この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。



高い高い階段が
目の前にそびえ立っていた。
その脇には
あの夜と同じく篝火が燃えている。

一段一段に置かれた篝火は
光に包まれた高みまで
続いていた。


 ああ
 あの階段……。
 あのお方が上られた階段だわ…………。


大理石の石段が
篝火の揺らぎを映して
絶え間なく色彩を変える。


いやいやお嬢様、
あれは白木の段(きざはし)、
これは少々洋風に過ぎるのではございませんか?


言いたいところだが、
そこがシンデレラだった。


綾子は
王子様に続く長い階段の下にあって
光に包まれた城を見上げている。




その扉が開き
甲冑を身に付けた騎士が
漆黒の毛並みも艶やかな馬に跨がり
現れた。


光を背に影に沈む顔は見えない。
ただ
そこにある人はその人でしかなかった。


 ああ海斗様…………。
 

引き絞られていた手綱が
さっ
緩む。


騎士は
一文字に
馳せ下りてきた。

カッ
カッ
カッ
カッ
カッ
…………

 海斗様
 海斗様

綾子の胸は
蹄の音と共に高鳴る。

もう黒馬のたてがみが靡き
その甲冑が篝火に煌めくのが
くっきりと見える。


綾子は
さっと馬上に抱き上げられた。

騎士の力強い腕は
もう
何の心配もいらぬと
綾子を安らがせる。


その胸に顔を埋め
綾子は幸せだった。


手綱が絞られる。
逸る馬をなんなく落ち着かせ
騎士は
優しく綾子を抱き下ろした。


 え?

綾子は呆然と見つめた。


足元から遥かに続くのは
磨き込まれた長い長い板敷きの道だった。


「さあ
 廊下につきました。
 雑巾がけですね。」


 ええっ?

綾子は
騎士の顔を見上げた。


額にくしゃっとかかる癖っ毛の前髪
すっと形良く引かれた眉
涼しい眸
精悍な顔立ちに優しい微笑みが浮かぶ。


「高遠様?!」


騎士は
そっと綾子の頬に触れるように
手を近づける。


綾子から黒縁メガネが外された。


 私……外してたと思ったのに……。



「隠す必要ないです。
 もったいない。
 すごく綺麗です。」



じりりりりり……。



綾子は
反射的に布団をかぶった。

ジリリリリリリリリリ……。

目覚ましとは、
誰かが止めるまでは鳴る。


お嬢様は一つ一つが勉強だった。


細く美しい手が
やや荒っぽく布団から伸び、
何回かの空振りを経て
古式ゆかしいベルを頭に乗っけた目覚まし時計を押さえた。


しーん

静寂は戻った。
その向こうから微かな賑わいが
耳に届く。


 カチャカチャ……
 トントン……
 ザザ―ッ……

お屋敷は既に目覚めていた。



明け方の夢は
ジリリリにぼやけ
綾子は
初めての屋敷の朝を迎えた。


和室に布団。
昨夜は
咲が来て押し入れを開けて
あれこれと世話を焼いてくれた。

〝明日からは自分でするんですよ〟

そう言って
そっと出ていった。




それに…………。
なんとなく
真夜中に
襖が閉じるのを見た気がする。

布団を押さえる
優しい手の記憶が
微かにあった。



 咲様だ…………。


ちょっと痛む胸に
温かく沁みるものがあった。





えいっ
起き上がり、
教わった通りに布団を畳んだ。


お仕着せを着込み
鏡を覗くと
目が腫れている。




〝恋は叶わぬこともある〟

…………綺麗だった。
二人の姿がよみがえる。
ちりっ
胸が痛んだ。



 さあ
 頑張らなきゃ!!

ガラガラ


雨戸を開けた。
綾子は、
行儀見習いとして、
母屋の一角に部屋をもらっていた。

雨戸を開ければ
すぐ先に洗い場ば見える。




「おはようございます!」

綾子は
思い切り声を張り上げた。

〝おはよう〟
〝起きたわね〟
〝元気 元気 気持ちいいですよ〟

声が返される。



〝すぐ参ります!
 今日も
 よろしく
 お願いいたします!〟


お辞儀して
障子を閉めて
綾子はふうっと息をつく。


 頑張ります
 お祖父様



昨夜見た影は甘く
まだ
その痛みは残るが
その影に学んだ真実はあった。



 お祖父様
 大切なのは〝生きる〟で
 正解ですか?

