この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




開くドアを合図のように
ピアノは
その調べを奏で始めた。



 ああ
 子どもの情景…………。


タン…タン…タンタタン……
タン…タン…タンタタン……
………………。




子供部屋の主は華奢な肢体に
ふんわりとしたドレスを纏っている。



ゆらゆらと
室内を動く影が幾つか
花を花瓶に差し
水差しを運び
紅茶にマフィンをテーブルに調え消えていく。


ただその人だけがくっきりと浮かび
他は沈む。



朧な情景が始まる。



ひっそりとエレベーターに滑り込み
ふうっと6階に現れた長身は
その音に浮かぶ情景に誘われるように
音楽室へと入っていった。



短い短い作品は
ゆらゆらと陽炎のように
優しい風景を乗せて漂う。



静かに
入り口近くの椅子に座り
海斗はピアノに身を委ねた。




そこに浮かぶ母は
一人の少女だった。


自分の知る情景なのか
自分が思い描いた情景なのか
ただ
そこに邪気はなかった。



禍々しく少女を誘う影は遠く、
肩に流れる切り下げ髪に
ふっくらとした唇は
少女のそれだった。


ゆらゆらと奥に
影たちが揺らすのは
揺りかごだろうか。





頭の中にパラパラと捲られる
アルバムに
それは見つからない。



不思議な幸せの情景。



それは儚いながら
無垢の輝きに目映かった。



タタタタタタタタ……タタタタタタ…………バタン!


〝海斗にしよう!
 いい名前だろう?〟

明るい男の声が響く。
駆け入ってきた男の髪は短かった。




ピタリ
ピアノは止まった。






水澤が
ピアノを弾く手を
止めていた。



しーーーーん
途切れた音にじんじんと耳に伝わる沈黙。


ピアノと小さなステージ
そこまでを埋める
茶色のニスに塗られ背を丸く金属の輪に’支えられた生徒席


ピアノの前に座る白髪交じりの男の
視力をもたぬ眸が
真っ直ぐに
海斗をみつめている。



「今のは
 何ですか?」

「シューマンの子どもの情景です。
 幸せの情景ですよ。
 子どもは
 皆
 幸せの情景をもっているのでは
 と
 思いました。」


…………揺りかごがあった。
自分の記憶では
あり得ない。


だが…………髪の短い明るい声の男。





「私の幸せの情景だと
 思われますか?」

海斗は低く囁いた。


「そうかもしれません。

 私は
 どうやら
 水先案内人のようです。

 自分でも
 どこに向かって案内しているか
 分からないのが難ですがね。

 ただ弾き出していました。」


水澤の声は深く
語る言葉を
自分でも噛み締めるように
ゆっくりとしたものだった。



「私の名前を決めた人を見ました。
 〝海斗にしよう〟
 そう叫んで
 揺りかごと母がいる部屋に飛び込んできました。

 …………髪の短い人でした。」



海斗の応えも
また
ゆっくりと押し出すように
唇を洩れる。


三時間目終了のチャイムが
水澤の背を
ピシッ
伸ばした。



「きっと
 あなたに必要な
 あなただけに必要な道標でしょう。

 そうした道標を読み解くのも
 長の務めです。」




ざわめきが
階段を上がってくる。


巫が
長のもとにやってくる。


そして、


長の守るべき人々が
やってくる。




自分が守るべきは
鷲羽の名のつくものではない。
鷲羽の名のもとに光を集め闇を祓うことが
何かを守る。


それは、
たとえば大人クラスの面々だ。



海斗は立ち上がり
ドアに向いて
心を解放した。


さあ
ここで会おう


画像はwithニャンコさん作成の
瑞月人形です。