この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。



母屋の天井は低い。
天井すれすれに届く長身は
総帥その人しかいなかった。

その胸に頬を寄せる瑞月は
し損ねたキスの引き換えに
意地悪で優しい恋人の胸の鼓動を
無心に聞いていた。

歩みは揃う。
同じ鼓動に揃う。



夜の帷は
人の灯す明かりに
その深さを増し、
姿より心を映す影に
綾子は魅せられた。



〝身も心も一つになりたい好き〟
生々しいものを感じて
ドキドキしていた気持ちが
嘘のように静まっていく。


 何だろう
 すごく綺麗……。

それは
ただ
文句なく綺麗だった。




「お母さん!」

瑞月が
咲の姿に嬉しそうに
影から飛び出した。


白地の浴衣に描かれた菖蒲。
その花に似たしなやかな肢体が
板の間を駆けてくる。



真白き花の顔(かんばせ)は
ほっそりと
浴衣の襟から延びる首に支えられて
笑顔に咲き誇る。



 ……すごく綺麗。
 この子、
 こんなに綺麗だった?

綾子は
高遠が恋うるという瑞月の
匂い立つ姿に目を奪われた。


ふっ
瑞月に寄り添う高遠が
浮かんだ。

キスしたい……?
言葉にしたときの猥雑なイメージが
消えていく。



 思うかもしれない…………。
 



可愛らしくキスを交わす
天使像が浮かぶ。

ただ、
それは、
高遠の眸を思い返すと
頼りなく消えかかる。



 花を愛でるのとは違う…………。



人にもそれぞれ気持ちがあることは
わかるようになっていた。



 海斗様…………。


ついさっき
思いがけず口から出た恋しい人の名を思い、
綾子は
また
頬の火照りを感じた。

 海斗様なら
 私……キスされたい。




長身の影は
綾子の姿を確認し
廊下の暗がりに
とどまっていた。

自分を避けているとは思わぬ綾子は
その影に目を向けた。




その影は
恋しい方のものだ。
綾子の目に
祭儀の夜が浮かぶ。

階(きざはし)を上がる儀の衣装。
そこに威を添えるのは
纏う男のオーラだった。

その高みにある
白木の舞台は
天上を思わせた。

そこに
男の足が置かれた瞬間、
祖父が微かに震えるのを感じた。



篝火に照らし出された秀麗な面差し。
人の世にあって
そこを離れた儀に臨む魂。
その眼差しにある底知れぬ力に引き込まれた。



そう。
あの篝火に浮かぶお姿に
私は囚われたのだった。
綾子は
灯りの外に止まる影に
それを思い出していた。





ぴょん
上がり口に止まる瑞月が
きちん!と
足を揃えた。


瑞月自身意識してはいないが、
瑞月の所作は
人の目を引き付ける。

綾子も
また
影に沈む面影から
引き戻されていた。




「心配かけて
 ごめんなさい」

咲は
土間に立ち、
微笑んでそれに応じる。


 抱きつくかと思ったのに……。


綾子は
意外に思う。




幼子が
母を見たら
その胸に飛び込む。

漠然と
そんな安心できる巣を
ちゃんと持っている小さな男の子のようなイメージを
綾子は抱いていた。



 飛び込む胸……それは、
 お母さん




「瑞月……。
 もうだいじょうぶ?」

「うん!
 ぼくは、
 だいじょうぶ。

 海斗もね、
 だいじょうぶだって。」

咲が
愛しげに
その頬に手を伸べれば
瑞月は
かがんでそれに応える。




そして、
瑞月は、
ちょっと上目使いになった。

「あのね、
 それで…………お腹空いちゃった。」



それは
十分に仲の良い母子の姿だった。



「分かってますよ。
 ここで食べますか?
 お部屋に持っていきますか?」




誰の胸に飛び込むか……。
それは、
次の瞬間に分かった。




「海斗!」

くるっと振り返り
瑞月は
長身の影に駆け戻っていく。

その影は
静かに腕を広げ
蝶々はその胸に溶けこんで消えた。




一つの影になった二人は
ひそやかに囁き合う。




互いの声の響きを愛しむような囁きは
その声の甘さだけが
土間に届く。


届き、
そして
ゆっくりと綾子に染み通った。



 海斗様は瑞月さんを見てる
 瑞月さんは海斗様を見てる

〝瑞月の好きは
 身も心も一つになりたい好きでは
 ないからです。〟





瑞月が
ふわり
灯りの中に現れた。

「お母さん、
 ぼくたち、
 洋館に戻るね。」


「わかりました。
 食べたものは朝片付けます。」

咲が応じる。



瑞月が
後ろを振り返る。
総帥に笑いかけたのだろう。
そう思うとかっとなった。




頭の中がスパークしたようだった。

恋い焦がれたあの夜、
あの方が見詰めていたのは
月の精霊だった。

この子を見つめて
あの方は
階を上がったんだ。

高遠の悲しい眸が
膨れ上がり
綾子の中で弾けた。

 身も心も一つになった二人を
 自分は見ている。




綾子は
