この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。







がっくりと頭は下がり、
その指先まで
ゆらゆらと揺れる。
腕にある少年は眠っているというより
意識を喪失していた。





タクシーの運転手は気のいい男で
肩に二つの大ぶりのショルダーバッグをかけ
腕に少年を抱いた佐賀を見て、
気軽に手を差し伸べた。



「病院じゃなくていいの?
 お兄さん」

「ああ」

座席に少年を横たえた佐賀からバッグを受け取り、
鼻唄まじりでトランクに放り込むと
白髪まじりの褐色の髪をもじゃもじゃさせた運転手は
陽気に車を出した。


やや荒い。
カーブを前に
佐賀は少年を抱き上げた。



仰向いた顔に
細い顎が尖る
喉元の白さが見てはならないもののように
艶かしい。



「綺麗な子だねぇ。

 あんたんとこ、
 綺麗な子は多いけどさ。
 この子はまたずいぶんと別嬪さんだ。」

「…………」


佐賀は応えない。
曲がる車の遠心力を体に吸収させながら
少年の体を支えていた。




「お兄さんも男前だ。
 変わらないね。
 今日は記念日だな。

 男前記念日だ。
 その子、
 えーと男の子だよね?」


佐賀は
喉元のそれすら
ほっそりとした陰影に儚い少年を
そっと見下ろす。


氷上に弧を描いた細い細い軸は
男か女かを超えて
ただ美しく空中を渡っていった。



「……たぶんな。」

応えるともなく
佐賀は応えていた。



「いやー
 嬉しいな。
 声も男前だ。

 お兄さん、
 ほんと口数少ないよね。」


佐賀は
ルームミラーに目を上げた。


「前に乗ってもらったときは、
 もう全然口きかなかったからさ。

 すごい男前だし
 服も同じ黒だし
 覚えてるよ。」




佐賀は
また目を落とした。
少年の頭にそっと手を添えた。


頬の温かみを
不思議なもののようにその手に受けた。
上げさせた顔は、
たいそう繊細な造りが造りものめいて、生きた人のそれのようではなかった。



 氷の結晶……。
 手に触れたら溶けて消えてしまいそうなのにな。



佐賀は
おしゃべりな運転手に応えることなく
少年の顔を見つめていた。
黒に溶け込むような秀麗な顔が
感情を浮かべることなく
目を伏せている。



羨ましいほどに無遠慮な運転手は
感じ入るように
続ける。

「凄みがあるなぁ。
 こないだは気づかなかったよ。

 お兄さん、
 あんた堅気じゃなかっただろう?」



無意識に消せていた自身の色が
今コントロールを離れていた。
この少年がもってきた非日常が
佐賀を揺らしていたようだ。



「その角だ。」

それだけを応え、
佐賀は
ふっと気配を落とした。
鷲羽にいた頃のように、
それは自然にできた。


久しぶりのことだった。


特に意識するでなく
それは消していられたのだが、
連れの隠しようもない突出した美に、
触発されたように甦っていた。


タクシーの
薄汚れたシートに
凄烈なまでに美しい白は
既に十二分に場違いなもので、
それに添うには
佐賀も己の中から引き出さねばならぬものがあった。


そういうことかもしれなかった。




「ああ
 いいとこに住んでるねぇ。」


車を停めた運転手は
瀟洒なアパートを見上げる。
夏の一日も
ようやく終わり近くなっていた。
赤みを帯びた斜陽に
街路樹が長い影を落とす幅広い石畳の歩道沿いに
赤煉瓦の似たような造りの建物が並んでいる。



佐賀は少年を抱き下ろし
運転手はトランクを開けていた。




入り口に続く階段を
モジャモジャ頭はさっさと上り、
その前にバッグを置いて
小太りな体を揺らして
ドタドタと降りてくる。


「ナンシーには
 世話になってるんだ。
 バッグ、
 部屋まで運ぼうか?」


佐賀が無言で見下ろすと
もう
振り返って
また階段をせっせと上がっていく。



佐賀は後に続いた。
部屋を知られてどうという気持ちはなかった。
それを心配するには
佐賀は警護として超越していた。



「たいてい荷物が多いんだ。
 怪我人抱えて
 みんな往生するからさ。

 俺は手伝うことにしてるのさ。
 ナンシーに聞いてみなよ。」


佐賀は
もう運転手の記憶を引き出していた。
前のときとは、
春だった。
病院からは選手を車椅子に乗せ
荷物は肩に背負った。



〝慣れてる人よ
 病院通いは彼が空いてたら頼んでる。〟




 病院通いね……。



そうだな
この子にとっては
ここは今日だけの宿だ。
休養し、
明日には自分の家に戻る。


戻るというには、
まだ入居すらしていないが
戻るだろう。





「じゃ、
 お大事に。」

ドアの内側にバッグを置くと
陽気な声で挨拶して
モジャモジャ頭はは帰っていった。



 驚いたかもしれないな


佐賀は
改めてアパートの玄関を見回す。



丈高いシューケース
一般には花でも飾れそうなローボード
どちらも作り付けのものだった。


木目を基調とした玄関は
それなりに小綺麗で
機能的だ。


ただ
壁にも
ローボードにも
飾るものはなく、
その中に何か収納されているという印象もない。


チェックインしたてのホテル。
印象はそんなところだろう。



がらんどうの廊下を
佐賀は少年を腕に進んだ。
突き当たり左が寝室だった。



朝整えたベッドは、
無機質に待っていた。

黒い掛け布をはぎ、
少年を横たえた。





置いたら置かれたままに
少年の体は
そこに静まる。
美しい一体の人形だった。






佐賀は
そっと顔を寄せ
その呼吸を測った。



頬に触れて
その温かさに驚いたように
呼吸があることも
不思議だった。



体を起こし
少年を見下ろす。





白いジャージに
黒いパンツ。
わずかな時間にしっとりと
それは汗に濡れていた。


ふと手が動きかけ
止まる。




白磁さながらの肌が
目に浮かんだ。

裸に剥かれても
そこに白い体は投げ出されたままに
あるだろう。


瞬時
身の内に沸き上がったものにうろたえ、
佐賀は立ち上がった。





ドアを抜け
向かいの部屋を開け
ドアを閉めた。


壁を埋め尽くす書物に迎えられ
佐賀は深く呼吸する。



女を抱いた数は
覚えてもいないが
そこに執着を感じたこともなければ
抱きたいという衝動を感じたこともなかった。


だが、
今突き上げた危険なゆらめきが何であるかは
わかった。



 今日だけだな
 本当に……。



専属となった少年は
よるべなく
寝室に横たわっている。



その姿を思い浮かべることは
蠱惑と共に破滅の片鱗を伴うものだった。




佐賀は
もう一度深く息をつき、
いつものように
あてもなく棚に手を伸ばした。


手の触れた本を引き出す。
ギリシャ悲劇〝オイディプス〟だった。


その書名に特に感慨もなく
それをもって佐賀は居間に向かった。





危険な少年だった。



自分にすら起こる衝動に
佐賀は思う。


意思をもたない
守るものもいない
それでいて美しすぎるものは
禍々しい。


滅びのラッパは、
まず
その天使から滅ぼす。




どうして
こんなにまで
無防備なんだろう。
まるで己などどうでもよいように。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。




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