この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。








「ありがとうございました。
 まだ
 目覚めていませんね。」


 綺麗な子だ……。

佐賀は
肩にかけてきた二つのバッグを置き、
改めて
ベッドに横たわる少年に目をあてる。




飛び抜けて綺麗だ、
という言葉は橘少年にはそぐわない。
そうした比較を基にした表現を受け付けないものが
少年にはあった。

 質が違う…………。

佐賀はそう感じていた。



〝まあ
 天使のようね。
 滅びを告げるラッパでも
 吹き鳴らしそう。〟



「でも
 脈も呼吸も落ち着いているし
 心配ないと思うわよ。
 
 既往症を知りたいわね。」

デスクに向かい
手際よく事務作業を進めながら
この部屋の主は機嫌よく応えた。



ナンシーは
頼りになる女だった。
彼女の見立てはあてになる。
〝心配ない〟ことも
〝滅びの天使〟という印象も。




リンクから医務室に運び込むと
白衣に明るい色の眼鏡で
丸っこい顔に笑みを絶やさぬナンシーは
さらり
感想を述べた。
〝滅びのラッパを吹き鳴らす天使〟





医務室の主ナンシーは、
観察眼に優れ度胸もある女性で
家族はいるのかいないのか
ともかく
いつドアを開いてもそこに控えている。



佐賀は
何事かあるときに
あてになる存在だと考えていた。



 ……そうか
 滅びのラッパか。


人の動きが
目に入っていないわけではないことは、
子どもたちの列に加わり
コーチの振り写しを精緻に行ったことで知れる。



人に関心がないだけだ。




そもそも
それを必要という感覚そのものがないのだ。
それが佐賀の見立てだ。



ひどく美しい少年に〝天使〟は思い付く者が
多いだろう。
だが、
そこにその〝無関心〟が加味されると
その言葉は凄みを帯びる。


少年はあまりに浮世離れしていた。
意識を失っていてすら
それは匂うのだろうか。


匠の手になるガラス細工の花のように
無機質な美がそこにあった。





既往症……。


佐賀は目を通した診断書を
脳裏に呼び出した。


「喘息があるそうです。」


「そう
 今は発症していないわ。
 よかった。
 こちらで預かる書類があったら
 受けとるわよ。」



ロッカールームにあった少年のバッグに
スケート靴やら小物諸々を詰め込んで戻った佐賀に
ナンシーは必要事項を尋ねる。


佐賀は
少年のファイルから
健康診断書を抜き出した。


「うーん
 日本語ね。
 ともかく喘息はある。
 薬はもっているのかしら。」

佐賀は少年のバッグから
吸入器を取り出して
ナンシーに渡す。


「保護者に連絡を取れた?
 ここは
 そろそろ閉めるけど?」

手に取った吸入器を確認し、
佐賀に戻しながら
ナンシーは確認する。


ここまでは、
リンクの職員間で交わされる日常の会話だった。





「保護者は私です。
 そういう契約になっている。

 連れ帰ります。
 ……タクシーを呼んでもらえますか?」



ナンシーの答えは
すぐには返らない。
肝心なことが曖昧だった。
〝どこまで〟とタクシー会社に伝えればいい?





「私のアパートでお願いします。」

佐賀が
淡々と付け加えた。
佐賀は
促すようにナンシーを見つめて待つ。




「……あなたのアパート?」

ナンシーの眉が上がり、
眼鏡の下の眸は
佐賀をまじまじと見つめている。


佐賀は、
表情を変えるでもなく
見つめ返す。

少なくとも恋に狂って
美少年を己の家に連れ込もうという疑いは
消えただろう。


そして、
ナンシーには、
知っておいてもらうべきことがあった。


佐賀は
珍しく説明をつけようと試みた。
不器用ではあったが。





「住所は決まっているそうです。
 ですが、
 この子は
 まだ行っていない。
 この街について真っ先にここに連れて来られました。」


ナンシーの目が丸くなる。
開きかけた口は
おそらくは
〝まさか……〟と呟くところだったのだろう。



佐賀は続けた。




「依頼内容は、
 この子の生活一切の面倒を見ることです。
 クライアントはスケートには一切の興味を
 持っていません。
 スケートに関する要望はありませんでした。

 おそらく、
 この子を預ける先を探し、
 ここを見つけたのでしょう。

 契約は結ばれ
 私は
 専属として
 この子の面倒を見ることになりました。

 怪我や病気の際に
 誰かが心配してやってくることは
 一切ありません。
 こちらの判断にすべては任されました。」



〝こちらの判断に
 すべては任された〟

佐賀は、
肝心なポイントがナンシーに伝わるための間を取った。




あまりに端的な表現は
伝達には効果的だが、
ときに相手を怯ませる。
佐賀の不器用は、
第一にその無用な圧迫感があげられる。




話は
淡々とまとめに入った。



「そして、

 私は
 様子の分からない部屋に連れていくことは
 望ましくないと判断しました。

 倒れたのです。
 今日は連れ帰ります。」




佐賀は言い切り、
ナンシーは職員の健康記録ファイルを開いた。




もう一つ
不器用な点を挙げるなら
この語調だろう。

佐賀の言葉に〝相談〟の要素はない。
いかなるとんでもない事案も
決定事項として伝達されるだけだ。


それは、
話された人間を
どこか息苦しくさせる。




〝相談〟に乗りたい人間は
特にそうだ。
何とかしてやりたくても
手の出しようがない。




「今日だけになさいね。」


佐賀のページを開き、
デスクの電話に手をかけ、
ナンバーを目で追いながら、
ナンシーはさらりと口にした。



これができるから、
ナンシーは頼りになる。
彼女は誰にたいしても自然体だった。




タクシーを呼んでしまうと、
ナンシーはきちっと
デスクに両手を組んで佐賀を見上げた。



「倒れるまで短すぎね。
    医務室としては気になるわ。
    改めて健康診断を受けてもらいます。
    で、
    滑り出すまで早すぎ。
    天使さんには地上のやり方を覚えてもらわなくちゃね。

   サガ、
 指導者と保護者って
 別種の生き物よ。
 だからね、
 今のは指導チームとしての言葉よ。
 いい?」




佐賀は頷いてベッドに向かった。


倒れた。
そこを無視できない。
トレーナーだから当然だ。


ただ
佐賀は、
橘少年を取り巻くものの違和感に思う。


   …………
 誰に対して
 どんな責任を
 俺は負うんだ?


一瞬考えた。



どの生徒もその子を取り巻くものをもっていた。
国の期待
家族の応援
そして…………愛情。




その愛情というものを
佐賀は
不思議なものを見るように
眺めてきた。




抱き締める
声をかける
涙を流す


何にも勝る守りが
どの子にもあり
ときに重苦しくさえなる〝期待〟も
しっかりと受け止めている。





橘少年は
それをもたない。




佐賀は
その腕に少年を抱き上げた。

 やはり……感じない。

軽かった。
羽根のようにふわりと腕に収まった。
重さというものが感じられなかった。



「天使は
 人には扱えないものよ。

 保護者はほどほどにね。」

ナンシーが手を振り
佐賀は医務室を後にした。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。




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