そっと
胸に浮かぶ祖父に尋ねてみる。
憲正のいかつい顔に笑みは浮かぶが
答えはない。



答えは分からなかったが
少なくも
その真実は微笑み合う二人に
明らかだった。


 生きようと思ったのが
 出会いの始まり


そして、
高遠の厳しい顔に
綾子は分からざるを得なかったことがある。

 真剣に
 好きになる

って
どういうものだろう。


自分は
それをまだ知らない。
知らないと痛感した。

 …………身も心も一つにって…………。




シンデレラではない恋がある。
その恋がどんなものか。
それは
これからだった。




早番の女衆は
お屋敷一番の早起きをする。
皆に食事を振る舞うからだ。


飛んで来て
せっせと顔を洗う綾子も
その波に入る。



「もうすぐ早番の男衆の皆さんが
 来ます。
 広敷の卓を準備してね。」

広敷に
卓を並べ
きつく絞った台布巾で
キュッキュッ
小気味良い音を立てて拭いていく。



家人以外の者も
食事は必要だし、
それは栄養も味も十分なものでなくては
いけない。

お屋敷では
客人を迎えての特別な晩餐でない限り
家人と仕える者との区別はなかった。


自分の屋敷ではどうなのか
帰ったら訊いてみよう
などと
思う間に男たちの声がする。


屋敷は生きている。
それは
皆の働きに生きている。
台所は
それを教えてくれる場所だった。


昨日の廊下掃除は
じつは
練習だったようだ。
それは既に済んでいたはずだ。


せわしなく
バケツに水は汲まれ
運ばれていく。


同じ時間、
母屋の隅々まで
箒と雑巾で清められる。
掃除機の音は母屋には響かない。


 私
 ほんとに
 まだまだなんだわ。

 雑巾がけの極意習得!

