この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。





この数日、
ウィリアム・バートンと
階下のラウンジで
やるせない時間を共にしていた。


〝生きることは
 呼吸することですからな。
 自由に呼吸させてやりたいです。〟


小さな呟きは
あまりに小さく
そもそもグレンに聞かせるために呟いたものともつかなかった。
そのとき、
グレンは応える必要を感じなかった。
ただ腕にアベルのいない時間を焦れていた。




アベルを待ちながら
久遠にも似た時間を過ごしていると、
バートンの呟きがやるせなく甦る。


ベッドを抜け出すアベルを
わかっていながら止められなかった。
怖かった。
止めて聞く悲鳴が怖かった。
逃れようともがく細い腕が怖かった。




アベルが閉めるドアの音を
息を殺し、
背中で聞いていた。



〝カチッ……〟

重い重い鉄の蓋が閉まった。
自分は
あの瞬間
鉄の箱に自らを閉じ込めた。




グロリアが開いた蓋は
思いがけず破滅をもたらすものではなかったが、
肉体の破滅など
グレンには些事にすぎなくなっていた。


ようやく手にした愛しい者を失い
ただ一人
闇でも光でもない茫漠とした海を漂っていく己を思うと、
その破滅は恩恵ですらあった。



アベル

アベル

………………。


その小さな顔が
恐怖に強張って己を見詰める。
その幻が
グレンを苦しめていた。





コンコン……。


ノックの音が、
誇らかに響いた。


グレンは
ゆっくりと立ち上がった。




待ち受けるグロリアは、
ノックに
ピクン
と震えるアベルの手を優しく握り返した。



クリスマスリースに華やぐ廊下に
老婦人の姿を借りたクリスマスの精霊がいた。




精霊は
人々に良きクリスマスを
届けて回る。
人は間違い多く罪深い。
が、
罪深いからこそ愛おしいものだ。




少年を怯えさせた欲情は、
中でも
度しがたい罪であると共に
人を人たらしめる重荷だ。

それは
ときにひどく美しい罪とも
清らかな救いともなる。




グロリアは
起きたことを
そう推し量っていた。


幼い魂には、
それは
ひどく恐ろしく罪深いものと
見えただろう。


そして、


……無理もない。
己の罪に怯える男を
愛しく思っていた。




今、
老いた自分の手を
すがるように握る小さな手の柔らかさがある。

飛び込んできた少年を守るのは、
グロリアの己に課した務めだった。



不思議な物語は、
また
考える暇ができたときに考えればよいことだ。
今大切なのは、
恋人たちの歯車を優しく回してやることだ。


グロリアは
そう考えていた。




開くドアの向こうに
落ち着いた仕立てのグレーのスーツが現れ、
黒い髪を額に垂らし
僅かに俯いた端正な顔が
夢のように浮かぶ。



グロリアは
〝さあ
 今よ〟
握った手をキュッと引いた。




サラサラッ……。

脇の少年のドレスが衣擦れを立てる。
可愛らしいお顔は
ちゃんと男を見上げたろうか。



男の眸が
静かに上がり
見開かれ
その唇が開きかけて……とじた。



男の顔に
十分な効果を確かめ
グロリアは満足した。


「どうかしら?
 病気が長かったのですもの、
 髪を短くしていたのよね。

 ほら、
 こうしたら付け髪もいらないわ。」



少年は
驚いていた。

 ぼくのこと
 ……好きなの?




〝いらない子だから
 連れてきた〟
そう言ったとき、
男は肩を震わせた。
そのときも驚いた。



今は
また驚く。
己を見詰める眸に驚く。




「あの……ごめんね。」

自然に
言葉が滑り出た。

グロリアが
また
優しく手を握る。




とても大切にしてもらっていることは、
アベルもよく分かっていた。
そして、
今、
グレンは
ひどく頼りなげに見えた。



グレンの涙は
見ていた。
悲しそうな顔も知っている。
自分を求めてくれているのも感じていた。


が、


こんなにも
触れたら崩れてしまいそうな様子は
初めてだった。



そのアベルも
また
グレンを驚かせていた。



リボンとレースと
お花の髪飾り。
少し大人びた幼妻を演出していたピンクのドレスが、
今は、
幼さも
無邪気さも
あるがままに引き出して年相応の愛らしさが眩しかった。

短い髪が
こんなに可愛く
アベルを少女に変身させるとは、
グレンには思いがけないことだった。



そして、
小さな胸に本だけを抱き締めて
安楽椅子とベッドしか知らなかったか細い肢体が、
弾むような息遣いに生き生きと見える。



 ……歩いてきたんだろうか。



ドレスを着ての外出を厭い
ベッドにばかり潜り込んでいたアベルは
館にひっそりと生きていた頃の姿に戻っていたことを、
グレンは改めて意識した。




「私、
 靴をプレゼントしましたの。

 もうアリスは、
 歩けますのよ。」


さあ!
グロリアの眸が励ます。



グレンは
その手をアベルに差し出した。
抱っこではない。

背筋を伸ばし
その右手を手のひらを上に
アベルの小さな手を乞うて
差し出した。



グロリアは
そっと
握っていた手を離し、
自身はくるりと階段へと踵を返す。







残った二人は
できるはずだ。




乞われて
その手を託すこと。

与えられた手を守り、
エスコートすること。



世にも美しい二人が
並んで階段を下りていく。


 後でウィルに聞かなくちゃ。
 どんなに素敵な姿だったか、
 背中じゃ見られないもの。



クリスマスの精霊は忙しい。
グロリアは、
アベルのプレゼントの準備に
忙しく頭を働かせ始めていた。




画像はお借りしました。
ありがとうございます。




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