思わず飛び出し、
上がり口の置き石に飛び乗った。




「瑞月さん!」


夕食の支度の前に
女衆のお仕着せに着替えた綾子は
その薄い鴇色の着物で
足を思いきり踏ん張っていた。

お嬢様にも似合わぬ
まるで
少年相撲の男の子のような綾子に
瑞月は
驚いて立ち止まる。




後ろの影が
初めて動いた。



一歩踏み出したその影から
あの秀麗な顔が灯りにその彫りを深くして
再び浮き上がる。
浮き上がり、
綾子を真っ直ぐに見詰めた。



その眸は、
この子を傷つけるかもしれないものを
見つめているのだ。


 それは私だ。

綾子の踏ん張った足が震える。



あなたの愛する子を
私が傷つける。
あなたにとって
私は
そんなものになっている。

綾子は
それが身を切られるように辛く
それでいて
どうしても退けなくなっていた。




真ん中に立つ瑞月が
ん?
戸惑い
綾子の視線を追って
振り返ろうか
肩が回りかけた。




「瑞月さん!」

綾子は
もう一度呼んだ。


 あの方の物語に
 私はいない。

 あの方の物語にいるのは
 最初から
 この子なんだ……。


シンデレラの憧れは
侵入者を見つめる鷲羽海斗の目に
砂の城のごとく掻き消されていた。


そこに
シンデレラの夢は
入る余地がなかった。




綾子は
息を吸い込み
そして、
尋ねた。


「あなた、
 海斗様と
 いつ出会ったの?」

覚えず
言葉が高圧的になる。




「え?
 なあに?」

戸惑って綾子を見詰める瑞月に

「瑞月
 答えておあげなさい。」
咲が声をかけた。



平静な声だった。
お下げ髪を振り立てた綾子も
その綾子を目で押さえ込もうとする総帥も
まるで意に介さない。



刃を秘めた空間にあって
咲は
泰然とそれを見詰める。



勘の良い素直な少女の真っ直ぐな問いは
答えを自ら求める。
その答えは二人で生きていく覚悟の深さをも
問うものとなるはずだった。

そして、
瑞月は必ず答えを見付ける。
咲は信じていた。




瑞月の小首が傾げられる。


うんうん考えて、
瑞月は答えた。

「あのね、
 何回も出会った気がして……
 決められない。」



その頬が
上気して眸が輝く。
その繰り返す出会いが
瑞月を美しくする様に
綾子は
壊れた物語がさらに砕かれていくのを
感じた。



総帥の視線は
綾子を射すくめんばかりに鋭く
その無表情は変わらない。



綾子は苛立った。

知りたかった。
その物語の始まりを。
自分が除け者となる物語は
どう始まったのか
知らずにはいられない気持ちだった。


踏ん張った足に
震えが走るほど力が入った。

「一番、
 一番初めだなって
 思った出会いよ!
 それって
 いつなの?」

「カナダにいた頃の公園で
 出会ったときだよ。」


綾子の
苛立ちに目を丸くしながら
瑞月は
今度は迷わなかった。


「会ったのはね、
 夏なんだけど、
 よく覚えてなかったりするんだ。

 秋にね、
 ぼく
 ナイフで刺されそうになったの。」

一生懸命思い出しながら話す瑞月は
目が思いを辿って
天井をさまよう。



「公園で、
 たくさん悪い人がいて、
 ぼく
 捕まってた。

 ナイフが光るのを見て
 〝ああ
  死ねるなー〟
 って
 思った。

 そしたら
 海斗が
 ぼくにかぶさってて
 ぼくの顔に海斗の血がかかったの。」

さ迷っていた目が落ち着き、
瑞月は
綾子に向かって微笑んだ。

「えっと、
 この時が出会いだと思うよ。

 海斗が
 〝後ろを見るな!
  走れ〟って言って
 ぼく
 走ったんだ。

 生きなきゃって思ったの
 そのときだから。」


答えは出された。
刃は
その答えを得て
ぎらつく光を収めた。


綾子は
しゃがみこんだ。
置き石の上に尻が突き出て
手は膝を抱え
膝に額を押し付けた。




着物姿で膝を抱えるなど
したことがなかった。
仁王立ちもしたことがなかった。

したことがないことをしないと
言葉も出せなかった。

したことがないことをしないと
今の自分から目を逸らせなかった。




綾子は
あの大画面を見たときのように
そこに展開される物語を
ただ見詰めるしかない客である自分を
感じていた。



何回も出会った
という二人の物語の一つが
あの祭儀だったのだろうか。


パーティーから帰った夜、
夢中になったまま
その気持ちをぶつけた。

〝鷲羽は
 特別な一族だ。
 その長となる者は
 その特別を背負う生き様をする。〟

祖父は
まず
そう言った。

〝素敵!
 だって絶対特別な方ですもの〟

綾子は
そう
応えた。
胸は憧れでいっぱいになっていた。

〝特別とは、
 素敵なものじゃない。

 特別に見えない単純なところが
 まあ
 特別に守らにゃならんものになるのさ
 
 綾子
 お前は
 人が一番大切にせにゃならんものは
 何だと思う?。


