この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




カサッ……。

後部座席に
微かな身じろぎが感じられる。
少年の細い腕が自分の体に回されていた。



盛夏といえど
日が落ちると一気に涼しくなる。


佐賀はハザードを点灯し
車を路肩に寄せた。
手早く自分のジャージを脱ぎ
振り返る。


「羽織るんだ」


停められた車に怯え
無意識にドアに手をかける少年に
佐賀は命じた。


薄暗がりに見開かれた少年の眸が
ゆっくりと焦点を合わしていく。
佐賀の声は命じる声だった。


佐賀は
静かにジャージを差し出している。
アンダー一枚となった佐賀の肩から二の腕が
逞しい。



小さな手が上がる。
少年は黒いジャージをつかみ、
ぱっと羽織った。
野良猫が餌をくわえて飛び離れる仕草に似ていた。



佐賀は車を出した。
対向車のライトに
ハンドルを握る腕が浮かび、
しなやかな筋肉が陰影を刻む。


少年は
魅せられたように
それを見つめる。


「ぼくのアパート……遠いんですか?」


ぽつん
言葉が洩れた。

車は湖を左に進んでいた。
月は遠く湖の上にあった。


「市街地を挟んで反対側だからな。」


助手席に置いた夕食は
温め直さなくてはならない。
が、
ともかく食べることには漕ぎ着けそうだ。
佐賀は少年の一言に満足していた。


自分から発した言葉は
相手に自分を許すものだ。
何とかなるだろう。


佐賀はハンドルを切り
湖は背後に消える。



市街地の外れ、
住宅街の突端は、
広がる林とそれを見下ろす幾つかの
高層アパートで始まっていた。


 環境は悪くない


その最初の一棟の地下駐車場に
車は滑らかに進入していく。
少年はもう落ち着いていた。
スケート靴の入ったバッグを抱き締め
じっと座っている。



ジャッ……。


車を停め
ライトを消し
佐賀は下り立った。


駐車場の照明は薄暗い。
上半身はの黒のアンダー一枚だ。
胸から腹の無駄のない筋肉が布地を通して窺える。


少年が
そっと反対側のドアを開け
バッグを抱えて降りた。



黒のジャージが
すっぽりと少年を包んでいる。
小さな顔がさらに小さく、
胸に抱えたバッグを支える手がまた小さい。


 
佐賀は
また胸が痛んだ。
チクッとした痛みが
甘く胸をかき回す。



毛を逆立てて
飛び出そうとした仔猫が
大人しくそこに立っている。



そんなことに
ホッとするわけでもないはずだが
それが嬉しい。



しっかりとバッグを抱いた様子は
どこか一生懸命で
心惹かれるものがあった。



「部屋は10階だ。
 上がろう。」

佐賀のアパートを出るときは回避した密室も
もうだいじょうぶと見えた。
病人に10階まで歩いて上らせるわけにもいかない。


佐賀は
照明に仄かに明るむエレベーター前へと
先に立つ。


少年は
まるでバッグ一つが支えとでもいうように
しっかり抱えて従った。




宮川から受け取った少年関連一式から鍵を取り出し、
佐賀はドアを開けた。


少年が
ちょこちょこと進み出て
中に入り
振り返った。


バッグを抱いたまま
「……ありがとうございました。」
頭を下げ、
はっと気づいてバッグを下ろし
ジャージを脱いで差し出した。




どうやら帰れということらしい。


佐賀は
鍵を示し
ケータリングの紙箱を持ち上げてみせた。

「中に入れてくれ。
 生活できるだけ準備はしたと聞いたが
 確認はしていない。

 君の体もだ。
 倒れたんだ。

 食事ができるかどうか
 そこも見たい。」


〝入れてくれ〟は、
少年の心に配慮して選んだ言葉だ。
佐賀は帰るつもりはなかった。



「だいじょうぶです。
 今日はありがとうございました。
 お帰りください。」

愛らしい姿とは裏腹に
その声は固かった。


佐賀は
あえて一歩出ることをせず
一呼吸おいた。

少年の差し出した手に
ジャージは残されたままだ。


「私は
 君の生活管理も務める。
 それが契約の中に含まれている。
 君の指導者として
 このアパートの確認は私の仕事だ。」

少年は
表情を動かさない。
佐賀は少年を静かに見つめた。

静かな時間が流れた。

 
「私は佐賀という。
 呼ぶときは〝佐賀さん〟だ。
 わかったか?」

ビンと空気を震わせて
その声は響く。

佐賀は
ゆったりした姿勢は変えず
声で少年に伝えた。
〝俺は指導者だ。〟



昼間、
コーチたちは、
誰一人〝指導者〟となれなかった。
少年が認識しなかったからだ。



少年の手が下がり
その眸が佐賀をとらえた。
悔しいのか
苛立っているのか
それも表情には読めなかった。


だが、
スケートはしたいはずだ。
そして、
あれだけの技量を身に付けている。
指導者への服従の必要性は
知っているはずだ。
そう佐賀は考えていた。



「はい」

表情を変えず
少年は答えた。




佐賀は下げられた手から
ジャージを取り上げ
さっと羽織って
中に入った。




車中の
少年の魅せられたような眸には
恐怖の色も感じられた。
佐賀の鍛えられた体への恐怖ともとれる。

佐賀は自分の体を覆う必要があった。
無用な怯えは払ってやりたかった。



少年は
またバッグを抱いて佐賀に続いた。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。


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