この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。






お勝手の灯りが
ぽうっ
廊下の端を明るくする。


屋敷は生きていて
そこに暮らす者たちを
常に守っている。

食べるは生きる源ともいえる。
台所はその牙城だ。




ひそやかな女の声が
そこから
洩れてくる。


お下げ髪の
はっとするほど美しい少女が
結い上げた髪に
凛とした強さも艶やかな女性の膝に
手を置いて
見上げている。

咲に外されたのだろうか。
黒縁メガネは
竈の縁に乗せられていた。

母と娘、
と題される一幅の絵か。
そんな思いを抱かせるほどに
美しくもあり、
また、
少女は世の中を見るアドバイスを求めて真剣だった。



「…………とても深い目をなさって
 私、
 何だろうって
 思いました。」

「〝気持ち〟に
 打たれたのでしょうね。」

「瑞月さんの気持ちですか?」

「そう。
    たけるさんは、
    瑞月を大切に思ってくださいます。

    瑞月もたけるさんを
    頼りにしています。」

「……はい。」

「私は瑞月の母です。
    あの子を守り育てる覚悟は
    もっています。

    でも、
    敵わないのですよ。
    たけるさんに。」

「なぜですか?
    ここでは
    誰もが
    咲様の思うままに動きます。

   あの……海斗様も。」

ここで
真っ赤になるのは、
〝海斗〟呼びのためだろう。


咲は、
その羞じらいを愛しく思った。
そして、
ここで教えておかねばと決めた。


「綾さんも
 同じですね。」

「え?」

「三枝綾子様、
 これまで思うままにならぬことは
 なかったのではございませんか?」


綾子は、
はっ
顔を上げた。




〝謝ったじゃない!〟
反撃してくる瑞月も、
〝雑巾がけから頑張ろうぜ〟
遠回しにたしなめる高遠も、
立ち働く女衆も、
目の前の咲も、
自分の思うようになどならない。


