この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






菅谷は助手席に収まった。
車内の空気は冷えきっていて、
佐賀が自分を待っていた時間を感じさせた。


車は滑らかに
白いものが舞う道へと滑り出た。
街の灯りに浮かぶカナダはニューヨークより
冬が早い。






「私を慕っていると
 言われました。」

淡々と佐賀は語り出した。
小一時間はかかる道のりだった。




「はい」

菅谷は
予測した言葉を静かに受け止めた。


〝最初は
    こわかったのよ〟


細い腕が
男の背中からその首を抱いていた。
それを外す静かな手に
迷いはなかった。



幸人の秘めたものを姉妹が読んだように
幸人もまた
所作に思いを読んでいた。






「私は
 今
 少年と暮らしています。」


静かに言葉は
途切れる。

ハンドルにかかる手には
少しの揺れもない。



菅谷が〝少年〟の意味を理解するに必要なだけの時間を
佐賀は待つように思えた。




「……大事な人なのですね。」


菅谷は
受け止めた。



「はい
    命より」


簡明な返答だった。




「良かった!
    5年経ったんです。
    もう歩き出さないと。」


菅谷は声を明るく張った。





「ひどく
    興奮していました。」

亡き妹の婚約者に気を遣っての
菅谷の返答には応えず、
佐賀は続けた。





「……少年だったからですか?」

菅谷は
はっと
警察署に向かう今を弁え、
再び
ゆきの今に集中した。

揺れる思いはあったが、
それどころではない。





「いえ、
    恋人かどうかを
    繰り返し尋ねられました。

 恋人が少年か少女かは
 問題ではなかったと思います。」





つい性別に思いをいたすのは、
自身がうんざりするほど積んできた経験から思ったことだ。

菅谷は
あまりに世間の反応を知りすぎていた。
ニューヨークですら、
それは厳しいものがあった。





何より、

〝女の子に間違われない?〟

ゆきの言葉には
察してからかう響きがあった。





「興奮していたと
 仰有いましたが?」

どんな言葉を発したのか
確かめたかった。





「恋人ではないと応えると、
    取り返すから
 と
 言っていました。

 少年には
 負けないから
 と言い残していました。」





〝取り返す〟
〝負けない〟

菅谷は
その言葉を反芻した。





視界に湖はまだ広がらない。
市街地へは
まだまだだった。





「取り返す……。
 負けない……。
 あなたはゆきのものだったことはないのに……。」


その身代わりのような感覚が
菅谷をざわつかせる。
語尾は疑問を投げ掛けて途切れて消えた。





佐賀は
菅谷にしばし考える時間を与えるように
静かに待った。





菅谷は自分の考えを
言葉に辿る。


「取り返すとしたら、
 道子です。

 ゆきではない。」




佐賀は、
息一つの間を置いた。


「ゆきさんは、
 髪を長く伸ばしていました。

 道子さんが現れたかと
 驚きました。」




菅谷が
それを受け止める間に
佐賀は続けた。




「お母様とカナダにいらした時は
 気づきませんでした。

 空港では
 髪は
 帽子の中に隠れていました。
 
 食事をし、
 アパートに送りました。
 私の住まいはお知らせしました。

 同じカナダに暮らす保証人として
 アパートの管理人に挨拶しています。

 ただ……。」




亡くなって5年経つ道子の縁で
ここまで引き受けてもらえることは
有り難いことだった。

また、
引き受けた保証人として、
自然な行動だった。




「ただ?」

菅谷は促した。




「お母様は、
 私のアパートに
 ゆきさんが出入りすることは
 厳に禁じておられました。
 男性の独り暮らしなんだからと。

 私も賛成しました。

 少年のアパートに越して
 その連絡を入れてから
 その子の入院騒ぎなど立て続きました。
 
 男住まいだから同じだと言ってあったのですが、
 もう独り暮らしではなくなったのだからと
 突然訪ねてきたのが
 つい先日のことです。」


佐賀の説明は淀みなかった。





菅谷は落ち着き始めていた。


佐賀の行動は
ごく尋常に思えた。

大事な存在だという少年は、
いったい何者なのだろう。

菅谷は
そこも
また
尋常な答えが待っているような気がした。





「私が暮らしている少年は
 私がトレーナーを務めるスケーターです。」


佐賀は平静に続けた。
事実そのままを語る以上でも以下でもない。
その声が語る真実が菅谷を安心させた。




「ああ
 そうなんですか。」

菅谷の声が
やや弾んだ。

問題はゆきの心情とわかっていても、
少年の存在が引っ掛かっていたのは本音のところだった。




 なんだ
 ゆきの勘違いだ。

 恋する思いはあったんだろう。
