この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




佐賀はまず携帯を出した。


〝初めてのお料理教室〟
画面に浮かぶ文字を確かめ
タップした。



〝さあ
 お料理なんて簡単よ。
 わたしのする通りについてきてね!〟


    熟練主婦らしき先生が
    にこやかに若い女に向かっている。




〝やだー
 崩れちゃう〟

〝ほら
 とんとんよ、とんとん。〟

 ……………………。

お料理教室の動画は終了した。




佐賀は動画終了の画面を消すことなく
目を閉じる。


 調理台の上に置かれた卵とボウル……。

 そして
 トントンだ
 トントン……。

 だいじょうぶだ





動画画面は閉じられた。
そして、
佐賀は調理台に向かう。




佐賀は
基本、
見たものを吸収し再現することに
不安を感じたことがない。





とんとんと
柄をたたき仕上げにかかるあたりで
カチャッ
ドアは開いた。



少年の入室を背中で確認しながら、
佐賀は画面のご婦人に倣い
皿にポンとオムレツを移した。



続いてウィンナーだ。
熱を加えられたウィンナーは
くるくると足を巻き上げる。



少年はどうやら自分を見つめているらしい。
そう感じながらも
朝食を食べるべき時間に自らを律している佐賀には余裕がない。


ウィンナーをオムレツの横に
等間隔で並べるまで
振り向くことはしなかった。


「ダイニングで食べる。
 座って……。」

皿を持ったまま
振り向いた佐賀は止まった。




少年はパジャマのまま立っていた。
ポツンと離れた立ち姿は
目の前に俯く小さな頭とは違う迫力があった。





ズキンズキンと胸は痛む。


定番の紳士物パジャマがここまで可愛くなるとは、
デザインした者には思いも寄らなかったろう。




大人の服を着た子どもみたいな少年の姿だった。
丈はともかく幅が広すぎだった。
余った生地はたるむ。
たるんで下がる。




袖からは小さな指先がちょこんと覗き
裾からは小さな足先が内向きに揃っている。
小首を傾げたところは、
何か不思議なものを見つけた小鳥のような風情だ。
しかも裸足。
……はだしだった。




