この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






市街地に程近く
静かな住宅街の一角に
佐賀はいた。
車を停め道の様子を窺う。


 飛び出してはこないな
 だいじょうぶか……。


菅谷兄妹が入った部屋は
まだ灯りが点っていた。




 出会った……。



その灯りを見つめながら
佐賀は思い返す。


菅谷幸人の言葉は
印象的だった。


   俺は道子に出会い、
   瑞月に出会ったのか……。



道子を思った。


ゆきの姿も声も
道子が現れたかと思うほどに
似通っていた。

だが、
そう思って道子を思い出そうとすると
その姿は靄に隠れ朧になる。



 道子は
 なぜ
 屋敷に下宿していたんだろう



佐賀の脳裏に
初めて
そんなことが浮かんだ。

佐賀は、
あまりに人の世というものに
慣れていなかった。

赤子のように
道子の導くままに歩き出そうとしていた佐賀には、
道子は道子だった。
子どもにとって母が母であるように。





〝狼さん
 ほら
 星が綺麗よ。〟

そう言われて空を見上げた。



〝一緒に見ると、
 綺麗なものはもっと綺麗になるの。

 綺麗でしょう?〟


綺麗か……。
指し示す白い細い指の先に
煌めく星空はあった。


そうだ
綺麗だと思った。



〝手を出して
 お薬塗らなきゃ。〟

そう言われて手を出した。

〝早く治りますように〟

そう言われて温かくなった。
次の日も
そう言ってほしくて
そっと手を出した。



〝私、
 あなたを幸せにしたい。
 寂しがりの狼さん
 あなたを一人にしたりしない。
 いつも一緒よ。

 だいじょうぶ
 だいじょうぶだから……。〟


 道子、
 だいじょうぶじゃなかったぞ……。


佐賀の思いは
揺らめくように
道子を抱いて広がる海に沈んでいった。



道子は見つからなかった。
あの海のどこかに
眠っているんだろうか。



ただ眠る道子
その頬をなぶる黒髪が
ゆらゆらとその眠りを守る



道子のイメージは
いつも
静かに眠る姿だった。




  なぜ道子はいないんだろう……。


時折、
無色となった世界で
ふっと不思議になっては
ああ眠っているんだ
などと
思ってきた。


その一瞬
世界は青く透き通り
潮騒は優しく
眠る道子は美しく笑みをたたえて漂った。






本当に不思議なほど何もかもが
色を失った。



お前に会う前は
世界に色があるとも気づかずにいたから
無色の世界というのも
初めて知った。


ぼんやりと
そんなことが浮かぶ。




街灯は明るく
舞う雪は
灯りに美しい。



今、
世界は美しかった。
見せてやりたいと思う。

瑞月に見せてやりたい。
胸に抱き、
共に見つめたい。

道子は
そうしたとき
微笑んでは頷く。






あの夏の日
染み入るように
世界は色彩を取り戻した。




瑞月が
そこにいて、
目を奪われた。

ひどく美しい少年だ。
そう思った。
何かを美しいと思ったのは
5年ぶりのことだった。





〝佐賀さん
 ぼく……どうだった?〟


夕刻の言葉が浮かび
胸が締め付けられた。
痛かった。


胸が温かくなる感覚は
道子が教えてくれた。
胸が痛くなる思いは
瑞月に与えられた。






佐賀さん
佐賀さん
…………瑞月は呼ぶ。





   罪深い……。

 
甘い声を思うだけで
下腹は熱くなる。
滾るものを抑えることが日々の苦行にもなっている佐賀だった。


佐賀はその欲情を罪深いとは
思っていなかった。
少年か少女か……。
そんなことが問題になるとも思っていなかった。





佐賀にとって
欲情は
あまりにも〝生きる〟に直結していて、
是非を超えていた。




    あの人には
    必要だった……。



佐賀は
愛撫が
その人を生かすことを
知っていた。


その人を生かしたかった。



〝体が欲するとは違う〟


今、
幸人の言葉が
しみじみと痛い。


その人は
春浅い池に浮いていた。
桜を待つこともなく
その人は逝った。





そのときには
自分が痛みを感じているとも思わなかった。


その人にとって
〝佐賀海斗〟はいない。
単にそれだけのことだった。


今、
思い返すと
それはこんなにも痛い。




   俺では
   生かせなかった
   あの人は
   〝あなた〟のために生きていた




魂が必要とするものだけが
人を救える。
そういうことかもしれない。



佐賀は
いつしか
さらに記憶の旅を辿っていた。





道子を抱く。
それは
優しくて静かな時間だった。



ただ満たされて
幸せになった。


昼の様々は
一つ一つを楽しみ
夜の営みは
ただ共にあることを確かめる。



道子と共にあった世界は
未来を内包して
鮮やかに甦る。


佐賀の知らぬ家族の物語が、
そして、
共に
美しいものを眺めながら
老いていく夫婦の物語が、
世界を色鮮やかに描き出していた。





欲情……。


佐賀を求める女たちのそれは
厭むほどに知っていた。


与えるまではおさまらない。
与えたら与えたで
女たちは望んだ。
その次を望んだ。


〝わたし、
 あなたのものよ。〟


ほしくなかった。
ほしくなくとも行為はできる。



女たちは
その魂の出会いを
欲情に重ねていたんだろうか。

抱いたとたんに生まれるものが
女たちを狂わせていくのを
不思議なものを見るように眺めていた。


佐賀には分からないことだった。
欲情そのもの
特に感じたことがなかった。



道子とのそれは
あまりにも優しいもので
女たちのそれとはかけ離れていた。



 欲しい
 欲しくてたまらない


どうにもならぬほどに残るのは、
瑞月への思いばかりだった。
それは、
内から溢れて止むことがない。





〝佐賀さん
 ぼく……どうだった?〟


アイシテイル
アイシテイル
………………。

それを
必死に伝えている瑞月がいた。



その瑞月の言葉に
突き上げるものがあった。
それを
こうしてかわしながら
生きている。



 瑞月…………。



部屋の灯りが落ちた。
佐賀は
さらにしばらくそこに踞っていた。



幸人の言葉が痛かった。

出会った……
出会った……
それを受け止めるのが怖いだけなんだろうか。



日付が変わる前に
佐賀は
車を出した。


 瑞月…………。
 お前が待っている


画像はお借りしました。
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