 自分の姿を姉の姿に似せたのは
 佐賀の気に入りたいゆきの恋心だ。

 佐賀は
 仕事をしているだけだというのに、
 無闇に自分の恋を押し付けて
 拒まれた。

 ゆき
 お前は道子ではないんだ……。




前方が
ふっと広い闇となって広がった。
点々と縁取るライトの先は
水平線をもった巨大な湖だろう。




 ああもう半ばまで来た



警察署に待ち受ける妹の姿は
ようやく得たいの知れないものではなくなった。

ほう……と
菅谷は深く息をつく。





少なくも
その状況は見えた。
それだけでも今の菅谷には
十分だった。






「少年は
 私にとって恋人以上です。」

「ええ
 しかも
 今はシーズンですよね。
 ゆきの我が儘をお詫びします。」

佐賀は
湖に向かって呟くように囁き、
菅谷は
心から申し訳ないと感じた。





「シーズンに関係はありません。
 スケーターであることも関係ない。

 私は彼を愛しています。」


佐賀は
湖に沿ってハンドルを切り
菅谷は
耳に入ったコトバに戸惑っていた。




「……そうですか。」

声は喉に絡んだ。



5年が既に流れていた。
〝私、
 佐賀さんを幸せにしてあげたい〟
そう語った道子は
もういない。


生きている者は
先へと進まなければならないのだ。
菅谷は
それがわからぬ人間ではなかった。



ただ
道子を愛した男が
少年を選んだことが心を刺す。



    無理をしていたのか?


自分自身の20代までを
菅谷は息苦しく思い出していた。


〝君が好きだ〟

ウソではないが、
ホントでもないコトバ……。




「道子さんと出会うまで、
 私は
 知らないことが
 たくさんありました。

 知らないことも知らず、
 ただ生きていました。

 道子さんが
 私を見て笑いました。
 〝寂しがりの狼さん〟
 と
 言われました。」



佐賀の声は
菅谷の思いに関わらず
湖面に流れていく。





光の帯が湖を縁取り
そこを渡る船の幾つかは
目映い灯りに彩られた宝石箱のようだ。


見えない湖面は
その先に航路を示すのだろうか。


問わず語りに相応しい背景に
菅谷は
ただ
湖を見詰めながら耳を傾けた。




湖は美しかった。
縁取る灯りの華やかさは
季節を現している。

 船そのものが彩りなんだな
 操舵室の中の船員たちが
 ビシッと背筋を伸ばしているのが
 風情がある。
 Christmas期間が始まっているんだった。



〝寂しさが結晶して服着て歩いてる〟
そうか。
道子、そうだったんだな。

菅谷は再び道子の声を聞いていた。





「この夏まで、
 私は
 ただ息をするだけの毎日を過ごしていました。
 トレーナーの仕事は
 そんな生活にはちょうど合っていたように思います。


 穏やかな毎日でした。


 夏に
 その少年に出会いました。
 少しも自分で生きようとしない子でした。

 それが
 ひどく気になりました。」




前方に
林立するビルディングが見えた。
佐賀が深く息をつく。

菅谷は
その先を静かに待った。




「ある日、
 彼は私に投げ出されました。
 どうして
 そうなったのか分かりません。
 理由はどうでもいいと思っています。



 ただ
 少年は
 私だけを頼りにするようになったのです。
 恋ではありません。

 
 恋ではありませんが
 今、
 あの子にとって
 世界は私だけです。

 だから、
 ゆきさんには
 恋人以上だと言いました。」



佐賀は、
言い切って、
表情は水のように静かだ。

菅谷幸人は
物語を
そのままに受け入れていた。



〝佐賀さんを幸せにしたいの〟
道子は微笑む。

月光に浮かぶ道子は
美しかった。



「私に
 そこまで
 お話いただく理由が
 わかりません。」


菅谷は
佐賀のコトバに
ウソを感じなかった。

〝君が好きだ〟
そんな薄っぺらなコトバは
道子にも
その少年にも
与えられはしなかっただろう。

ウソが無さ過ぎて
ひどく重い。


…………重かった。





「道子さんは
 今
 私の中にいるように感じています。

 そう申し上げておきたいと
 思いました。」


「道子は
 ……いますか?」

「はい」


佐賀の言葉は
いちいち簡明だった。




「母は
 もうやめさせなければ
 と
 言っていました。」

菅谷は
ポツンと呟いた。

ゆきの思いが
また
ひどく重い。




湖は
見る間に後ろへ消え、
道の両側はChristmasシーズンの輝きに満たされた。


佐賀は
それには応えなかった。

まだ何とも言えない。
そういうことだ。
菅谷は
ふと
また指輪をそっと撫でていた。



 ゆきは
 この男が欲しかった
 欲しかったんだ。
 でも、
 なぜ……取り返すなんだ?



車内で
佐賀はそれだけを語った。



画像はお借りしました。
ありがとうございます。



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