綾子は
ますます増える目当てに
あっぷあっぷ気味ではあったが
奮い立ちながら
待っていた。

今日
一番にすべきことを
待っていた。




「おはようございます」

 高遠様……。

綾子は
待ち受けた声に振り返る。



高遠が井戸端に現れた。
水道だけではない。
桶で組み上げる井戸がある。

高遠は
それがお気に入りだった。


〝おはようございます
 たけるさん〟

〝良い朝ですね〟

〝たけるさん
 毎日お早いですね。〟

女衆は
ぱっと華やいでいる。
高遠の笑顔はその中心だ。
綾子は
その笑顔をじっと見つめた。



高遠は
持ってきた手拭いを
井戸の縁にかけ
さっそく水を汲みにかかる。

するすると
井戸に桶を下ろしていく手つきも
すっかり板についている。



ざざーっ
盥に移す水音も
清々しい。



「ここの水、
 気持ちいいんですよ。」


高遠の声は
笑顔を呼び起こす。


綾子は
その笑顔の中で
井戸に向かって進んだ。


威勢良く顔を洗った高遠が、
ぶるぶるっと
顔を振るいながら
手拭いに手を伸ばす。


綾子は
さっとその手拭いを奪った。

そして、

「あの……どうぞ。」

その手拭いを
高遠の手に押し付ける。



「ああ
 ありがとうございます。」


顔からも
手からも水が滴る。
高遠は、
何の気なしに
うつ向いたまま受け取った。


よっ
背を伸ばし
手拭いを渡してくれた手に振り向いて
…………高遠はたじろいだ。



綾子が
まっすぐに
自分の目を見つめていた。



高遠は
昨夜の顛末を知らなかった。
知っていれば
また
心の準備もできたろうが、
予測できないのが人生の面白さだ。



高遠は
分からないまま
待ち受けた。



「高遠様!」


綾子は、
きりっと眦を上げる。

これは
高遠にこそ
聞いてほしかった。



「私、
 昨日、
 海斗様と瑞月さんに
 お会いしました。

 すごく綺麗で
 あんまり綺麗で
 だから
 分かりました。
 私は
 用がない人間だって。

 すごく恥ずかしゅうございました。」



井戸端は
いつしか静まり返り
綾子の声だけが
庭先に満ちた。


「私、
 でも、
 分かりました。

 本当に大切なことは
 自分がちゃんと生きることです。

 生きようと思った時が
 出会いだった。

 そう伺いました。

 自分がとても情けなくなりました。
 もう立ち上がれない。
 そう思ったんです。」


少女は悲しかった。
それは
変わらず悲しかった。

胸が
しくしくと痛み
今にも傷は開きそうだった。

綾子は
振り払うように続けた。


「でも、
 私、
 立ちました。

 泣かずに立ちました。

    私、
    知って良かったです。

    それは、
    高遠様のおかげです。

    瑞月さんの声を聞けて
    良かったです。

    高遠様に
    お伝えできて良かったです。

    だから、
    知ることができました。

   ありがとうございます。」

綾子は
深々とお辞儀した。
よし!
言い切った!
綾子は満足していた。


が、


一同は
密かにパニックを起こしていた。
少女の真剣さは分かった。
それはいい。
が、
何を知ったと言っているのだろう。



庭先はもちろん
モニタールームも
固唾を飲んだ。
`


高遠が
静かに返した。


「何を知りましたか?」


綾子は
目をぱちくりさせる。
つまり、
あの遠回しな言い方は
気を遣ったものではないらしい。


「海斗様には
 私は不要だと……。」

いや
それは皆が聞いている。
が、
そこは、
さすがお嬢様で
ご自身が感じたことが一番だ。


高遠は
次を尋ねるしかない。

「何に不要と?」


ん?
綾子は小首を傾げる。

話はし尽くしたつもりだったが
なかなか終わらないのが
綾子には
不思議だった。



「恋にです。

 海斗様と瑞月さんは
 身も心もお一つのお二人ですもの。」



ざわっ
空気が動いた。

皆が
綾子を見つめた。



そこまで静まり返りながらも
女衆も
朝食に集まった男衆も
あえて
視線は逸らしていたのだ。



皆の注視を浴び、
綾子は
慌てて言葉を補う。


「あ……いやらしい意味ではございませんのよ。
 すごく綺麗でしたもの。」


ますます
しんとするしかない。
 じゃあ、
 何を見た?