そして、
思うようにならないからこそ、
綾子は、
今、
咲を頼りに思っていた。



〝大切なことは
 お嬢様には教えてもらえない〟

祖父の言葉を
何度も確かめる一日だった。




「……はい。
 みんなが私の望みを叶えてくれるのを
 当たり前に受け取っていました。

 でも、 
 ここで学びました。
 私は何もできない子どもです。

 恥ずかしゅうございます。」

綾子は、
心から素直にそう応えることができた。



咲はにっこりする。

「支えてくださる方々がいて、
 咲も
 ここで務めていられます。
 
 人の情けの有り難さ、
 よく
 お気づきになりましたね。
 咲は嬉しく思いますよ。」


綾子は
また頬を染める。
咲に誉められたことが誇らしく、
晴れがましかった。

「ありがとうございます。
 私も
 誰かを支えられる人間になりたいです。」

本題からは逸れたが、
綾子の成長は
喜ばしい。

基本、
とにかく前に進もうとする気概が
綾子の良いところだ。
一日の学びが
まるで冒険物語のように
綾子の胸をときめかしていた。

祖父を敬愛していた。
その威厳も
その見識も憧れるに十分だった。

が、
こうして
女衆の中で
笑われては納得し
納得しては
また疑問符の山に埋もれて過ごした一日は、
新たな師として〝咲〟を
確固とした存在にしていた。

一部
代打もあったが、
それはさしたる問題ではない。
綾子も女衆も咲と思っている。




「綾さん、
 綾さんは、
 綾子様に戻られたなら
 多くの人があなたの願いを叶えるために
 動いてくださいます。

 今のお気持ちを忘れないでくださいね。
 きっと素敵なお嬢様になられます。
 私どもも
 お預かりした甲斐がございます。」


ますます頬は紅潮し、
綾子は
未来を思い描いて眸を煌めかせる。

もう
先程の疑問符は忘れたかに見える。
それなら
それでよし
咲は考えた。


「では、
 もう遅くなります。
 お休みなさい。」


「あ、
 あの、
 高遠様は……。」

綾子は
慌てたように言葉を継いだ。
その眸は、
疑問といくばくかの心配に
また光を変えていた。


瑞月の切なる声と
高遠の深い眸が
気になるのは変わらないらしい。


咲は
心中深くため息をつく。
自らも投げ掛けた問いだが
そこに
気づく子かどうかは
また
別の話だった。


学んだ。
そして、
その先を知ろうとする。
もしかすると…………。

その深い眸に
この子は
波を起こすかもしれない。


咲は
何事においても勝負師だった。




咲は
優しく切り出した。



「他のことなら
 瑞月も
 高遠さんも
 咲を頼ってくれます。

 でも、
 先程の瑞月には
 高遠さんしかいませんでした。」


「あ…………。
 はい、
 そうでした。」

綾子は
改めて思い出す。


〝たけちゃん〟

一声に万感こもる切なる願い。
その呼ぶ声に
身代わりはなかった。


 その人だけを求める声……。



綾子は
咲を見上げる。



その顔を見返しながら
咲は
切り出した。

「瑞月は、
 たけるさんと四年間を過ごしました。
 
 この冬再会したのです。
 瑞月は、
 たけるさんに
 絶対の信頼をもっています。

 それは、
 高遠さんが
 いつもいつも
 本当にどんなときでも
 自分を守ってくれるというものです。

 四年間と
 ここでの数ヵ月。

 きっと
 さっきは
 自分ではどうにもできなくて
 でも
 何とかしたくて
 たけるさんを呼んだのでしょう。

 困ったとき
 辛いとき
 たけるさんは必ず助けてくれるから。」


綾子は
胸が少しちくんとした。
瑞月は綺麗な男の子だ。
美に不感症なのは
綾子も負けないが、
そのくらいは分かった。


「とても良いお友達なのですね。」

少し早口になる。


「はい
 この上なく。」

その早口を面白く思いながら
咲は
綾子の伏せた目を横目に確かめた。


「良いお友達なのに
 どうして、
 高遠様は
 悲しそうな目をなさるんですか?」

綾子の中で
深いが
悲しいに
変わっていた。


探していた言葉は
悲しいだった。




咲は続けた。


「人の心の奥底に
 もう一つ心があります。
 それは、
 本人にも自由にならないものです。

 
 誰かを
 心の底から求める気持ちは
 その人本人にすら
 自由にはなりません。

 ただ湧いてくるのです。

 瑞月は、
 本当に湧いてくるままに
 たけるさんを呼んだのでしょう。

 そして、
 たけるさんは
 応えました。

 ときに
 とても苦しくなり、
 捨てたくなっても、
 求める気持ちは消えてはくれません。」


 瑞月さんは高遠さんを求めて
 高遠さんは瑞月さんが大事……。
 え?
 何が苦しいの?

綾子は
自分の気持ちに苦しむ経験がない。
また、
その思いも単純だった。

瑞月は
高遠に思われている。
そして、
瑞月は高遠を求めた。


「お二人は、
 思い合っているのではないのですか?
 お互いに大事な人で、
 それは
 幸せなことではないのですか?」

声が
思わず高くなる。

 あら?
 なぜムキになってるんだろう。

綾子は自分の心が分からなかった。




「ええ。
 幸せと思います。

 幸せとは、
 その人の生き方に決まります。
 たけるさんは、
 どんな選択もご自分の大切に照らして
 なさいます。
 そして、
 自分らしく生きておられます。


 幸不幸は
 人により違いますから
 一概には言えませんが、
 たけるさんのような方は
 ご自分らしく生きることが
 何より大切なのではないか。

 そう思いますよ。」


綾子は
胸が
また痛くなるのを感じた。

雑巾をもって
明るく笑いかけてくれた顔が
思い浮かぶ。

 これって
 あの方が……幸せってことなの?



「大切に思うって、
 何を…………。」

言いかけて、
綾子は止まった。

聞くまでもなかった。



「瑞月です。
 瑞月もたけるさんを求めています。
 ただ、
 たけるさんの望む形では
 ありません。

 だから、
 眸は深くなります。」


あの声に
あの厳しい顔。
そこに確かな絆があった。

それが綾子には
絶対だった。
胸が痛むくらいに
確かな二人の思いを感じていた。



「…………わかりません。
 何が違うのですか?」

咲は
綾子の眸を覗き込む。


「瑞月の好きは、
 その人と
 身も心も一つになりたい。
 そういう好きでは
 ないからです。」

綾子は
戸惑い
考え
それから真っ赤になった。


「あの……あの…………、
 高遠さんは……その……瑞月さんを……
 いえ、
 瑞月さんに……キスしたいんでしょうか。


咲は応えなかった。
答えを必要とする質問ではなかった。

綾子は
もう
答えがないことに気づきもせず、
夢中で自分の考えを追っていた。



「瑞月さんは男の子……。
 あ、いえ、
 私、
 そういう区別はないって
 思ってます。

 でも、
 とても……あの……」



カタン…………。

「海斗、
 早くー」
…………
「あん
 いじわる」


混乱する綾子を他所に
咲は立ち上がった。

綾子は振り向いた。
廊下の向こうからこちらに向かってくる気配が
伝わってくる。

聞こえてくる声は
瑞月のそれだった。


角を曲がる。


寄り添う影は
一つに溶け
互いに
互いを求めて甘かった。



イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。


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