綾子は
それに何と応えたか
もう
覚えていない。


今、
その時の自分の言葉を聞いたら
自分は笑ってしまいそうだ。



綾子は本当に笑い出してしまいそうな自分に
驚いていた。

今の自分が滑稽だった。
膝を抱えて額を付けて
もう顔を上げたくなかった。




綾子は
そっと頭に置かれた手に
気づいた。

目を開けると
自分の膝の向こうに
白地に菖蒲の浴衣の膝が見えた。


「綾さん
 泣かないで。」

甘い舌足らずな声が頭の上に響く。



「泣いてません!」
綾子が顔を上げると
目の前に瑞月がしゃがんでいた。

二人膝を抱えて顔を突き合わせる美少女と美少年は
何とも愛らしくはあった。



「綾さん、
 元気出たー」

瑞月が笑った。


「だから!
 元気なくないですから!」

綾子はすっくと立ち上がった。
立ち上がって、
総帥と目が合った。


総帥の表情は
静かに
柔らかなものに変わっていた。


綾子が
憧れて
憧れて
その横に添いたいと願った人が
静かに灯りの中に踏み出す。



瑞月も
ぴょん
立ち上がり、
咲に手招きされて
つっかけに足を入れて土間に下りた。


咲は
弁当の籠とポットの説明を
瑞月に始める。

「……いいですか?
 このポットは二段に分かれてます。
 下はお茶です。
 あとね…………。」




その説明を背中で聞きながら
綾子は
総帥と対峙した。


間近に
自分を見詰める鷲羽海斗は
やはり夢のように美しかった。
胸がしくしく痛んだ。


「三枝綾子様
 お祖父様には大変お世話になっています。
 お帰りになりましたら
 よろしくお伝えください。

 当家におられる間は、
 行儀見習いとして遇するよう
 申しつかっております。
 礼を失することもあるかと思いますが
 お許しください。」


静かに
総帥は挨拶し
ゆっくりと頭を下げた。


「海斗!
 お弁当もらったよ。」

瑞月の声が明るく弾ける。


また
ぴょん
板の間に上がった瑞月が
海斗の手を引っ張った。


二人は
もう
洋館への通路に向かおうとしていた。


「あ、あの……」


二人がくるりと振り向く。

思わず呼び止めてしまっただけの綾子は
二人の顔に
言葉が詰まる。

「なあに、
 綾さん?」

瑞月が小首を傾げる。

 この子、
 ほんとに可愛い……。


綾子は
しっかり顔を上げて
口を開いた。


「人にとって
 一番大切にしなきゃならないことって
 何だと思いますか?」


言ってしまうと、
本当に
それが聞きたかったことのような気がした。
綾子は
鷲羽の長と月の精霊の答えを待った。



二人は顔を見合わせ、
優しく笑い合った。

「生きることです」
「生きることだよ」


そして、
会釈して踵を返す。
二人は
再び影となり角を曲がって
やがて
その気配も消えた。


「……生きること。」

綾子は呟く。

 お祖父様も
 そう仰有るかしら……。

また
しゃがみこみたくなっていた。




「綾さん」

咲が板の間に上がり
綾子を呼んだ。

綾子は
慌てて
咲を追う。


「さあ
 今度こそ
 休みましょう。」

きちっと
向き合って
咲は仕事の終わりを告げた。

「はい
 失礼します」

応える綾子に
咲は
向き合う。



「頑張りましたね。
 よく立ち上がりました。
 咲は感心いたしました。

 辛かったでしょうに。」


あら?
自分の頬を伝うものに
綾子は
驚いていた。

 …………涙?

泣かないって
さっき決めていた。

でも、
とめどなく流れる。




高遠様の悲しみが分かるから?

ううん
〝生きる〟って
分かってなかった私に
高遠様の悲しみはわからない。


滑稽な自分が恥ずかしいから?
そうかもしれない。
恥ずかしくて
恥ずかしくて
いたたまれない。



でも
でも…………。

〝三枝綾子様〟

王子様が
私の名前を呼んで
私に話しかけてくださった。

素敵な声
素敵なお姿

……本当に素敵だった。
本当に素敵だったんだもの。



綾子は
ぎゅっと胸が痛くなる。

甘くて痛い悲しみが
鷲羽海斗の面影と一緒に
ただただ胸を満たして涙となって零れ落ちる。



恋は叶わないこともある。



いつの間にか
綾子は
咲に抱かれ
その背を撫でてもらいながら
声を放って泣いていた。


母子像は
また意匠を変えていた。

聖母は少女の涙を拭い
繰り返し囁く。

〝いい子ね
 だいじょうぶ〟

 いい子ね
 いい子ね

 だいじょうぶよ
 だいじょうぶ


優しい夜は更けて行く。
台所に灯は点る。
屋敷を守る牙城は
〝生きる〟を支えて温かい。

イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。



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