しんとする中、
民が進み出た。


「あの……ごめんあそばせ。
 綾さん
 お二人のどんなお姿を
 ご覧になったの?」



民の真顔に戸惑いながら
綾子は答えた。


「瑞月さんが
 海斗様に駆けよって
 海斗様は
 瑞月さんを抱き止めておられました。」


民は続きを待った。
もちろん皆も待った。
モニタールームでは
西原が椅子から転げ落ちそうに身を乗り出していた。


綾子はキョトンとして黙っている。


「……それだけですか?」

ついに
民が確認する。

「はい」

綾子が答える。


一拍の後、

はああっ……
止まっていた自動人形が動き出すように
あちこちで溜まっていた息が吐かれた。



「それは、
 身も心も一つというお姿とは
 言えないのではありませんか?」

民が優しく皆の思いを代弁する。


綾子は
周りを見回し、
そして
ああ
何かを理解したようだった。


まず
庭を見回して
綾子は
語った。

「私、
 キスもしたことがありません。
 だから
 想像もつかないんです。
 恋人がどんなことをするのか。」


あちこちで
綾子と視線があっては
目が逸らされていく。


綾子は
改めて
しっかりと息を吸う。




「だから感じたのは
 お気持ちです。

 互いに求め合うお気持ちです。
 お二人が
 実際にどんなことを交わされているかは
 わかりません。

 でも、
 お二人が求め合うお気持ちは
 とてもよく分かりました。」


綾子は
一生懸命
周りを見回した。

こんなに
他人に自分の思いを分かってもらいたいなんて
自分でも驚きながら
綾子は皆の視線を求めた。


そして、
ここは鷲羽だった。
バレたかバレなかったかとかの
下世話な話ではないことは
綾子の真剣さに伝わった。


皆の視線が
綾子に戻った。
それは、
静かに受け入れる目だった。



 ああ
 海斗様と同じね

綾子は思っていた。
 

 〝鷲羽は特別だ〟

その特別を守ろうと警戒する目は
とても厳しい。
そして、
鷲羽は人の〝生きる〟に寄り添う。
綾子は寄り添う視線に支えられて
残りを語った。


「互いに求め合うって
 怖いほど綺麗で
 間に入ることなどできないものですね。

 あまり綺麗で
 私
 悔しくなったんです。

 で、
 出会いをお聞きしました。


 私の剣幕に
 海斗様は
 私を見つめました。


 私に興味をもったんじゃないです……。

 瑞月さんを傷つけるのではないかと
 お考えになったみたいでした。

 睨まれました。」


綾子は
また
胸が痛んだ。
〝私に興味をもったんじゃない〟
自分で言って
自分で沁みていた。

いつの間にか
民が
傍らにいた。
そっと肩に手がかかる。

 温かい手……。

ぼんやり
綾子は
そう思った。



「で、
 生きようと思った時だと?
 それは、
 瑞月が答えたんですね。」

高遠の答えも
また
温かかった。



民の手をそっと外し
綾子は
民に一礼する。


これは
ちゃんと言い切らなくては
そう思った。

綾子は答える。


「はい。
 本当に打ちのめされました。
 お二人笑いあって
 〝生きる〟ことが大切だって
 仰有いました。

 思いの深さも
 何もかも
 私は問題になりません。

 まだ誰かと生きようと
 言える段階ではありません。
 生きるとか
 誰かを思うとか
 その意味も考えたことがございません。
 しっかり生きることから始めます。」



綾子は
高遠に歩み寄る。

そっと
その手から手拭いを受け取り
一歩下がる。


「ありがとうございました。
 高遠様のおかげです。」

綾子は
頭を下げた。



パンパンパンパン…………。

誰かが手を叩く音が
聞こえる。

それが広まる。
さざ波のようにそれが広まる。



庭先を包む温かさの中で
綾子は
手拭いを手に
深く頭を下げ続けていた。


「さあ
 みなさん
 もういいですか?」

そうして、
皆は聞きなれた声を聞いた。

咲が
土間から姿を現した。


綾子も
ぴょん
顔を上げた。

咲が
綾子に微笑みかける。



「動き出しますよ」


はい!


鷲羽の朝は
また
動き始めた。


「あの
 お洗濯して
 お届けします。」

綾子は高遠にぺこりと頭を下げ
急いでお勝手に駆け込んだ。



日常は動き出した。
その後1週間は
波風も立たずに過ぎていった。

瑞月は
リンゴの皮剥きができるようになり、
綾子は
廊下を一気に雑巾がけできるようになった。

自室の前を駆け抜ける綾子に
高遠は
爽やかなものを感じつつ
受験勉強に精を出した。



綾子の見習い最終日、
母屋には
お迎えの車が横付けされた。


古ぼけたスーツケースも
垢抜けないワンピースも
到着した時と変わらない。
メガネだけは外していた。


見習いとしてだからと
見送りは
三枝家から固辞されていた。


綾子が車に乗り込むと
後部座席には
三枝憲正が待っていた。


「どうだったかね?」

憲正は尋ねた。

「勉強になりました。」

綾子は静かに答えた。


「どれ
 見せてごらん」

憲正が綾子の手を取り
しげしげと眺めた。

慣れない水仕事に
さしもの白魚の手も少々荒れている。

「がんばったね。」

その手をぽんぽんと憲正が
ねぎらう。



「お祖父様、
 人が一番大切にしなくてはならないことって
 生きることですね。」

綾子が尋ねる。


憲正はしばし口をつぐんだ。
そして、
尋ねた。

「…………ここに来て
 よかったかね。」


「はい。」

綾子は万感を込めて答えた。



答えは正解とも違うとも
祖父からは出なかった。

綾子は
それでも満足していた。
もしかしたら、
その答えは刻々と変わるのかもしれないとも思った。

生きることが
まるで万華鏡のように
くるくると姿を変えるように。



そういえば
高遠に
聞いていなかった。

 あの方なら
 何とお答えになったかしら。
 それとも、
 やっぱり微笑むだけ?

開け放した襖に
乱雑な卓
片膝を立てて
そこに向かう精悍な横顔……。

 また
 伺えばいい
 また
 私はお会いするもの

返し損ねた手拭いを
綾子は
大切に畳んでトランクに入れていた。



「あ、
 お祖父様、
 私、
 鷲羽の皆様が5月になさるイベント
 お手伝いに行きとうございます。

 よろしいですか?」


咲には
もう許可をもらっていた。



「わしも
 セレモニーには出席する。
 構わないよ。」


鷲羽は5月に向けて
力強い味方を得た。

それは、
もう
わずか二週間ほど先に迫っていた。

イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。



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