ずきずきが止まらない。




佐賀は少年の脇を抜け居間を出た。
玄関のシューケースを開けると
下段にスリッパがあった。
他の靴はない。
これはこちらで買い整えるしかなさそうだ。


一足取り上げ居間に戻る。



足元に置くと
素直に足を入れた。


「着替えろと言ったが?」

見上げて声をかける。





「…………こっちは室内も靴なんですね。」

会話が噛み合わない。



「そうだ。
 着替えたら靴も履く。
 スリッパでも構わないが
 裸足はだめだ。
 そういう造りになっていない。

 ……なぜ着替えていない?」


佐賀は
叱責にならぬよう
声を抑えた。


「スクールは午後からと思いました。」

「そうだ」

「佐賀さんが
 こんなに早く来ると思いませんでした。」

「朝食の準備がないと言ったろう。
 
 で、
 なぜ着替えない?」

「………………。」

「今まで何をしていた?」

「………………。」


答えたくないのか
問われたことが分からないのか
会話をする必要を感じないのか
少年は無表情のまま視線を合わさなかった。




佐賀は立ち上がった。
間近に立つと
佐賀は否が応でも少年を見下ろす形になる。
190の高みからは170前後の少年は
肩ほどの高さだ。




少年が反射的に下がる。




「ダイニングだ。
 座れ。」

佐賀は命じた。
少年は
パタ……パタ……とダイニングに進んだ。


コソッ
椅子に座る。



椅子を引いてやらずとも
座った。
それが有り難いと感じる。



そんな感覚は
たぶん
いや
かなりおかしいのだが、
一般家庭を知らぬ佐賀はそこに自信がない。
子どもがテーブルに座ったところで、
食事は始まるとほっとしていた。


目で確認する。

ダイニングのテーブルには、
サラダの小さな深皿
オムレツとウィンナーのプレート
牛乳を注いだグラス
パンにトースターが用意されている。

これで食事はできる。
自分はミネラル・ウォーターを飲もうと
冷蔵庫を開けた。



が、

振り向くと
少年は座ったままだ。


再び
佐賀はチェックする。

 そうか
 トースターか



佐賀はトースターにパンを入れた。
さして時間もかからず
香ばしい匂いは漂いトースターからパンは跳ね上がる。




少年は動かない。
見ると
そもそも
その視線が食卓にない。

パンは
むなしくトースターの中で
冷えていく。




佐賀はパンをプレートに置いてみた。

少年は動かない。
その視線も動かない。
人形は置かれたら置かれたまま座っている。



これは
旅の疲れとかストレスとか不慣れとか
…………色々気を回した類の問題ではない。






「食べるんだ。
 俺はもう済ませた。」

それでも、
自分に気を遣っている可能性を考え
佐賀は言葉を添えた。



少年の視線は動かず、
その焦点も
ぼんやりと宙に浮いていた。



「朝食は食べません。」

物憂げに答える。




「どういう意味だ?」

佐賀は尋ねる。


ここまでの佐賀がかけた手数は、
さして気にならなかった。
佐賀に対する無関心は大いに問題だが、
それは根本的な問題として
これから取り組めばいい。

それより今は食事だった。



「食べないんです。
    食べずにやってきました。
    だいじょうぶです。」

少年は立ち上がる。



佐賀は歩き出そうとする少年の前に回った。
すると、
少年は止まる。



「どこへ行く。」

佐賀は尋ねた。



「寝てきます。」

少年は答えた。
これでパジャマだった理由はわかったが、
そうですかとはいかない。



「座れ。」

佐賀は命じた。

少年は座った。



「君は午後いっぱいスケートをする。
 食べなければ体はもたない。

 何にでも従えとは言わない。
 だが、
 これはトレーナーとしての指導だ。
 従え。」


少年は
また静止した。

その視線はあらぬところをさ迷い、
食卓の様々は刻一刻と冷えていく。



何も見ていない眸……。
昨夜、
あれほど敏感に反応したのは
…………恐怖からだろうか。
そして、
その後笑ったのは…………。



いや
それはどうでもいい。
食べさせなければ始まらない。




佐賀は
ふと思い付いた。



「橘
 皿を見ろ」

少年はうつ向き皿を見た。



「あ…………タコさん」

ぽつん
言葉が洩れた。



佐賀は向かい合わせに座った。
そして少年の視線を追う。




「フォークをもて」

素直にもつ。



「食べろ」

ノロノロとフォークが動き、
タコさんが口に運ばれる。



ふっ
少年の眸に
光るものがあったようで
佐賀ははっとした。



そっと窺う。


少年は皿を見てはいたが、
それだけだった。
ガラス製の人形の眸さながら
その眸に動くものはなかった。


タコさんはゆっくりと完食された。



「いいか
 今までの生活では
 クラブでの指導は受けられない。

 橘、
 君は30分ともたずに倒れた。
 食事はバランスよく
 食べるんだ。

 スケーターはそれを怠ることは
 できない。」

また止まってしまった人形に
佐賀は言って聞かせた。




「……甘いもの
 ないですか?」

少年は尋ねる。




わずかテーブル一つの距離が
ひどく遠かった。


会話は
なかなか噛み合わない。
視線はもうプレートを逸れている。



佐賀は時計を見た。
もう10時を回っていた。


「今出ているものを食べろ。
 一口ずつでいい。

 食べたら出す。」


こういう取引は望ましくない。
望ましくはないが、
背に腹は代えられない。
11時には
終えていなくてはならない。

そして食べずに済ませる経験は
させる気がなかった。


少年は
皿に目を落とし
ノロノロとフォークを動かし始めた。




佐賀は立ち上がり、
スマホ画面に向かう。

牛乳
パン
調味料幾つか
それしかなかった。




棚からグラニュー糖とシナモンを出した。

ちらり
と目をやると
フォークがノロノロとサラダをかき回していた。


「一口だ。
 食べろ!」

そう言いおいてパンを切り、
卵を割り
混ぜたり浸したりしながら
フォークの動きを見張る。



ようやく
フォークがレタスの欠片を突き刺した。

「そのまま口だ。
 入れろ!」


ケホンケホン
わざとらしい咳を響かせるのには構わず
フライパンにバターを溶かし
ぐるっと全体に回す。


そこにパンを放り込み焦げ目がつくまで焼いた。
ダイニングに甘い匂いが立ち込める。



「……いい匂い」

佐賀は
背中に声を聞いた。
それは可愛い声だった。


それを皿に乗せ
振り返ると
少年が自分を見ていた。




「食べてごらん」

プレートを下げ、
代わりに
製法の倍はグラニュー糖を入れた
かなり甘めのフレンチトーストを乗せた。



今度は
その眸が皿に吸い付いている。
少年は
パクンと一口食べた。

「おいしい……。」

と呟く。




これは完食できそうだった。
次は着替えだ。
11時には終えていなくてはならない。
佐賀はもう一度時計を確かめた。





食べられなかったメニューは
潔くデスポーザーに放り込み
佐賀はキッチンの撤収にかかった。

このアパートに客室はない。
客はここに迎えるしかないだろう。
片付いた状態で迎えたかった。





佐賀は
そのときを期していた。
それが少年を変えるかは分からない。
だが、
それをせずに保護者であれるとは
思えなかった。




そして、
保護者になったら…………覚えてろよ。

そう秘かに胸に定めて
相変わらず痛む胸を抱えて少年を見つめた。



甘い甘いフレンチトーストを食べる少年は
可愛かった。


微かに微笑みが浮かんでいる。
昨夜も思った。
可愛い。

この子は笑うと天使になる。
滅びのラッパを吹く天使ではない。
聖母の周りを群れ飛ぶ愛らしい天使だ。




そうして胸は痛む。
その会合を思うとしくしくと痛む。
痛む胸を抱えるのは
保護者という者になるからだろうか。


佐賀は分からなかった。
ただ胸は痛み
切なく締め付けられた。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。





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