
少年に語る言葉は
出てこなかった。


少年にとって
自分も
また
関わりのない人間であることは
変わるまい。


それが
どうにもしてやれないのが
やるせなかった。



ただ、
少年に伝えるべきことはあった。
宮川に向かいながら
佐賀の思いは少年にあった。



「宮川さん
 あなたは橘君とは空港で会いました。
 そして、
 ここまで連れてきた。
 もうそれだけで結構です。

 多田製作所と連絡を取りました。
 以後、
 学校との連絡、
 このアパートの管理、
 多田製作所さんへの報告、
 全て私が行います。

 もともと
 そういう契約でしたね。

 今日は
 それを橘君に見てもらうために
 お呼びしました。

 私はあなたを殴らねばなりませんでしたから。」



少年が
はっとしたように
佐賀を見上げた。


佐賀には見えていなかったが、
少年は
まじまじと
佐賀の背を見詰め
その視線を動かさなかった。



「私は
 橘君の保護を引き受けました。
 ですから、
 彼に加えられた理不尽な扱いに
 対応します。

 橘瑞月君の責任者は
 以後
 私一人です。」


宮川は
よろよろと立ち上がった。
鼻から血を流しながら
佐賀を睨み付ける。


「たかが……たかがトレーナーのくせに
 ……。」


佐賀は
背に少年を庇ったまま
宮川を静かに見つめた。



「あなたを殴ることは、
 本社も了解済みです。

 こちらとしては
 支援の継続を条件に
 警察沙汰にするつもりはありません。

 が、
 次があったら、
 私はあなたを許さない。
 表沙汰にはしない。
 この子を守るためです。

 が、
 あなたの身は無事では済ませません。
 警察を待つまでもない。
 覚悟することです。」



宮川は黙り込んだ。
鼻血を腕で拭い
のろのろと玄関に進む。


バタン!

玄関のドアは閉じられた。




少年は動かなかった。
佐賀は少年に向き合った。
もう
少年の目は伏せられていた。



「俺は佐賀海斗だ。
 君の保護者になる。

 君に手出しする奴は許さないが、
 君の我が儘も許さない。

 だから、
 ここの鍵は君に返さない。
 俺ももつ。

 いいか。」


少年の表情は変わらない。
変わらないまま
ただ目を伏せている。




「返事を聞きたい。
 君の問題だ。」


少年に選択肢はない。
ないが、
あるのだ。
生きていくために納得するという選択肢がある。


佐賀は待った。



「…………わかりました。」

目を伏せたまま少年は応えた。




時計は十二時に刻々と近づいていた。
保護者となった佐賀には、
ようやく終えたばかりの朝食に続く課題があった。


 練習の前に
 何か
 もう少し食べさせなければ


少年は
ほぼ野菜を口にしていなかった。



佐賀は
少年が一人で暮らしていくための算段と
リンクに通わせるために教えるべき様々とに
頭を巡らしながら
それらの必要性にまったく頓着しないであろう少年に
ため息をついた。



少年が
そのため息につられたように
佐賀を見上げる。



小首を傾げて少年は言った。

「寝てきていいですか?」




佐賀は
ぐっと詰まり、
計算し、
応えた。

「30分だ。」


パタパタと
少年は寝室に向かう。


佐賀は
今度こそ
深く深くため息をつき、
携帯を取り上げた。


まずはハウスキーパーの手配からだった。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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